#68



「はい、緑水さん。ハッピーバレンタイン!いつもありがとうございます」


今回の怪我が原因で。
隔月だったはずの身体検査が毎月になった私は、ちょうど検査日の第2土曜とバレンタインが重なったこともあり。

毎年催促があった為、いつの間にか恒例行事になってしまっているバレンタインチョコを、緑水さんに手渡した。


緑水さんは、ニィ、と大きな口に弧を描いて私の掌から包装紙に包まれた箱を受け取って。

すぐさま中身を開いていた。


「わぁ、手作りだねぇ。トリュフ?いつも市販品なのに。黒っちへのオマケ?」

「ちゃんと感謝の気持ちを込めてますよー。要らないなら、市販品も持ってきました」


だって、お菓子の手作りって、ドジると悲惨な事になるから、あまりしたくないのだ。

チョコ溶かしてるボールがひっくり返ったりしたらもう…大惨事。
細心の注意を払って、もちろん我が家で作ったので、大きな問題もなく。

でも心労も多いので、そりゃあ、緑水さんにあげる為だけには作りませんよ。ごめんね。いつもは市販品で。
でも本当に感謝の気持ちは毎回篭ってるんだよー。

まあ、快斗君への方がもちろん愛情たっぷりこめましたけど。
そんな言葉はもちろん恥ずかしいので言わずに、余った分として持ってきていた製菓用の板チョコをひらひらと掲げた。



「やだなぁ。杏ちゃんの手作りチョコのが欲しいに決まってるよ。女子高生の手作りなんてプレミアだし?ありがとね」


ぱくり、と早速一粒口に含んで、緑水さんは癖のある前髪で隠れがちな、切れ長の瞳を細めた。
うん、美味しい。と珍しく、少し弾んだ声で呟かれ、ほっと息をつく。

まあ、溶かして混ぜてくるくるっと丸めるだけだからね。
チョコが美味しければ美味しいはずだ。


「緑水さんは二言目には女子高生女子高生って、いちいちおっさんくさいんだよ」
「俺まだ20台半ばなんだけどねぇ。そこはお兄さん、ってそこは言って欲しいなぁ、杏ちゃん」


にぃ、と笑いながら、もう一粒手を伸ばす。


「もちろん女子高生じゃなくても、杏ちゃんの手作りだから嬉しいんだよ?」
「あはは。なら良かった」
「いっつもさらりと流すよねぇ。ほんと」





わざとらしくため息を吐いてはいるけど、その顔はいつも通り飄々としていて。
散々からかわれて来た身としては、一々反応していられませんよ?


まあ、ぶつぶつと言いながらも喜んでくれてるようだし、意外と大きなドジなく作れたし。

また今度何かおすそ分けでもしよう。






甘党の緑水さんはあっという間に渡したトリュフを食べてしまったので、ついでに先ほどひらひらと掲げた製菓用の板チョコも渡しておいた。

甘いもの食べまくるのに、こんなにひょろ細いんだから。緑水さんは女の敵だよね。
と、その前髪からのぞく切れ長の瞳が満足そうに板チョコも受け取ったのを見ながらしみじみと思いつつ。


送ってこうか?と明らかに忙しそうな状態で聞かれたので、やんわりと遠慮して。
東都大発着のバスに乗り込んだ。


意外とバス一本で東都大から快斗君の家付近まで行けてしまうのだ。


東都大のバス停付近で一回転んでしまったけど、最近の身体の治りの早さなら、快斗君の家に着くまでに治るだろう。家の前でバンソコ外せばバレないはずだ。


快斗君の家に行くまでに転んだなんて言ったら、絶対「だから一緒に大学行くっつったのに」ってぶちぶち文句言われるもんな。


いや、心配はありがたいし、嬉しいんだけど。
彼氏の家に遊びに行く自分。しかもバレンタイン。
そんなドキドキワクワクを、こうやって家に向かう時から味わいたいじゃないか。




ピーン ポーン


ドキドキと玄関のベルを押した。

いつも快斗君の送り迎え付きだった為、一人でこの家まで来たのは初めてで。
こうして呼び鈴を鳴らすのも、実は初めてだ。


かちゃり、と思った以上に早く、ドアノブが開いた。
もしかして、玄関先で待っていてくれたのだろうか。


ドアの先に視線を向けようとしたところで、力強い腕に引きずり込まれる。


そのまま、快斗君の使う柔軟剤の香りに包まれた。
ぎゅうぎゅうに抱き締められて、身動きも取れない。

「…どしたの?」
「なんでもね。…ただ、ぎゅっとしたくなった」

ぐりぐりと、肩の辺りにおでこをすり寄せられながら。
抱きしめる力はそのままに、縋るように抱え込まれる。


よくわかんないけど、まるで甘えるようなその仕草に、母性本能がきゅんと音をかき鳴らしている。



何この人。可愛すぎる。
…でも、これは絶対なんかあったはずだ。

なんとなく、少し凹んでる感じだもん。
ふわふわの癖っ毛が気持ちしゅんとしてる気もする。


「よしよし」


なんとか自由に動かせる手でぽんぽんと背中を叩くと、さらにぐりぐりと、おでこを肩越しに擦りよせられた。
快斗君の猫っ毛が首筋にふわふわと触れて、くすぐったい。なんだか本当に猫みたいだ。

かわいい、なんて言ったら何気にかっこつけな快斗君は、ちょっと拗ねてしまうかな?




