#73



「ごめんなさい。起こしちゃった?ちょうど今ラスベガスから帰って来たところでね。貴女の話は、快斗からよおっく聞いてるわ。…杏ちゃん、よね?」


優しそうな瞳で、こちらに視線を向ける女の人。
もしかして。というか。確実に。



──快斗君のお母さんじゃないの!?



嘘!?うわあ!若い!綺麗!!




「…は、はい…!」


驚きつつも返事を返すと、思った以上に掠れた声が出て、内心大焦りだ。

そうだ。喉がカラカラだった。



私の声を聞いて、快斗君のお母さんと思しき女性が、苦笑する。


「ごめんねぇ。あのバカ息子…。覚えたての猿みたいに盛ったんじゃない?」

「…っ!!」


バカ息子ってことは、やっぱりどう考えてもお母さんで間違いないんだろう。
よりにもよって、初めてお会いしたのがこんな状態なんて…!
しかも服装が快斗君のスウェット。そして寝起き。


加えて、全て分かっているような言葉。


──ダメだろ、どう考えても。
終わった、私、終わった…。


わたわたと心の中で大混乱していると、快斗君のお母さんが水を入れたコップを私の目の前にことりと置いて。


「喉、乾いたんでしょう?」


優しく笑った顔が、どことなく快斗君の面影を感じた。









こくり、と水を飲む。
冷たい水が喉を潤して、ほっと一息ついた。


だがしかし。この状況。


キッチンのテーブルに、向かい合う形で快斗君のお母さんと座っている。

なんだか快斗君のお母さんにはとても慈愛の篭った瞳で見つめられているし。

こういう場合どうしたらいいんだろう。


普通、彼氏の親御さんに会うときって、なんか手土産もって、玄関先でしっかり挨拶して──

そう!挨拶もしてない!!


慌てて立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。


「ご挨拶が遅れまして…!快斗さんとお付き合いさせてもらっています浅黄杏といいます」

よろしくお願いします。と深々と頭を下げる私に、柔らかな笑い声が届く。


「ふふ。こちらこそよろしくね。快斗の母です。ごめんね、いつも急に帰ってくるから。驚いたでしょう?寝てるみたいだから今回はこっそりあっちに戻ろうと思ってたんだけど。──こうして、杏ちゃんと会うことが出来て嬉しいわ」


確かに驚いた。いやでも、どちらかというと勝手にお邪魔してるのは私の方で。


「わ、私もお会いできて嬉しいです。そしてこんな格好ですいません…!」


そして色々バレバレなことが、本当に居た堪れない…。
こんな格好で、の部分で快斗君のお母さんが噴き出した。



「そうよねぇ。今日、こっちはバレンタインだもんね。うちの子夢見がちな馬鹿だから、張り切っちゃったんでしょ?いやあね、ごめんねー本当に。でも昼頃帰って来なくてよかったわー。快斗にジト目で責められてたでしょうね」


けたけたと楽しそうに笑いながらそんなことを言う。
この笑い方、親子だな、なんて微笑ましくなっちゃうところだけど。

なんとも、フランクな関係だな、とあけっぴろげな言葉に思わず遠い目をしてしまう。


いや、こんな状態の私に優しく楽しく接してくれて、とても有り難いところだし。
私としてはもう、こんなお母さん素敵だなぁって好感度だだ上がりなんだけどさ。


でも、快斗君の性事情がなんかバレバレだけど。

いいんだろうか。


…深く考えないようにしよう。



「そうそう!折角だから、快斗の幼少時代の写真でも見る?」


そんな、魅力的な誘いに誘われて。


「はい、是非!」


気付けば、すっかり緊張も解けていた。












「これはねぇ、快斗を初めて釣りに連れてこう!ってなった時の写真。あいつ、釣れた魚の釣竿を引き上げた時に魚が顔にべたーん!って引っ付いてね。ギャン泣きしたのよねー。いやー、あん時は笑った。動画に撮っておきたかったわー」

「か、可愛い…!これは可愛過ぎです千影さん…!」


フランクな快斗君のお母さんのおかげですっかり打ち解けて。
千影って呼んでと言われて、まさかの名前呼びにまで進展して、二人、アルバムを肴に話に花を咲かせていた。

千影さんが持ってきてくれたアルバムの中には、魚を引き剥がそうとしながらえぐえぐと泣いている小さな快斗君の姿が。その横には、不貞腐れたような顔で釣れた魚と記念撮影を撮らされている写真もある。


子供時代の快斗君、可愛い。可愛すぎる。


「多分あの子の魚嫌いはここから。まさか高校生にもなってまだ苦手とはねぇ。食べる方までからきしだし」

「え、でも姿煮とか、丸焼きとか。そういうの以外の、魚の目が見えなければ食べてますよね?」

知らなかった時、煮付けとか作ってたし。
知ってからもそう言われて、普通にお寿司とか一緒に食べてるし。

「…あら」

どこか目を丸くした様子で千影さんが私を見る。あれ、変なこと言ったかな?


