#77



「ほぉ。兄ちゃん、スピードと反射神経は抜群だな」


ひゅ、と繰り出される拳を楽しそうにいなしながら、馨ちゃんのお父さんは快斗君の背後を取った。


「まあでも、拳が甘い。そんな握り方じゃ誰も倒れねぇぞ?あと、攻撃が馬鹿正直だな。視線で読める」

「…っ!かい…!」


快斗君の頸目掛けて、手刀が下りる。
危ないっ!と思わず快斗君の名前を叫びそうになったところで、ピタリ、と首の皮一枚の所で止まる手。


「…っ」


悔しそうな快斗君に、口の端を吊り上げて、馨ちゃんのお父さんはははっと笑った。


「まあ、あれだ。オメェさんが目指してるもんは、クロスカウンターで殴り合いを制すような、タイマン勝負の強さじゃねぇんだろ?なら、頭を使え。拳の作り方は教えてやる。が、一朝一夕で出来るもんでもねぇかんな。テメェの拳が弱えなら、急所を的確に狙え。ガタイの良いやつん時は、何か握ってでもとにかく拳固めろ──さて、杏ちゃん」

「は、はい!」

「この色ボケ坊主がどうやら、可愛い可愛い彼女の前では情けない姿見せたくなさそうだから、うちの馨と部屋で遊んでてくれないかい?」

「…え、でも…」


心配だ。ボロボロにされちゃったりしないかな?
馨ちゃんのお父さんのしごきはやべぇって、門下生さん達よくボヤいてた気がするけど…。

重巡する私に、むんず、と私の首根っこを掴む手が。


「うし。折角だからあんたも久し振りに仕込んだげる。脚も治って来た事だしね。うん、今回はアレにでもすっか」
「え、馨ちゃん、ええ?」

アレってなに?ってか首!締まるし締まるっ!

「ほれ、いくよ」

私の戸惑いを華麗に無視して、馨ちゃんは私を引き摺っていく。
慌てて、快斗君に声をかけた。


「か、快斗君っ!無茶しちゃだめだよー!!」


こちらに軽く視線を向けた快斗君は、ひどく真剣な表情をしていて。
軽く身体を鍛えたいとか、そういうモノじゃない気迫を感じてどきりとする。


──快斗君が強くなりたい、理由は何だろう。


その場かぎりの、馨ちゃんの気を済ます為の口約束だと思ってたのに、思った以上に。本気の気迫を感じた。



──ねえ。
何か強くならないといけないような、危険なことが、あるのかな。



思わず、不安げな表情をしてしまったのだろう私と視線が絡むと、その蒼い瞳を安心させるかのように和らげて。


「馨さん、お手柔らかにしてやってな」とひらひらと手を振っていた。


そんな優しげな顔で、手を振られたらもう、何も言えない。

そうしてずるずると引き摺られながら、稽古場を後にして。

扉を締める直前、快斗君が馨ちゃんのお父さんに向かって、何かを頼んでいたのが垣間見えた。












「で。あんたはどうしてそんな小難しい顔してんの。自分の男が強くなりてぇって、折角頑張ってるってのに」


ずるずると私を引きずりながら、馨ちゃんが話しかけてくる。


小難しい顔…どれだけ顔に出やすいんだ。
最近気が緩んでるなぁと、ふるふると首を振った。

どこか呆れを含んだその声は、けれども私の話を聞いてやろう、とそんな優しさも多分に含まれてるのであろう。
なんやかんやで、馨ちゃんは私に甘いから。



「──自分でも、よくわかんないんだけど。多分、快斗君が強くなりたい理由を知らないのが、不安なの、かな…?」


ちょいちょい蓋をしているよくわかんない不安。
快斗君がキッドさんだと気付いた今でも、その不安が消える事なくたまにこうして燻って。


なんでだろう。
快斗君はきっと。何か、理由があって怪盗さんなわけで。

何の為にしているのかは分からない。

でも私はそれを、一ファンとして見守りたい気持ちな筈なのに。



いつだって触れるくらい近くに快斗君はそばにいるのに。
しがみついて、離したらダメな気がしちゃうような、妙な不安。





──その身体。貴女の知らない、貴女の事実を、私が知ってるとしたら。どうする?

