エンジェルキス 前編






いつものようにビルの屋上から飛び立とうと、屋上へと繋がる扉を開けたところに、彼女は居た。

涙目で、空を見上げていて。普段とは違う様子に、思わずたじろぐ。

こちらに気付き、その瞳をこちらに向けた。強い瞳でこちらを睨みつけるその姿に、思わず目を奪われた。


「よく、ここがわかりましたね」

「由美が言ってたちびっ子探偵団が現場にたまたまいたから、助言もらったのよ。眼鏡の子が、ここからキッドは逃げるはずだよ、ってね。もう、藁にでも子供にでも縋りたい思いだったから、半信半疑で待ってみたけど…あの子、すごいのね。本当にやってくるとは思わなかった。さあ、キッド!今日という今日は許さない。絶対に捕まえてやる…!」

「どうか、したんですか?」

いつも以上に鬼気迫る様子、そして先ほど見た涙が重なり、思わず尋ねる。すると、その瞳に涙が溢れた。
ええ、まじか。ウルウルおめめになっちまってまあ。

「あ、あんたの所為なんだからーー!!また、振られたぁ…!あんたが、予告なんてだすから!今日のデートキャンセルしたら、振られたのよっ!!」

おお。そりゃあ良かった。ここんとこ頻繁に予告だして大正解だったな、俺。

デートドタキャンしたくらいで離れる男なんてろくなもんじゃねぇから、とっとと振られて正解じゃね?とかは、口に出したら殺されそうだな。

どうどう、と落ち着かせようとゆっくりと近付いて。うわーんと、とうとう声を上げて泣き始めた彼女の頭をぽんぽんと撫でた。普段この距離まで近付いたら、確実に蹴りが入るのに、今日は大人しく撫でられている。


「うう、ひっく、こんな仕事してるから、殆どの男の子が引いちゃうし…今回こそ上手くいきそうな気がしたのにー!!」

まあな。こいつ、すげぇ強えしな。普通の男は引いちまうか。
こんな良い女なのに、見る目ねぇ奴ばっかだよなぁ。まあ、俺としてはその方がいーんだけど。

「それは、申し訳ありませんでした」

「なんで今日予告だすのよー!!馬鹿ー!!」

「いや、なんで、と言われましても…」

もはやただの駄々っ子になってる。

いつも凛とした姿の杏刑事の、常とは違う様子に、グラグラと理性が揺れてくる。

なにこの人、可愛いんですけど。

ここまで間近で見たことなかったけど…睫毛長ぇのな。


「ふぅ、ひっく…!このまま一生お嫁に行けなかったらアンタの所為なんだから…!お局刑事なんて嫌だぁー!!」

「責任、とりましょうか?」

「は?」

何言ってんの、とばかりに顔を上げた杏刑事に、しゅ、と睡眠剤をひと吹き。ぱたりともたれ掛かってくる身体を抱きとめ、ポケットを探る。んー、いつもスーツ姿だからわかんなかったが、これはDはあるな。っと、脱線しちまった。お、あったあった。

携帯を取り出し、手を持ってロックを解除。
なーかーもーりー…いたいた。


あー、あー。うん、こんな感じ。杏っぽい。
呼び出している間に声を確認してると、相手が出てきた。

『浅黄か?どうした?』
「警部!〇〇ビル屋上より飛び立つキッドらしき人物を発見しました!」
『なにぃ!?全員〇〇ビルにむかえー!!』
「あと、私反対側のビルで見張っていた時に足を挫いてしまって。そちらに向かえないのであとはよろしくお願いします」
『大丈夫なのか?だれか迎えを寄越すか?』
「歩けないほどではないので。すいませんが後はよろしくお願いします」
『おおわかった!気をつけてな!』

「これで、よし、と」

では、眠り姫をちょっくらお連れしますかね!こんなチャンス逃したら、怪盗の名が廃るもんでね!


すやすやと眠る杏刑事を抱え上げ、俺はそのままビルの屋上から飛び立った。









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「ん…」

あれ、私、寝てた…?
確か、ビルの…って、キッドは!?

がばりと起き上がると、思っていた景色ではないことに驚く。どうやら自分はバーカウンターにもたれ掛かって寝ていたようだ。くるりと視線を回すと、ビリヤード台が暗がりにいくつか並んでいる。

…ビリヤードバー、かしら。薄暗いし、お客はおろか、店員も居ないけど。閉店中のお店なのか。

「おや、目が覚めました?」
「キッド!!」

バーの奥から、奴がお目見えした。何やらシェーカーを持っている。

がたん、とバーカウンターの上に乗り上がろうとすると、制されて。

「まあまあ。杏刑事、今日振られたんですよね?お慰めしようと思って、ここにお連れしたんですよ。座って座って」

その言葉に、今日の出来事を思い出し。ずーんと気持ちが沈んで思わず椅子に舞い戻る。
そんな私を見て、キッドが「奢りますよ、何が飲みたいですか?」と聞いてきた。

ーー警察として、こんなことはあってはならない事だとは頭ではわかっていた。キッドと馴れ合うなんて。

わかっていたけど、確かに呑まなきゃやってらんない気分だったのだ。刑事だって、ひとりの人間なのだ。

「…ビール」
「あ、カクテルじゃなくて?」
「悪い?可愛いカクテル頼まなくて悪かったわね。まずはビールで喉を潤したいの」

くすくすと笑いながら冷えたグラスにビールを注がれる。礼も言わずに受け取り、ぐい、と飲み干した。
この飲み口は星のマークのビールかしら。あー、旨い。
空になったグラスに、残りのビールが注がれた。綺麗な8:2の比率。斜めに傾けなかったのに、上手いもんね。それも、続けてぐいと煽る。

