#75_K





杏がカウンターに再び座ったのを横目で確認し、ビリヤードの手玉を手に取った。


取り敢えずこの馬鹿共の相手してやらねぇと、ずっと付き纏いそうだ。

絶対俺のかっこ悪いとこ見せてやろうって魂胆だろこいつら。
負かしたるで!っちゅー気合いが満々じゃねぇか。

誰が負けるかっての。


にしてもめんどくせぇことになった。
この馬鹿どもに杏を見せるつもりはなかったんだけどな。
バレンタインに野郎でくるなよ、こんなとこ。



俺の彼女って自慢はそりゃ、してえ気持ちもあっけど。


杏の周りでぎゃーぎゃーわーわーされると、なんか腹立つ。
三澤のトレジャーちゃん呼びも腹立つ。

クリスマスん時の発言いつまで馬鹿にしてんだあいつ。



ほんで、杏が可愛いとか叫びやがって。

それ、俺が一番知ってんの。誰よりよーくわかってんの。



ああくそ。
こんなことなら今日もずっと俺ん家で杏の身体を堪能しときゃ良かった。

そう、ついつい昨日の出来事を反芻する。

昨日の杏はまじでエロ可愛かった。
風呂場最高。またやろう。そうしよう。

今度はローションも買ってこよう。
ん、でも市販品とかどんな成分入ってっかわかんねぇな。
ちょいと調べて手作りすっかな。
痛いの可哀想だからマットも準備必要だな。

うん。そうしようそうしよう。


泡で濡れる杏とか、恥ずかしがってる杏とか、えろえろの杏とか。
色々した後に恥ずかしくなってる杏とか。
上気した頬とか、潤んだ瞳とか、熱を持った柔らかな身体とか。

もうだめって、か細い声で伝えるその表情とか。


ほんと、なんであんな可愛いの。
俺のベッドに縛り付けてずっと閉じ込めて置きたくなる。
思考がすっかりやばい奴だということは、なんとなく自分でも気付いているが。

とにかくもう、なんつうか。すげえ可愛い愛しいやべえ、みたいになっちまってた自覚はあんな。うん。


バレンタインを言い訳に猿みてぇにがっついた俺を、朝起きたら杏が嗜めるようにこちらに瞳で訴えていたけれど。



残念ながらその上目遣いは逆効果だってこと。
可愛かったから教えてやんねぇけど。




「うおい、どーする?ナインボールでいいか?それともカットボールにすっか?」

「どれでもいーぜ。どのルールでも、俺が全部落としてやるよ」

「ばーか!ばーか!トレジャーちゃんいるからってカッコつけてんじゃねえよばーか!」


あーうっせぇうっせぇ。
現実と脳内リフレインのギャップに少しうんざりする。

耳をほじりながら、文句を言いつつもせっせとセッティングする一橋と三澤に舌を出して応えて。

視線を配ると、二川はなんか楽しそうにキュー選んでいた。二本取り出してはなんか見比べってっし。
お前、違いわかるんか。準備めんどいからキュー選ぶフリして二人任せにしてっだろ。


そういう俺も二人にセッティングを任せ、キューを手に取った。
俺が手を出したらイカサマされる!とか言って台に近寄るなと威嚇されてっからな。


馬鹿だよな。
見えるように仕掛けやるマジシャンがどこにいんだっつーの。


ちらりとバーの方に視線を戻せば、こちらを見ていた杏と目があった。そのまま瞳を溢れんばかりに開かせて、こちらに手をグーにして掲げてくる。

…あれは、頑張れっちゅーことか。


キューを握って軽く掲げ返すと、嬉しそうに破顔して。


何あの子、可愛い。






「黒羽、顔緩んでる」

二川の言葉に、はっと顔を引き締めた。


「ナニ、黒羽クン、トレジャーちゃんに肋骨どんだけ抜かれてんの」

骨抜き抜きじゃん、と笑いを含んだ声。
おめぇまでトレジャー呼びかよ、とジト目で見遣ると、二川はにやにやと人の悪そうな笑みを浮かべていた。


「まあ、純真無垢っちゅー感じで可愛いよねぇ、トレジャーちゃん。俺色に染めたいってやつ?」

「死ね。二川死ね。杏の半径1キロ以内に近寄んな。同じ空気吸うな。杏が穢れる」

ぶは、と二川が噴き出して、悪態付くレベルがあいつらと同レベルになってら、と楽しそうにけらけら笑っている。


「小学生かよ。ウケるわー」


腹立つ。全力でバカにされてる気がする。


あいつらの言葉じゃねえけど、なんでこんな奴がモテんだ。

醤油顔で甘めのマスクで、ガツガツしてなさそうで程よくチャラいのがいいんだろうか。




「でも、ふーん?黒羽はああいう、ふわふわっとした、まっさらそうな可愛い子がタイプだった、と。何、頼られたい方?男の威厳ってやつ?そういうの、上手に煽ってくれそうな雰囲気」


俺が守ってやんなきゃ!的な?


