#62





真っ白な天井が目に入る。眩しさに、目を細めた。


そのままぼんやりと目を凝らすと、白衣を着た赤毛の美女が目の前に居た。何やら真剣な表情でモニターを眺めている。

「…え?」

一瞬状況が理解出来ず、思わず掠れた声が出た。
私の声に素早く気付いたその人が、こちらに向き直った。


うわあ。本当美人。でもなんか髪型といい、瞳の色といい、哀ちゃんに似てるなぁ。

安心したようにこちらに微笑みかけるその表情なんて、まさしく哀ちゃんのよう。


「良かった。目が覚めた?自分の名前言える?」

「浅黄杏」

「生年月日、両親の名前は?何があったか覚えているかしら」

質問されるがままに答えながら。
自分がなぜここにいるのかを、なんとなく理解していく。

三人でチョコ食べてて…そうだ。私包丁で刺されて。

って、思い出したら痛くなってきた…!


「痛い?」

「…っは、い」

「…痛み止めと栄養剤の点滴を入れてるけど、やっぱり痛み止めの方は効きが良くないわね」

思案するような表情。お医者さんなのだろうか…というか、2人はどうしてるの??馨ちゃんは、無事!?

考えていると、ぐらり、と視界が揺れた。




…端的にいうと、やってしまった。

胃液って、すごく苦いよね…。

綺麗なこの人が、すばやくサイドテーブルに置かれていた洗面器を取り出してくれたので、大惨事は逃れたけど。

今の吐き戻した動きがお腹に響いて痛いし。気持ち悪いし。
神様にごめんなさい許してくださいと謝りたくなるくらいしんどい。


上半身を起き上がらせて、水で口をゆすがせてもらい。なんとか一息ついた。

あーうー。なにこれ、本当しんどい。



「麻酔の副作用もまだ残ってるのね…。せっかく目が覚めたけど、まだ彼らと面会しない方がいいかしら」

あの人達、でも目が覚めたってだけで押しかけて来そうよね…しばらく黙ってる?


そうぶつぶつ呟く様子が、やっぱりどう考えても哀ちゃんそっくりで。
初めて会った気がしない…。




「あの、もしかして…」



思わず、言葉をかけようとしたところで、バタン!!と勢いよく扉が開いた。







「杏!!目、覚ましたのか!?」


慌てた様子で部屋に入ってくる快斗君に、女の人が呆れた顔を向けた。


「──よく目を覚ましたってわかったわね。まだ面会謝絶も取れてないし、今しがた目が覚めたばかりなのに。…どこかに盗聴器でもしかけてたのかしら」

「ま、まあまあ志保ちゃん。…本当に起きてる」


ゆっくりと私に近づいてくる、その瞳の下にうっすらと隈が見えた。



──心配を沢山かけてしまったみたいだ。

快斗君、長野にいたはずなのに…びっくりしただろうな。

申し訳なさに胸が苦しくなる。


「…よかった」


安心したように、私の頬に手を添えて。
快斗君の冷たい指が、ひんやりと私の火照っている顔を冷やす。


「…心配かけて、ごめんなさい」


謝りながらも、冷たくて気持ちいいな、と思わずその手に擦り寄った。


「…杏、その仕草すんげー可愛いんだけど、この場所でそういうことすんのやめて。我慢効かなくなっちまう」


ただでさえ目ぇ覚めたってだけで俺もう、色々限界なのに。

そんな風に耳元で伝えられて、思わず顔をばっと離した。
急に動いたので、お腹に痛みが響き、顔を顰めてしまう。


「…!っ!」

「わ、げ、わりっ…」

「…黒羽君、貴方限定で出禁にするわよ?」

「志保ちゃん…ご勘弁を…!」


絶対零度の声が聞こえ、快斗君が固まった。
それでも私のそばから離れる気はないらしい。しっかりとベッドサイドの椅子に座り込んでいる。


「…まったく。いい?杏さんは痛み止めがやっぱり効きにくくて。まだ痛みが強いんだから、安静にしないといけないの。麻酔の副作用の嘔吐感も残ってるし。とりあえず重湯の用意と、浅黄さんに意識が戻ったこと伝えてくるのと──そろそろこの身体もリミットだから一旦出て行くけど。杏さんにいかがわしいことしないようにね」


いかがわしいことって!
思わずその言葉に1番に反応するが、途中である事に気づく。


…身体、リミット?