「あらあら。そう。そうね」


快斗君の幼少時代の写真を食い入るように見つめていた私は、そんな風になんだか楽しそうに千影さんが笑っていることに、全く気付かずに。




ああ。にしても可愛い。どの写真みても可愛い。天使か。


…もし、快斗君の子供とか産まれたら、こんな感じなのかな?
お母さんとか、呼ばれちゃったり??

──なーんて!馬鹿!ばかか!何考えてんだか!もう!!

頭をぶんぶんと振る私に、千影さんは不思議そうな顔をしてこちらをみている。

本当、なんかすいません。




そうして見ている写真には、千影さんの若かりし姿もあって。若い千影さんも凄く可愛くて綺麗だった。
こんなお母さん、絶対同級生の父母会の間のアイドルだよね。

──そして、快斗君のお父さんの姿も。

ハンチングを被っていることが多いそのお父さんの姿は、とにかく渋い。かっこいい。
どことなく、快斗君に似ているその面差しは、とても優しい微笑みを湛えていた。


私の視線の先がわかったのだろう。千影さんが一緒に見ていたはずのアルバムから面を上げた。



「──快斗ね、お父さんっ子だったから。マジシャンで世界各地を飛び回ってて、一緒にいる時間も、多くはなかったんだけどね。あの人も、時間をみては家族の時間を大切にする方だったから。マジック一筋の人だったから、快斗に色々なこと教えてたわねぇ。快斗も小さい頃からマジックが大好きで」


8年前に亡くなったという快斗君のお父さん。
懐かしそうに話す千影さんは、どこか懐かしそうにそんな風に、大切な人の事を語っていて。
小さな快斗君は、お父さんのことがきっと、大好きだったんだろうな、って。


初めてこの家に来た日。快斗君が私の背中によりかかってきた時のことが私の頭に浮かんでいた。



「…尊敬する人で、超えなきゃいけない人だって、言ってました」

「…そっか」


ふふ、と千影さんは1人笑って。



「…早くに父親を亡くしたあの子は、多分悲しんでる私を見てたから。いつも、元気に動き回って、寂しがる素振りなんて殆ど見せなかったわ。きっといっぱい、寂しい時も我慢させちゃったんじゃないかな」



苦笑しながらそんな風に語る千影さんに、何を言ったらいいのかわからなくて。
ただ聞いていることしか出来ない私に、千影さんはどこか真剣な表情をした視線を向けた。


どきり、と思わず心臓が跳ねる。







「…これは、おばさんの独り言として捉えてくれればいいんだけどね」


そんな切り出しから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「快斗は、私を楽しませようと、寂しいとか、悲しいとかを我慢して笑う子だった。…なんとなくだけどね?なんとなーく、杏ちゃんもね。大切な人を悲しませたくなくて、どこか色んなことを、我慢したり、諦めるのが上手な気がするの」


真っ直ぐに私を見つめる瞳が、全てを見透かしているかのようで。


──快斗君は、私のこと、どこまで話してるんだろう。


私のお母さんが亡くなっていることも、千影さんは知ってるのかな。




うまく言葉を返すことが出来ずに黙り込む私に、ぽん、と柔らかな手のひらが頭を撫ぜて。



「駄々っ子がいいって話なわけじゃなくて。もちろん、性格もあると思うんだけどね。
…でも、うちの子にくらい、我慢しないで、我儘言ったって良いんだからね?多分あの馬鹿、言わないと気付かないだろうし。私のダーリンの息子だってのに、まだまだガキンチョだから」

困ったもんよねぇ、と苦笑する。


何かを我慢している、つもりは無いけれど。
自分じゃ無理だ、と諦める癖は、いつの間にか付いていた。

だってドジで、迷惑かけるだけだから。


そして。
何かを隠しているお父さん。
全て知ってそうな哀ちゃん。

何か抱えてる快斗君──キッドさん。

教えてくれる、その時までは知らなくていいと思っていることは、諦めと同じなのかな。



快斗君があの日、白馬君の家に来てくれなかったら。私は快斗君を諦めていたのかな?

何も言えずに、終わっていたのかな。
私は、どうしていたんだろう。

ぐるぐると思考がめぐる中で思うのは。
でも。


快斗君に、抱いてくれとアピールした、あの日のこと。

多分、あそこからどんどんどんどん、快斗君に我儘になっている。


触れたいし、会いたいし、そばに居たい。
その気持ちが、快斗君の前でも溢れ出てる。


「多分、もう、充分、たくさん、甘えてます…」

「あら、そう?──ならおばさん余計なこと言っちゃったわね。ごめんね老婆心が、つい」

いやーねぇ、歳とるって!とけたけたと笑うその表情は、やっぱり快斗君に似ていた。




頭を撫で続けるその温もりが、優しくて。

なんでかわかんないけど、涙が出そうになった。