と、小馬鹿にしたように言ってくるコイツの言葉に、どこか妙につっかかりを覚える。あれか。ビリヤード前に俺の動揺を誘う魂胆か?



「…あいつは確かにふわふわぽんやりしてっけど、ああ見えて、芯は強ぇし。甘えてんのはむしろ俺の方」



そう。あいつはああ見えて、人の機微に敏感で。
そして、そうだ。


昨日の、玄関での言葉。
俺が青子のカウンターパンチの衝撃が抜けない中で、ぐりぐりと杏に縋っていたときだ。



『何があったかはわかんないけど──少なくとも、快斗君を大好きなバカな女は一人、ここに居るからね』




俺の様子の機微に、杏は何気に聡い。
俺を簡単に浮上させたあの言葉はでも。今思い返すと。



『少なくとも、神出鬼没、大胆不敵な怪盗キッドをカッコ良いと応援してしまう馬鹿なファンは1人、ここにいますから』



──そう。あん時の言葉に重なるんだ。




まさか、な。
杏に気付かれるようなヘマした覚えはねぇ。



でも。
最初っから、杏はどこか、キッドに俺を重ねてた。

たまにどきりとするくらい、杏はどこかで俺を見つけてきて。

哀ちゃんのことだって。杏はきっと気付いた。でも、何も言ってこない。


もし、俺がキッドだと知ったら。
気付いているのだとしたら。



それでも。
今はまだ。とずるずると、引き伸ばしてるかっこ悪りぃ俺。



こういう時思う。

杏は、決して問い質さない。
相手が言おうとしないことは、聞かない。



多分、俺はこいつのそういうとこにも甘えてる。







「…あ。あと、杏のあの雰囲気に油断してっと、痛い目みんぞ」



だから迂闊に近付いたら承知しねぇぞ、という思いも込めて、二川に釘を刺しておく。


実際に痛い目にあっている奴を2人程拝見している。
馨さん直伝の蹴りは中々に、良い角度で急所を抉るらしい。




「──へえ。なんか本当、随分入れ込んでんね。女なんて、すぐヒステリー起こすし、徒党作りたがるし。男はアクセサリー感覚の癖に、自分が相手にとって特別だと思いたがる。長所っつったら柔ーらかい身体くらい。…黒羽はイケメンなのに童貞だったから。てっきり薄汚ねぇ女に対して、どっか潔癖なんだろーかと思ってたんだけど。そっか。ロマンチックへタレ童貞だっただけか」

俺の返答に二川の人間不信ばりばりな言葉が返ってくる。
俺の童貞の理由は、なんだか知らねえ間に、こいつの女メンドイと同じ思考と思われていた訳か。

それも癪だが、ロマンチックへたれ童貞扱いも腹立つ。

「おめぇ…歪みすぎ。もうちっとこう、恋愛に夢持とうぜ、な?あと俺はもう童貞じゃねえ」
「そうだねー童貞卒業したんだもんねー。よかったねーそうだねー」

宥めるような同意の仕方が、これまたなんか腹立つ。無性に腹立つ。

「おめぇは、可愛いなとか思う子すら居ねぇの?可哀想に」

仕返しとばかりに軽くジャブを打つ。

「俺が甘い言葉ちらっと吐くだけで、簡単に股開く女の子は皆可愛いと思ってるよー。馬鹿で」

すると、馬鹿で、の所を妙に強調しながらにっこりと食えない笑みを浮かべて返事が返ってきて。
あー、大分歪んでなさる。と、もうそれ以上は突っ込むのも諦めた。




「おい!そこの裏切り者共!勝負始めんぞ!」

一橋の声に、視線をそちらへ戻すと、15個全てのボールが並んでいた。
カットボールにすんのか。ふーん。


さて、と。
なるべく癪に触るように不敵に笑う。


「俺は最後でいーぜ?おめーらの番が回ってこねぇと悪ぃかんな」


案の定激昂した分かりやすいアホコンビが、ぎゃーすか叫んでる。
二川はそれを見て楽しそうに笑っていた。こいつあれだよな、なんやかんや、すげえあのアホ共の事好きなんだよな。

こいつの動揺は誘えそうにもねえけど、まあ、いいか。




「──さて、ショーの始まりだ」



聞こえないようにそう呟いて。


…わりぃな。
俺はハスラーじゃなくて、マジシャンなもんでね。


杏にかっこ悪りぃとこなんて、見せるわけにいかねぇんだよ、と。


先にポケットに隠し持っておいた手玉に触れて、ほくそ笑んだ。





数分後。
野郎どもの悔しそうな声と、杏の歓声が店内に木霊した。