私が疑問に感じていることに気付いたのか、志保と呼ばれたその女性は、私に微笑みかけた。







「…本当、意識が戻って良かった。応急処置とは言え、腹部に包丁が刺さった状態で意識を保つのは大変だったでしょう?無茶なこと言ってる自覚はあったわ──よく、頑張ったわね」


──いい、死ぬ気で我慢して。


真剣な表情で私に告げた哀ちゃんのそんな言葉が、脳内で再生されて。


「…哀、ちゃん…?」



私の言葉に応えはせずに、ただにっこりと微笑んで、志保さんは出て行った。




え、うそ。
そんな漫画みたいな…話…え?





「杏」

私がぐるぐると考えていると、名前を呼ばれた。
視線を合わせると、いつも勝気な、私の好きな蒼い瞳が揺れていた。


ぎゅ、と握られた手に、力が篭る。
思っている以上に心配をかけたんだろう。
こんな萎れてるような快斗君、今までみたことない。

申し訳なさに心がずーんと重くなる。



「…気持ち悪りぃのは?」

「今は、平気」

「──腹に響かねぇようにすっから、抱きしめていいか?少しだけ」



私の返事を待たずに、快斗君は私を包み込んだ。

まるで、空気が触れているかのように優しく。

掻き抱くように痛いくらいに抱きしめてくれればいいのに。
そう、自分の身体のことを無視して思ってしまうくらい、それは酷く優しい触れ合いで。

ドクドクと音を立てる心臓は、快斗君のものだ。

普段私を抱き締めてくれるときに聞こえる音より、幾分早く、大きく聞こえる。


ただでさえ過保護なこの人に、どれだけの心配をさせてしまっていたのだろう。

その想いに胸が酷く締め付けられた。





「…ちゃんと意識戻るはずだって聞いてはいたけど。寝てる間、生きた心地しなかった…本当、目覚めてよかった」

「…ごめん」

「謝るくらいなら、もう二度とすんな」




真剣な声色が頭上から響いた。
それは少し、怒りに震えているような声で。

そりゃ、私の無謀な行動に怒ってるよね。やっぱり。



こんなことはもちろん早々あってたまるかって話なんだけど。


でも。簡単にその言葉に頷ける話ではない。

身を守る術も知らないのに、簡単に危険に突っ込んでしまったのは。
もちろん馨ちゃんを守りたいっていう一心のことだ。


でも、それに加えてきっと。
自分の身体を過信しているから。


私なら、皆より生きる確率は高いと。





その思考が私の根っこにどうしてもあって。

多分同じようなことがあったら、同じことをまたやってしまう気がする。





私が黙ったことで、快斗君が苛ついたのがわかった。

身体が離れ、肩を掴まれた。

真剣な瞳が、こちらを見据えている。





「…わかってねぇ。オメェ、死なねぇわけじゃねぇんだぞ」

「…わかってる。いっぱい心配かけてごめん」

「そこじゃねえ。マジふざけんな。俺も、皆も、何のために…!」




そこまで言って、はっとしたように口を噤んだ。
その様子に、夢現で起こった出来事が頭に浮かぶ。




意識が朦朧としている中で、私の頬に触れたキッドさんの手袋越しの掌。
快斗君とキッドさんが私の中で重なった。

あれは。



快斗君が、言いたくないこと。隠したいこと。
キッドさんであることは、そりゃあ他人には言えないことだろうとは思う。
なんてったって怪盗だし。正体ばらしちゃいけないよね。


でも、それだけじゃないんじゃないのかな。


…ねえ、あなたが隠していることは、私に関することでもあるの?