そういえば。
いつかも、こうして背中をぽんぽんと叩いた気がする。



そう。
今みたいに、お日様みたいなやわらかな柔軟剤が香る快斗君じゃなく。


夜の凛とした気配だけを身に纏う、白装束の彼の姿で。

…あの時キッドさんと、何を話していたんだっけ。



ああ。そうだ。



少しの思いつきと、悪戯心が働いて。
背中を叩いていた手で、ぎゅっと快斗君にしがみついた。


「何があったかはわかんないけど──少なくとも、快斗君を大好きなバカな女は一人、ここに居るからね」


首元でぐりぐりしていた快斗君が、こちらへと顔を上げた。
その蒼い瞳の下が、少し赤く染まっていて。

真ん丸くなったその瞳に、にっこりと笑いかけた。


快斗君の苦笑する声が漏れる。


「あーもう。杏はほんっと…」

それだけ呟いて、唇を奪われた。

いとも簡単に、私はそれを受け入れる。
キッドさんの時は、キスされそうになって、快斗君のことを思って身構えてしまったけど。

今考えると惜しいことした。
快斗君だったんなら、せっかくキッドさんとチュー出来る機会だったのに。
そんな現金なことを思ってしまうくらいには、キッドさんファンである自覚がある。

どこか、快斗君の面影を感じた事はあったけど。
でもキッドさんの時の快斗君はどこまでも白い怪盗で。

格好良すぎるんだよなぁ。キッドさんは、ほんと。



私の口内を優しく擽る快斗君の舌にうっとりとしていると、ふいに、その舌にカカオの甘みを感じた。

思わずぴくり、と身体が震えてしまう。

私の態度に気付いたのか、ゆっくりと唇が離された。

「…どした?」

こちらを伺うその蒼い瞳は、私の変化に敏感だ。



私はふるふると首を振って、「玄関先だと、恥ずかしいなって思って、つい」と照れてみせた。

私の態度に、快斗君は納得したのか、不敵に笑って。


「今日はもっと恥ずかしいことしてぇんだけど」


そう、低く耳元で囁かれた。
耳が犯されたようなその囁きに、耳の中まで真っ赤に燃えるのがわかる。


まあでも、とりあえず入るか。

そんな私の態度をみて、すっかりご機嫌モードの快斗君は、ぽんぽんと私の頭を撫でて、身体を離し。

当たり前のように私の荷物を持って中へと入るその後ろ姿を、気付かれない程度に、じっと見つめた。



──今日はバレンタインだ。

快斗君はそりゃもうモテるだろうし、昨日のうちからチョコでも学校で沢山もらったのかもしれない。

チョコアイス好きなだけあって、チョコも好きだから、不特定多数からもらったソレを、朝から食べてただけかもしれないんだけど。


ただ。

あの瞬間、私の脳裏によぎったのは。


学園祭の時に、楽しそうに笑いあっていた、バニー姿の可愛い女の子。


大切な幼馴染だと言っていた。
幼馴染だったら、家だって知ってるはずで。


──快斗君の様子が少し、おかしかったのは。


あんな風に、快斗君を動揺させれるのは。

あの、女の子なんじゃないかな。





「──杏?」

歩みの遅い私に気付いたのか、快斗君がリビングから私を呼んだ。

「ごめん、久しぶりで、入るの緊張しちゃった!」


──自分の嫌な女っぷりが嫌になる。

快斗君は、正直に大切な女の子だと言って、でも好きなのは私なんだと言ってくれたのに。



「そいや、今日、無事ここまで来れたか?」

怪我しなかったか?どっかぶつけたんじゃねえか?
そう心配そうに眉を寄せながら聞いてくる快斗君は、相変わらず過保護な程に私を想ってくれてるのがわかる。

こんなに大切にされてるのに、私ときたら。


…あんまり、考えるのはよそう。せっかくバレンタインが休みの日で、快斗君の家に来てるんだ。一緒に楽しみたい。



「全然大丈夫!むしろ、初めて一人で彼氏の家に遊びに向かうシチュエーションに、ドキドキしたっ」

「んだよ、それ」

「そういうもんなんですー」

えへへーと笑う私に、快斗君も一緒になって照れたように笑った。