「──快斗君、大丈夫かい?」
「──あ、は、はい」
話の途中で声をかけられ。気付けば、手をきつく握りしめていた。
手袋がしっとりと濡れていて、汗をかいたのがわかる。
背中もひんやりとしている。
空調の効いた室内で、だ。
どうやら、親父は既にパンドラを手にしていたらしい。
『ピンク バーヴ』といういわくつきの宝石の名は、俺も知っている。
確か、所有者とともに海の底へと沈んだって話だった気がするが…。
親父が情報操作でもしたんだな。
そして。
目の前のこの人は、親父の協力者だったという訳か。
味方だとわかってほっとしてもいいはずなのに、胸騒ぎが消えない。
ドクドクと心臓は未だにせわしなく動き。
きっと、今からが、パンドラがどうなったかの本題で。
なぜ、親父はパンドラを見つけたはずなのに殺される間際まで宝石を盗み続けたのか。
まだ、わからないことだらけなのに。
なぜだろう。
俺は、この先を聞くのを怖れている?
「じゃあ、続けようか」
俺の表情を、どこか辛そうに見つめながら、博士は再び語り始めた。
──────
「人間の体組織に、ピンクバーヴを埋め込む。循環する血液、体細胞の働きにより、パンドラから発せられていると思われる磁力のような──仮にγ派とでも呼ぼうか。その、γ派を和らげることが可能なはずだ」
僕の発案に、黒羽は片眉を上げた。
「お前が言うんだから、間違いはないと思うが──この、掌大ほどの宝石をどうやって体内に?外科手術でもしないと無理じゃないか?誰か信頼できる外科医は?そして、外界へのその、γ派ってやつの影響は減るかも知れないが、組み込んだ体内でどんな影響が起こるか──」
「だから、無謀な案として、だよ。闇外科医に金でも積んで、僕の身体に埋め込んでもいいけど、闇外科医はどこでそういう権力者と繋がっているか」
「お前が、俺の身体に手術を行うのは?」
「僕は医療の知識はあるが、圧倒的に経験不足だ。助手もなく一人で麻酔から何から?お前、下手すりゃ死ぬぞ」
「じゃあなんでその案出したんだ」
「他に思い浮かばないんだよっ」
埒があかない。そう、二人で溜め息を吐いた時だった。
ガラリ、と研究室の扉が開く。
立ち入り禁止にしてたはずなのに。ば、と後ろを振り向くと、そこにはやんわりと笑みを称えた、僕の奥さん──桃乃が立っていた。
「え、なんで…」
「夜食届けようかと思って。はい、サンドウィッチ」
「あ、ありがとう」
「黒羽さん、お久しぶりね。千影は元気?つわり、少しは良くなってる?」
「あ、ああ」
聞かれていたかもしれない。
どこから?
そんな思いが2人にあって。
ろくな返事ができなかった。
桃乃はサンドウィッチを僕に渡し、キョロキョロと辺りを見回して。
ピンクバーヴを、その手に取った。
「これ、かぁ。ごめん私、千影から話聞いてたんだ。旦那を巻き込んでごめんって謝られたわ。私だったら知らないままでいるのは耐えられないからって教えてくれてね。私、一緒に戦わせて、って言ったわ。と言っても、私に何が出来るかなんてわかんなかったけど」
「──桃、乃?」
僕に向かってにっこりと微笑んで。
「私だったら、呑み込めるわ」
「ばっ!」
「なにを…!」
その時の僕たちの慌てようったら酷かっただろう。
そんな僕たちを意に介した様子もなく、桃乃はピンクバーヴを口から呑み込んだ。
桃乃は、元サーカス団員で。
剣の丸呑みの名人だったから。掌サイズの宝石くらい、なんなく呑み込めていた。
「さて。これで当面はなんとかなるでしょう?あとは、よろしくねお2人さん」
平然とした顔で、そんな風に言われてね。
僕たちの話を聞いていて、そんな態度を取れる桃乃に、敵わないなぁ、と心底思ったよ。
慌てて身体検査を行ったけど、桃乃の身体に異常はなく。
γ派も検知されなかった。
当面はなんとかなる。
あとは、破壊方法を見つけるだけだ。
そんか希望が見えていたんだよ。
あの、瞬間。僕たちには。
──あの時、既に。
桃乃の中には小さな生命が宿っていた事に、僕たちは気付いていなかった。
──────
そこまで話して、博士は泣きそうな顔でこちらを見た。
眼鏡に映る自分は、モノクル越しでも分かる程顔色が悪くなっていて。
──パンドラを呑んだ母親。
ドジばかり起こす杏。
異常な再生能力。
導き出された事実に、目の前が真っ暗になる。
「──快斗君。君は、聡い子だ。ここまで話せば、わかってしまっただろう?」
「──パンドラ、は、杏の、中に」
言葉が上手く紡げない。
喉がカラカラに乾いていた。
だって。そんな。
──杏っ!
頭に浮かぶのは、杏の屈託のない笑顔で。
「…暫くは、何もない平和な時期が続いたんだ。研究室での不具合もなくなり、黒羽もピンクバーヴについて誤情報を浸透させ、パンドラのありかは所在不明のままと認識されていき。そうやって研究を続けていけば、解決できる、その筈だった」
再び博士が語りだしたのを、俺はどこか、焦点の合わない視点で見つめていた。
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