「…とにかく。本当やめろ。その感覚。そのままじゃ俺の心臓がもたねぇ」

「…ごめん」




怪我してもすぐ治る、ドジばかりのこの身体。

こんな時くらいしか役に立たないのにな。



なんて思ってることがバレたら、本気で見限られてしまいそうだ。






嫌な沈黙の中、廊下から喧騒が聞こえた。











「貴女まだそんなに動いちゃダメなんですよ!傷が開きます…!」

そんな悲鳴のような看護師さんの声とともに、荒々しく部屋の扉が開く。


開いた先に。
鬼の形相をした松葉杖をついた馨ちゃんが。


美人が凄むと、本当怖い。なんて呑気なことを思った。


つかつかと、杖を突いているのに凄いスピードでこちらにくる。



「え、馨ちゃん!脚!大丈夫なの!?」

思わず心配になって叫ぶと、


「うっさい!!このボケっ!!」


噛みつかん勢いで返された。
ボケって。心配したのにこの扱い。酷くないか。
殴りかかってきそうな勢いに、快斗君が慌てて馨ちゃんを取り押さえた。




「ほんっと馬鹿野郎っ!!まじふざけんなっ!!死んだら殺してやるって…おもっ…」






それ以上言葉が続かず、ボロボロと大粒の雫が綺麗な瞳から溢れ落ちる。
声にならない声を上げて、馨ちゃんはベッド際に崩れ落ちた。




大丈夫だよ?
お願いだから、泣かないで。



そんなことを子供ながらに思った記憶が蘇る。



馨ちゃんは、あの頃から変わらずに。ずっとこんな私のとなりに居てくれて。
どんな時だって、私の味方だった。


きっと馨ちゃんは自分が刺されるより、ずっとずっと辛かったんだろう。
こんな風に泣き崩れる馨ちゃんを、私は見たことがない。


いつだって、強くて、美人で、男前な。
私の自慢の親友。



辛い思いさせて、本当にごめんね。




それでも。


ああ。本当に。

大好きな貴女を守ることができて良かった。





「馨ちゃん、大好き」

「ばが…!ぜっ゛だい゛、元気に゛な゛っ゛だら゛殴っ゛で゛や゛る゛…」

「うん。手加減してね?」




痛いくらいに握られた手を、ぎゅ、と握り返して。







──ごめん。





嗚咽の間に紛れたその声は、きっと私にだけ届いたはずだ。















ひとしきり泣いて、私の頬を抓って(なかなかに痛い)落ち着いたらしい馨ちゃんは、いつのまにか後ろに来ていたお父さんに向き直った。

その立ち姿は、脚に傷を負っているとは思えないくらい、いつも通りの凛とした姿に戻っている。



「この度は、私の不徳が致す所で、杏さんを危険な目に合わせてしまい、大変申し訳ございませんでした」

「馨ちゃ、違うよ、私が勝手に」

「あんたのああいう行動には文句言いたいけど。あの男があんなにやばい奴だとわからず放っておいた私が悪い」


深々と頭を下げて。

ぽりぽりと、困ったようにお父さんは頬をかいた。


「馨君、君も被害者なんだ。杏のしたことは、まあ無鉄砲なんだけど。君が最悪の事態にならなくてよかったと、僕も思うよ」

「んなことより。脚、馨さん悪化しちまうからまず座っとけって」



快斗君がサイドの椅子を馨ちゃんに寄せる。

けれど馨ちゃんは、緩く首をふって立ち上がったままで。

そうして快斗君に改めて向き直った。





「クロバも、本当に悪かった。長野行ってたんでしょ?杏の事、そんな遠くで聞いて大分衝撃受けたよね…本当ごめん。ここはさ、私のこと一発殴ってくんない?」
「は?」
「このままじゃ、収まりつかない」
「…なんでそう、体育会系な」


馨ちゃんらしいというか、なんというか。
ここは私が仲裁に入るところなのかが分からず、とりあえず傍観してしまう。


怪我人の女性殴るとか、どんな罰ゲーム。
快斗君はそう愚痴りながら、こつり、と軽く馨ちゃんの頭を叩いた。


「違う。がつんと来て」
「あーもう、体育会系はこれだから本当嫌。俺馨さんみてぇに強くねぇもん。それ俺の精一杯」


ぶすくれてる馨ちゃん。なんというか、拳で解決とか脳筋過ぎてもう…馨ちゃんだよね。
ん?よくよく考えると私も、もやもやすると肩パンってなってる気がする…毒されてる。



「ほんじゃさ、馨さんのとこで、俺に稽古つけてくんない?ちょうど強くなりたかったからさ。それでチャラで」

「…優男め」


たまたま思いついたのか、前から考えてたのかわからないけど、快斗君がそんな提案をして。
その思いつきが、なんでなのか気にならなくもないけど。
今は馨ちゃんが落ち着くかどうかが先決だ。



しぶしぶと、納得したのか。しないのか。
馨ちゃんが少しは落ち着きをみせたのと同時に、凛とした声が聞こえた。



「──看護師さん、連行してください」



小学生にしては落ち着いた声。

──哀、ちゃんだ。



哀ちゃんの声を合図に、車椅子を持った看護師さんがのしのしと部屋へと入ってきて。


「もー!傷口開いてるじゃないですか!!包帯!血!!もー!また巻き替えないと!!もー!こんなことばかりしてると入院延びますよ!ただでさえまだ化膿してるんですからね!!」

「ちょ、まだ…」

「マダも阿修羅もありません!!」



お怒りらしい大柄な看護師さんにより、馨ちゃんは車椅子に乗せられ連行されていった。

言い足りないのか暴れる馨ちゃんを一喝しながら病室を後にするあの看護師さんは、中々にやり手なんだろうな…なんかすごかった。




…まあ、うん。

とにかく、馨ちゃんが元気になってよかった。