#97




今の今まで、快斗君は私の膝元に居たはずなのに。

驚く私に、キッドさんの声がかかる。



「──今宵は、良い月ですね」


なぜか、切なげに聞こえる、そんな言葉と共に。
すっと差し出される、白い手袋越しの手のひら。

反射のようにそこに手を伸ばすと、ベランダへと導かれた。







不思議なくらい静かな夜だ。
車の通る音も、周りの喧騒も聞こえない。しんとした夜。


カーテンの隙間から見えた月は、ベランダに出て直接みると、白き光を湛えた、まんまるい月で。

その姿を隠す雲も、今宵は見当たらない。



「本当、月がきれい…」



私がそうつぶやくと、キッドさんが役者めいた動きで、恭しくお辞儀をした。



「一つ。私の魔法にかかっては下さいませんか?

──暗闇の中、この、綺麗な月が夜空を照らす、その間」




そう、マントを広げて、階下の方を指し示して。

私がそこに視線を移すと、パチリと指を鳴らす。




その瞬間。

マンションの下。その道端にわざとらしく置いてあったカボチャが、セダンの黒い車に。
そして、カボチャの隣にいた鳩が、シルクハットを深めに被った老紳士へと変貌した。



え、と驚く私に、キッドさんが言葉を続ける。



「さあ。3秒、目を閉じて数えて?」



言われるがままに目を閉じて。



ワン

ツー

スリー!




キッドさんの声と共に、再び目を開くと。
部屋着だったはずの私が、クチュールレースの、裾がふんわりとしたドレスワンピ姿に変わっていた。


そのまま頭が白いスカーフで覆われて。視界がまっしろになる。

でも、すぐにふわりと視界が開け。
首元がすーっと風を感じるので、どうやらアップスタイルにされたみたいだ。


そして。首元にはひやりとした感触。
キッドさんのシルクの手袋越しの指が、首の後ろに回されて。

チャリ、という音を立てて。
私の首元に、クリスマスに快斗君にもらったネックレスが付けられる。


まるで、シンデレラにかけられた魔法のように。
あっという間にドレスアップされた。



くるり、と思わず全身を見渡して。
すごい、とキッドさんを見やると、どこか眩しそうに細められた瞳とかち合った。




「──どうか。孤独な魔法使いに、ひと時の夢を、見せては貰えないでしょうか」





黒のシルクハットに、燕尾服。丸メガネのサングラスをかけているけれど。
セダンの扉を恭しく開けた運転席の紳士は、きっと寺井さんだろう。



「…本当に、シンデレラみたい」



こんな。可愛いワンピドレスに、隣には魔法使いのようなキッドさん。
わざとらしく置いてあったカボチャが、紳士付きの黒のセダンになって、そこに乗り込んで。



──そして、多分きっと。
シンデレラのように、朝には醒めてしまう、魔法。



ぎゅ、と隣に座る白い怪盗の裾を思わず握りしめると、気付いたキッドさんが、ぎゅ、とその手のひらを包み込んだ。

私にしか聞こえないような小声で、耳元に唇をよせ、キッドさんが囁く。



「──お城、というわけにはいきませんでしたが。私のシンデレラを『海の音が聴こえるホテル』に、ご招待しても?」



それは。皆ですき焼きを食べた日。
酔っ払った快斗君が言っていた、ロマンチック初夜のシチュエーションだ。

クリスマスの日は失敗に終わったし。
もしかして未だに気にしていたのかな、と。気障な台詞も相まって、思わず笑ってしまった。



わざわざキッドさんになって。
こんな、寺井さんまで協力してもらって。


──今思うと、耳かきも。


まるで、離れる前の思い出作りみたいじゃないか。
















ぱたん。

とびらが閉まる音と共に、意識が浮上する。

しばらく寝ていて。と、頭を優しく撫で付ける掌の誘惑に、本当に意識が朦朧として。
抱えられてここまで来たのだと、眼前にキッドさんの白いタキシードが見えて理解した。

きっと、ここは、言っていたホテルなのだろう。


モダンな調度品が設えられた、全体的に落ち着いた雰囲気の部屋。


ふわり、とカーテンが舞い。

さざ波の静かな音が聴こえた。



──ああ。本当に海の音が聴こえるんだ。





ふわり、とベッドに座るように降ろされて。

その私の下に跪く騎士のように、キッドさんが膝をついた。



「少しばかり、日本を離れます。…これは、私が自分でやると決めたことで。もしかしたら、馬鹿みたいに無謀なことかもしれない」


モノクル越しの蒼い瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げて。



「──でも。それは、私が決める事だと。貴女は言ってくれた」



そう、澄んだ声色で、キッドさんは告げた。



──何か、理由があって怪盗をしているのなら。それが馬鹿みたいかどうかは、自分で決めないと。


私が、あの日。
ベランダへと舞い降りたキッドさんに伝えた言葉だ。



やっぱり、遠くに行っちゃうつもりだったのだと。
どこか頭の奥で感じてた漠然とした不安とか、どこかそわそわとした心地が、すとんとそこに落ちて。


覚悟を決めた男の人の重みが、そこにあった。

その重みに、心臓がぎゅ、となる。



「──っ、」



何か。言わないと。そう思うのに。
言葉が出てこない。



頑張って。
行ってらっしゃい。

キッドさんなら大丈夫!


──嫌だよ。無茶しないで。

…ねえ。行かないで。





そのどれも、その通りな気がするし。
そのどれも、違う気がして。




「…手のひらを、出して?」



右手を差し出すと、ゆっくりと重ねられる白い布地越しの手のひら。
硬い感触が、指を包む。


小さな箱が、手の中にあった。


「──、え」

「開けてみて、くれますか?」



言われるがままに箱を開けると、シルバーの、クローバー柄の小さなピアス。
片方は葉っぱだけだけど、もう1つは茎が付いていて。その先端に、小さなパールが1つ。



「…ぴあ、す」


しかもすごく可愛い。
これはもしかして、また、クロバ印の世界にたった1つの手作りの品だったりするのだろうか。
すごい。相変わらず、可愛い。すごい。


でも。


耳に穴を開けたとして。
私の体質だと、すぐ穴も戻ってしまうだろうから。

ピアスなんて、出来ないだろうと、諦めてた。


そして。
それを、キッドさんも理解しているはずだ。


なのに…?

私の疑問に、キッドさんが気付いたのだろう、苦笑を零した。



「──本当はさ。ホワイトデーの日に、プレゼントしようと思って用意してた。杏が、普通に過ごせるようになったとしたら。杏の身体につく、最初の傷は、さ。俺の作ったピアスだったら良いなって、ものすげぇ自己満なんだけど」


そう考えたら、もう、予約済みっちゅー感じで、先に渡しときたくなったんだ。


そう、快斗君の口調に戻ったキッドさんが、ゆっくりと語り出した。