…以前、哀ちゃんが私に告げた言葉。
そんな何かを知ってる哀ちゃんは、志保さんでもあるという驚きの事実。

そして多分だけど。快斗君も哀ちゃんが志保さんだと知っている。
どうして知っているのか。どういう関係でそこまで知っているのか──。


快斗君…キッドさんは、私の知らない私の事実を、知ってるのだろうか。
私の感じるよく分からない不安は、私が知らない間に、私の事で何かしら起きてるんじゃないかと、思うからなのかな。


──私はいつまで、何も知らないままでいる気なんだろう。



ぐだぐだと思考を巡らせていると、頭上から声が届いた。


「何をぐだぐだ考えてんのかは知らないけど。強くなりたい理由なんてそんなの、あのテのタイプは、女の子にキャーキャー言われたいっていう一心でしょ」

「な、快斗君はそんな人じゃ──…そんな人か」


うん。キャーキャー言われたら、けけっと喜びそう。
もれなく得意げな顔になってる快斗くんが頭に浮かんだ。


そう。あれは鯖缶好きの私と馨ちゃんで、柔らかくて食べられちゃうのが嬉しい鯖の骨の数を競い合ったときだ。
私が骨5本あったー!と叫んだら、馨ちゃんが「うち11本ー」と言ってきた時の、勝ち誇ったような得意げなドヤった顔。

あの時の馨ちゃんの表情みたいな顔して喜んでる姿が、簡単に想像できた。


それから私は、あんな感じの得意げな顔を、心の中で『骨11本顔』と呼んでいる。
快斗君も何気に、お調子者だから、よく骨11本顔になってるもんなぁ。



──キャーキャー言われて骨11本顔になるタイプなのはまあ、うん。確かにそうなんだけど。


…でも。快斗君はたしかにお調子者だけど、それだけじゃないんだ。
同じくらい、たまにどきりとするくらい、大人の表情をするから。

その度に感じる、この胸のそわそわ感はなんなんだろう。


再び黙りこくった私に、ぺしりという音と共に頭頂部に痛みが走った。
馨ちゃんのはたく、は相も変わらず結構痛い。これが愛のムチってやつか。


「まあ、それは冗談として。私はまあ、クロバの気持ちもわからんでもないけど?少しでも強くなって、あんたを守りたいんだろーよ。…自分の危なっかしさ、少しは自覚あんでしょ?本当、次バカやったらシメるからね」


この前の、刺された時の事を言っているのだろう。
軽い口調だけど、瞳は真っ直ぐ私を捉えていて。馬鹿な事をするな、と本気で言ってるのがわかる。


馨ちゃん自身。脚が完治してから、なんだか最近、トレーニングを増やしているっぽいし。しかも結構ハードなやつ。
どこまで強くなる気なのか。



──思うところがあると、強くなりたがるのは、馨ちゃんの方じゃないか。



私の身体の異常さ、知ってる筈なのに。馨ちゃんの方が、私と違って脚にまだ跡だって残ってるのに。

そんなふうに、責任を感じて欲しかったわけじゃない。


ただただ、馨ちゃんが無事でいて欲しくて、身体が動いちゃっただけだよ。



「──私の所為、なのかな。…でも私だって、守りたいものを、守りたいよ」


思わずぼそりと呟いた言葉は、しっかりと馨ちゃんの耳に届いていたらしく。
上から頭を鷲掴みにされた。


ギリギリと力を込められ、米神が阿鼻叫喚ってる。
痛い痛いいたいぃっ!


涙目になって馨ちゃんの方へと顔を上げると、とてつもなく不遜な表情でこちらを見据えていて。なんというか、ハイヒールで人を踏みつけるのが似合いそう。
そんな馨様のアルトボイスが、すうっと息を吸って私へと届いた。


「まずひとつ。あんたの為って相手の気持ちを、私の所為って言葉に変換すんな。杏の怪我は、私の所為…って私がうだうだ落ち込んだら杏はどう思うよ」


うだうだ落ち込む馨ちゃんとか中々想像し難いけれど…確かにそれは嫌だ。

「すごく…悲しい」

私の返事に、でしょう?と馨ちゃんか頷いて。

「そういうこと。意味は似てても、想いは全然違うんだから。相手の為にも、そこんとこ履き違えんなよ。──で、次。あんたが痛い思いして身体張るのと、私が爽快に無傷で全てに打ち勝つのと、どっちが格好良い?」

「──後者です」

「そう。どう考えてもそっちのがカッコいいでしょ?だから私は、私がカッコいい方を取りたいから、鍛え直してんのよ。杏の為でもないかんね。勝手に悲劇のヒロインぶるんじゃねぇぞ」


そう言って、不敵に笑った馨ちゃんは、壮絶に綺麗で。


…くそう。
馨ちゃんめ。ぐうの音も出ないほど、格好いい。

私の友達は、綺麗で格好良くて、強いんだぞ、と誰彼構わず自慢したくなるくらい。


心配すんなと。こんな強さで言われたら。
もう何も言えないじゃないか。



「クロバも自分がかっこいく居たいんでしょうよ。そういうのはとりあえず、快く応援してやんな。男なんて単純なんだから、笑顔で『頑張って』で、大体元気100倍になるもんよ」

「成る程!心掛けます!師匠!」

「うむ。良い返事じゃ。で。あんたもアンタで、私の所為で…って落ち込む事が少なくなるように、もしもの時に身を守る術、増やしにいくよ」

「はいっ!師匠!」

「うむ。しっかり励むのじゃぞ」

「はいっ!」




師匠呼びに満更でもない様子だったので。

結局馨ちゃんの部屋まで師匠と弟子ごっこを続けた。