#55
さあ。いよいよ困ったぞ。
目の前にはもぐもぐと生姜焼きを頬張る快斗君。
今日も今日とて、私のお家でご飯を食べているんだけど。
生姜焼き好きなのか、黙々と食べている。
ご飯けっこう炊いておいて良かった。もう二杯目のご飯が底を尽きそうだ。この勢いならまだ食べそう。
こんな状況で。毎日来るのも、ご飯目的だけで来てんじゃないかっていう今の快斗君に対して。
…どうやってこちらから攻めればいいんだ。
緑水さんのアイデアは1000%却下だし。
あんなん痴女通り越して変態だよ。
馨ちゃんのも、初心者には厳しい案件だ。
押し倒せって、どうすりゃ押し倒せるの。むしろチューすら自分からしたことないよ!どう仕掛けるのさ。
雰囲気とかは?タイミングとかも。どうやって唇に狙いをつけれるの?
そこんとこ、詳しく教えてかおえもーん!
悶々と痴女丸出しのことを考えていた私に、快斗君は添え物のキャベツを食べながら、「どーかしたか?」と首を傾げている。
う、その角度可愛いな。あざとくないか、快斗君め。
きゅんと胸を高鳴らせていると、快斗君がにっこり笑っていた。う、またも可愛い。
ああもう、なんか快斗君にキラキラフィルターがかかっている。
こんなキラキラした人に、私の脳みその中、とてもじゃないけど見せられそうにない。
「杏、生姜焼きすげえうめぇわ。また作ってな」
そんな笑顔が見れるなら毎食だって作ります、はい。
ローテーブルで食後のコーヒーを飲みながら。私の居場所は最近ではすっかりお馴染みの快斗君のお膝元。
一緒に芸人が各国の祭りに参加するバラエティ番組を見ているのだけど、もちろん私の頭には全くと言っていいほど入ってこない。
…この体勢から、押し倒せるものなのだろうか。
ちらり、と後ろで私を抱え込んでる快斗君を見遣る。
げらげらとテレビを見て笑っている彼は、私が今しようと思ってることなんて、全く頭になさそうだ。
どうやら、牡蠣の大食い競争祭りに参加した芸人が、勢いよく食べて勢いよくリバースしたようだ。画面がモザイクでキラキラしてる。
ツボに入ったのか、やべぇーうける!とお腹を抱えて笑ってる快斗君。
…ちっ。人の気も知らないで。
思わず心の中で舌打ちをひとつ。
こんな快斗君の状況では、押し倒すのは無理そうだ。
しかも後ろにソファーがあるし。こんなん快斗君押しても倒れそうもない。
…チューなら仕掛けられるかな。
こう、振り向き様にちゅ、とやればいける?
ついつい、口元に目線がいってしまう。
薄い唇。笑った口元から覗く、赤い舌。
その唇が柔らかくて、その器用に動く舌が私を気持ちよくさせることを、私はもう知っているんだ。
…って、うわ。何考えてんの私!!
ぶんぶんと首を振って。熱が集まってきたであろう頬を手で押さえる。
「…杏、何やってんだ?」
一人で笑っていたくせに、私の様子を訝しむ快斗君に、あはは、と笑って誤魔化した。
──無理だ。
こっちからちゅーとか、私にはレベルが高すぎる。
「じゃーな。明日はちいと用事あっから、また明後日来るわ」
玄関先で。快斗君はそう言って私の頭にぽんと手を置いた。
上目で快斗君を見遣ると。また、最近多いあの表情になっていた。
私を映しているその瞳で、貴方は何を思っているのだろう。
──おい。このままでいいのか、浅黄杏!
お前の思いを、行動で示せ!
そう自分を発奮させて。
私は私の頭に乗っている快斗君の手首をぐい、と下方へ引っ張った。
自然、バランスを崩してこちらに傾く快斗君の唇目掛けて、つま先を伸ばしてぐぐっと顔を近づけて。
勢い良くぶつけたそれは、歯が当たったのか少し唇に痛みが走った。
舌を入れるとか、そんなところまでする余裕もない私は、ばっ、と身体を離し。
呆然とした表情でこちらをみる快斗君に、びしりと指を突きつけた。
「週末、快斗君の家に行きたい」
「え、あ。いーけど」
まだ驚いているのか、反応の薄い快斗君にそのままたたみかける。
「──そういうつもりで行くので!覚悟しといて下さい!!じゃ!」
快斗君が何か言う前に、彼の背中を押して玄関の扉から締め出した。
つまり、完全なる言い逃げでヤリ逃げだ。
なんてヘタレな私。
ずるずると、玄関先の扉の前で座り込む。
…痴女だと思われただろうか。もう少し色っぽく攻めたかったのに。何だこれ。何してんの私。
キスと呼べるものでもなかったよな、アレ。
その気にさせるって、これはその気にならないでしょ。
…死にたい。
頭を抱えていると、コンコン、と扉越しから音がした。
「──まだそこにいるか?」
少し掠れ気味で、快斗君の声がした。
追い出されたような形で別れたので、怒ったかな。
ヤリ逃げ女と罵られたらどうしよう。ドキドキしながら、返事を返す。
「…うん」
「っ、あー、あれだ。──泊まる?」
顔は見えないけど、どこか期待しているような声に聞こえたのは、私の願望からそう聞こえただけかもしれない。
もしかしたら、そんなこと言われても、と困ってるのかもしれないけど。
それでも、ここを逃したらダメな気がした。
「うん」
私がきっぱりと意思を込めて言い切った瞬間。
急に、背中を支えていた扉が消えた。
ぐらり、と倒れそうになった身体を、支える力強い腕。
快斗君が開けたのだとわかった瞬間、座り込んでいた身体を起こされ、玄関先へと連れ込まれて。
「──ふっ、んん」
壁に追いやられた途端、噛み付くようにキスをされた。
口内を蹂躙する快斗君の舌に、喜び跳ねる分かりやすい私の心臓。
だって、ずっとしてほしかった。
寒い玄関先だからか、触れ合う舌と舌が、とても熱く感じる。
気持ちいい。嬉しい。
そんな思いが、舌先から快斗君に全て伝わっている気がする。
軽く唇が離れ、ふ、と笑う息がかかる。こつり、とおでことおでこがくっ付いた。
「ほんっと、杏は俺を振り回すのが上手いよな」
ぐりぐりとおでこを擦りつけられて。
蒼い瞳の下は、少し紅くなっている。
その事に驚き目を見開くと、再び舌が入り込んできた。
歯の裏側まで舐め上げられながら、気持ち良さに崩れそうになる足を支えるように腰に回されている手に力がこもる。
「っ、ふ、あ…」
合間に漏れ出る私の声は、媚びるように甘えていた。
翻弄されているのは、私の方だ。
こんな、全て奪い取るようなキスをするくせに。
ねえ。快斗君は今、私のことだけ考えてるかな。
私のよく分からない不安が、キスで溶かされていけばいい。
一緒になれれば、少しは安心出来るのかな。
漠然とした、ひとつになりたいという思いでこんな誘いをかけた私は。
実際の行為が、この時の私をぶん殴りたくなるほど恥ずかしいものだと知ったのは、快斗君の部屋の天井を見上げていた時で。