#98
「まあ、あれだ。ホワイトデーは色々あったし、タイミング逃しちまったのもあんだけど。渡せる機会は、他にもあったのにな。旅行ん時にも、良い機会だから、これ渡して、ちゃんと今回のこと言おうって思ってたんだけど…なんでか、言えなくてよ」
ぽりぽり、と頬を掻きながらこちらに向かって、情けねぇよな、って笑う。
その表情は、キッドの格好をしてても、快斗くんそのもので。
「なんつうか。泣き顔はもちろん、俺だけが見てぇんだけど」
こちらを見つめる視線は、いつもの勝気な瞳とは、どこか違っていて。
ゆらゆらと蒼い光が揺れている。
「絶対泣くだろうと思ったら。泣かせたくねぇって。…んで、結局今んなっちまって。ごめんな。ギリギリまで、言えなかった」
ああほら。もう泣きそうになってる。
そう、私の目元に、シルク越しのゆびがそっと触れた。
──私の身体が、普通になったら。
貴方が何かを決意して、どこかへ行く。
その前に。
こんな。
まるで願掛けのように、渡すなんて。
「──すこし、かんじてた。ね、私?私の、せ…ために、どこかへ行くの…?」
私の問いに、困ったように眉を下げて。
しー、と。
目元に触れていた人差し指が、そのまま口元に触れた。
「全ては、私の目的の為です。──だから、そんな顔しないで」
自分がどんな顔をしてしまっているかも分からない。
馨ちゃんなら、綺麗に笑って、好きな人を安心して送り出してあげれるだろうか。
──師匠、すいません。
私にはまだ、一番の笑顔で、笑って見送ることなんて、難しいみたいです。
「──私には、絶対に盗み出さなきゃならない宝石があって。その為に、行くんです。少しばかり、大仕事で──しばらく貴女の元へ戻れない。…だから」
そこで、モノクル越しの蒼い瞳が、私を真っ直ぐに見上げた。
凛とした、吸い込まれそうなその瞳。
その蒼い瞳に映る私は今、どんな顔をしてるんだろう。
「──少しでも、キッドとしての『私』を。貴女に刻みつけたい」
そのまま、肩に手がかかり。
キッドさんの唇が、下から私の口元へと重なるまで、あと数センチ。
触れるか触れないかのところで私は、やっと言葉を出した。
「──つけて」
「…え?」
「ピアス…付けて」
「いや、だからそれは、おめぇの身体が──」
「…お願い。今。貴方の手で、私の身体に刻んでいってよ…」
困らせたいわけじゃないのに、明らかに困惑させてしまっている。
でも。
快斗くんが──キッドさんが。
私のそばに居たのだと。
痛みでもなんでもいいから、そばで感じていたい。
「──っ…多分、付けてる間、ずっと痛ぇぞ。ヤバかったらとっとと外す。いいな?」
無言でこくりと頷くと、がさごそと何かを探し始めた白い怪盗紳士。
冷凍庫から、氷を持ってきて「一応一緒に用意しておいてよかった…」とひとりごちりながら、ピアッサーをその手にかけて。
「冷やしたとしても、耳も上手く感覚麻痺しねぇかもしんねぇ。…いてぇぞ。きっと」
耳を冷やし、耳たぶを揉まれながら、そんなことを言う。
今ならまだやめれるぞ、とそのモノクル越しの蒼い瞳が訴えているのは、すごくわかるんだけど。
これくらいの我儘くらいは、許して欲しい。
今だって、泣いて縋り付きたいのを、必死で堪えているんだから。
「…お願い」
私の言葉に、諦めたように、深い息をひとつ吐いて。
「…感覚は?」
「多分、大丈夫」
「…じゃ、とっとといくぞ」
キッドさんのモノクルが、目の端にかかる。シルクハットのつばが、米神のあたりに触れた。
耳元で、かち、と音がする。
ぎゅ、と瞳を閉じた瞬間。
ぶちん。と音がした。
最初、痛みは感じなかった。
手早く反対側も同じように処置したキッドさんが、こっちもやれそうか?と確認してくるのを、無言で頷いて。
そうして、あっという間に私の両耳にピアスが付けられた。
「──見て、みたいな」
私の言葉に、どこから出したのか、手鏡が渡される。
ああ。すごい。
さすが快斗君だ。可愛いピアス。
クローバー。
キッドさんのモノクルのチャームと、同じ柄。
この、クリスマスにもらったネックレスも、だ。
──あの時は気付いてなかったけど。まるでキッドさん色に染められてるみたい。
米神に響くように、だんだんと痛み出してくる、耳の痛み。
ずきんずきんと、耳に穴を開けた部分を修復しようと、それを邪魔するピアスを肉が押し出すような、そんな痛みが耳たぶを覆ってる。
「──大丈夫か?」
こちらを伺うキッドさんが、ポーカーフェイスをどっかに置いてきたみたいに心配気な顔をしているのが、少しおかしくて。
今、私の目の前にいる快斗君は、キッドさんとしてここにいて。
月を背負うキッドさんも。
お日様みたいな快斗君も。
ねぇ。たまらなく、あなたが好きなんだよ。
「──平気。ふふ。すごく、可愛い。…嬉しい。キッドさんと、お揃いだね」
私がそう、不器用に笑った瞬間。
唇を奪われた。
「っ、…んっ」
それはひどく、やらしいキスだった。
いつもの快斗くんのような激しさは無く。
ゆっくりと、味わうように。じっとりと口内を蹂躙されて。
じくりと熱が、お腹の下のあたりに燻っていく。
「耳の痛みなんて忘れるくらい、感じさせますから」
緩やかに離れた唇が、キッドさんの口調や空気感に戻って、半月のような弧を描く。
不敵な笑み。
ぞくりとするような、色気の篭った蒼い瞳が、そこにあった。