こういう所も可愛げがないということなのだろうか。
学生時代に付き合っていた彼とは、お前には俺よりもっと相応しい奴がいるよ、だったか。
刑事になってからは、付き合った同僚がミニパトの婦警と二股。あげくに、お前は俺が居なくても生きていけるだろ、だった。

そっから懲りて男を作らなかったけど。25を目前に控え。私だって子供も欲しいし、結婚だってしたい。
そんな気持ちで紹介を受けては、付き合う前にダメになり…。

特にキッド担当になってから、夜間の出勤が増え、ろくに紹介された人とも会えない事が多かったのもよろしくない。そう、今回もデートの予定が急な勤務になって振られたし。

ーー腹立ちまぎれにキッドに当たり散らしたけど。

本当はわかってる。私みたいな女は、一人で生きていける奴だと、男に判断されてしまうのだ。

…可愛げなんて、どうすりゃ出てくるのよ。私だって、甘えられるものなら甘えたい。

目頭が熱くなりかけたところに、ことり、とナッツが盛られた小皿が置かれる。にこりとキッドは笑って、どうぞと言った。

「アンタは呑まないの?」
「今日は、杏さん専属のバーテンダーですから。お代わりは?」
「…じゃあ、なんかおススメで作って。私に似合うヤツ」
「かしこまりました、レディ」

くすり、と軽く笑いながら、そう言ってキッドは手を動かし始めた。

「ところでアンタ、本来の仕事はバーテンダーなの?ここ、アンタの店?」

リキュールの準備を始めたキッドを横目に、ナッツを頬張りながら尋ねる。キッドは慣れた手つきでシェイカーを振りながらこちらを見る。

「まさか。私は奇術師ですからね。色んなモノに姿をかえてみせますよ?今宵は、貴方を酔わせるバーテンダーにね」

「はいはい、そーですか」

だめだ。多分揺さぶってもこいつの情報は出て来なそう。今だって、照明はカウンター奥の一つが付いているだけで、彼のその顔はハットとモノクルで絶妙に隠れている。全て計算して、私にバレないと確信しないとこんな堂々としたことは出来ないだろう。
頭脳戦は得意じゃないし。やっぱ、現場で捕まえないとね。ここは、大人しくお酒を楽しもう。

シェイカーを揺らしながら、静かに注がれるソレは、濃い茶色、薄茶、菫色…そして最後に生クリームが重なり、綺麗な4層になっていた。チェリーが上に飾られる。

「うわ、綺麗…」
「エンジェル キスです」
「へー。そんな可愛い名前のお酒、似合わないなぁ」

自嘲しながらも、差し出されたそれをくぴりと飲んで。
度数の高いリキュールに、喉に残るカカオの濃い甘さ。甘いお酒は基本のまないが、ブランデーが入ってるようで、思いの他飲みやすかった。

カクテルピンのチェリーを頬張ると、甘いカクテルの後で酸味が丁度良い。

「ーー美味しい」
「ありがとうございます」
「…でも、こんな可愛いお酒柄じゃないでしょ、私」

お酒も入り、大分まいってきているらしい。キッドにこんな弱音吐くなんて…いや、ビルの上でもっと醜態みせたな。
彼氏の前でも泣いたことなかったのに、なんで、こいつの前だと泣いてしまったのか。


「ーーこのカクテルの、意味、知ってます?」
「いや、このお酒自体知らなかったし」

私基本ビールに日本酒、ワインに焼酎だからなぁ。
首を傾げる私と、キッドの視線が絡む。ゆっくりとこちらに近づいてくる彼の、その白い手袋越しの指が頬に触れた。


ーー貴女に見惚れて、です


ぐ、とこちらに身を乗り出したキッドの、その吐息が耳に残り。耳が熱くなるのがわかった。

そのまま、仕事中は一つにまとめている髪を、ぱさりとほどかれて。

「その、意志の強い瞳から溢れる、綺麗なひと雫。どんな宝石より、私を捉えて離さない。可愛いなんて、そんな一言じゃ足らないんです」

優しい手付きで、目元を指が這う。

「私に、盗まれてみませんか?貴女の中の、綺麗なものを、全て私に暴かせて下さい」

「…天下の怪盗キッドなら、許可を取らずに盗みなさいよ」

弱っている心に物凄い口説き文句がきて、心が揺れた。けど、相手は怪盗キッド。簡単に頷けるわけもなく。つよがりな言葉を思わず返した。
そんな私にキッドは目の前で不敵に笑い、そのまま顔が近付いてきて。

多分、避けようと思えば、避けられた。
それをしなかったのは、今飲んだカクテルの、そのままの意味だ。暗がりの中私へと向けるその瞳に、奪われてしまった。

ぬるりとしたものが口内を蠢く。絡まる舌が、角度をかえて、口の中深く深くまで犯されて。

ふぅ、んんっ。と鼻に抜けるような声が思わず漏れる。

キスとか好きじゃなかったのに、こいつのそれは、あまりにも気持ちが良くて。


「ーーほら、その気持ち良さそうな顔なんて、たまらなく可愛い」



言われ慣れない言葉に、私を翻弄してくる唇。

クラクラするのは、お酒の所為か、それとも。