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とても疲れていたのだ。
眠くて、体力も精神的にも限界で、とにかく心身ともにとても、疲れていたのだ。
人間働き過ぎると感覚が麻痺すると言うけど、多分自分はまさしくそういう状態だったのだと思う。働いて働いて、周りの皆が用事があると帰宅する中一人で残業をこなして、それが正しいと信じて疑いもしなかった。自分が疲れているなんて思っていなかった。
忙しさはやり甲斐のある証、私が頼りにされている証拠。そうして勘違いの末に摩耗して、人は壊れ始めるのだろう。

「ごめーん!今日彼氏とデートでさ…え?あ、記念日なの!」

「抜けられない飲み会があるから、後はよろしく頼むな」

「大丈夫大丈夫、佐山ちゃんが全部やってくれるって。な?」

たくさんのごめん、たくさんのよろしく。たくさんたくさん降り注ぐ、私に対する期待≠セと信じて疑わなかった言葉達。全部全部、ちゃんと受け止めたつもりだったけれど、それは所詮つもりでしかなかった。
自分でも気付かなかったけれど、その言葉はまるで冷たく鋭い刃だったらしい。知らぬうちに私を少しずつ傷付けて、ボロボロになっていただなんて誰が想像しただろう。

その日私は前日の残業に加えて、残業の末に終わらなかった仕事を進めるために早出をしていた。睡眠時間は多分二時間くらい。疲労と睡眠不足でフラフラで、頭も上手く回転していなかった自覚はあった。
酷い顔をしていたのだろう。さすがにおかしいと感じたのか、同僚が「大丈夫?」と心配していた。私はその言葉に、「二時間くらいしか寝てなくて」と笑って答えたと思う。
その会話を聞いた上司に、こう言われたのだ。

「へぇ、佐山ちゃんってショートスリーパーなんだ。じゃあもっと残業とかも出来そうだね」

人を嘲るような言い方だった。フラフラの頭でも、馬鹿にされたのだとわかった。ぷつんと、それまで張っていた糸が切れたような心地だった。

それからのことはあまり覚えていない。残業せずに定時で帰ったんだと思う。気付けば私は、雪がしんしんと降る中帰路に就いていた。
寒くて、足元もぐしょぐしょで、とても気持ちが悪いのに全てが無気力。一歩一歩、ただ前に歩くだけで精一杯だったのだ。

「……私、ただ利用されてただけなんだなぁ、」

こんなボロボロになるまで気付かなかったなんて、情けなくて悲しみさえ通り越して笑えてくる。
都合のいいイエスマン。頼んだことは断らないし、仕事を押し付けても文句も言わない。会社にとって、私はそういう存在だった。

「…仕事が忙しいのは頼られてるから。…やり甲斐もあるし、ちょっとの疲れは頑張ってる証拠」

なんて馬鹿なんだろう。感覚が麻痺していたとしか思えない。
周りからの目に気付かなかったから、自分の疲労に気付かなかったから今までやってこれた。でも、私は気付いてしまった。
都合よく使われていたことに。ただの道具として、会社に使い潰されるところだったということに。
あぁ、これブラック企業ってやつじゃないだろうか、と思ったけれど、私以外の人がここまで摩耗していたのかと考えたらそんなことはなさそうだから、もしかしてモラハラとかいうやつに当たるんだろうか。でも私は自分が使われていることに気付かなかったから、自業自得なのかな。

要は私は、ぽっきりと折れてしまったのだろう。
乾いた笑い声が積もった雪に落ちる。
なんだか今は何も考えたくない。幸いなことに明日は休日だ。帰ってシャワーを浴びたらすぐに寝てしまおうと思った。朝食を食べたきりだったけど、食欲はなかった。


自宅マンションが見えてきて、無意識にほうと溜息を吐く。
白い息を零して冷たい息を吸い込むと、それまでぼやけていた視界がなんだか少しはっきりしたようだった。まるで呼吸すら忘れてしまっていたみたいだと内心苦笑する。クリアになった視界は、マンションの敷地に入って何かを捉えた。
マンション敷地の隅の方。電灯の明かりも当たりにくく、大分暗く影になった場所。
そこに、誰かが倒れている。

「ひっ、」

気付いた途端に足元から焦りのような恐怖のようなものが体を駆け巡った。
誰だろう。マンションの住民だろうか。何故あんな所に。
疑問ばかりが浮かんで、しかし私は考えるよりも先に指していた傘を放り出しその人に駆け寄っていた。

「あの、大丈夫ですか…!」

雪に膝をつく。倒れていたのは男性のようだった。スーツを着ているようだが暗いせいでよく見えない。肩を掴んで軽く揺すってみたが反応はなかった。
顔の前に手を翳してみると手のひらに呼気を感じて思わずほっと息を吐く。――生きてる。
そこで、ふと違和感を感じた。
マンションの敷地を見渡す。積もった雪についた足跡は…今男性に駆け寄った、私のものだけだ。
この雪は今日の昼過ぎから降り始めていたはず。けれど、男性の体に雪はほとんど積もっていない。ならば、男性はどうやって…敷地に積もった雪に足跡をつけず、ここに倒れたのだろう?
ばく、ばく、と心臓が嫌な音を立てている。まさか飛び降り?そう思い上を見上げるも、飛び降りれそうな場所はない。
じゃあ、何故。一体、どこから。

「……ぅ、」
「っ、もしもし?聞こえますか?大丈夫ですか?」

男性が小さく呻いたのに気付いて、慌てて声をかける。
焦っていて失念していた、先に救急車を呼ばないと。慌ててスマートフォンを取り出してロックを解除する。

「しっかりしてください…!今救急車を呼びますから、」

119を押そうとしたその時だった。
ぱし、という音とともに、男性に強く手首を掴まれる。思わず「ひっ、」と小さく悲鳴を上げそうになり、視線を男性に向けて…鋭く光る瞳と、目が合った。

「……大丈夫、です。…救急車は、呼ばないでください」

掠れた声だった。どう見ても大丈夫そうには見えないし、私の手首を掴んだ手は冷え切っている。
救急車を呼ばないで欲しいって、どうして。犯罪者?逃走中に力尽きてここで倒れてしまったとか?だとしたら呼ばなきゃいけないのは救急車ではなく警察?
正直パニック状態だった。そもそも私は今日、既にキャパオーバーだったのだ。帰ったら何もしないで寝てしまいたかったのだ。
なのに何で自宅マンションで倒れた男性を見つけ、助けようとしてそれを阻まれなくてはならないのか。他でもない助けようとしている男性本人に。

「…あ、あの、でも、怪我なさってるんじゃ…体も冷え切ってますし、」
「問題ありません。…大丈夫です。大した怪我ではないので」

意識がはっきりしてきたのだろうか。男性の声は思いのほかしっかりしている。少し掠れていたのも無くなってきたようだった。

「…すみませんが、ここはどこですか?…僕は、建物の中にいたはずなのですが」
「…え?えっと…ここは東京都〇〇市四丁目にあるマンション…なんですけど…」
「……〇〇市?」

男性の声が低くなる。何かおかしなことを言っただろうかと不安になり、もう一度きちんとした住所を言おうとしたら男性に遮られた。

「米花町にいたはずなんです」
「………ベーカチョウ?」

耳馴染みのない場所の名前だ。そんな地名あっただろうか。首を傾げて記憶を探るも、全く思い当たらない。
そうしている間に、男性は掴んでいた私の手を離してゆっくりと起き上がった。そこで初めて雪に気づいたかのように、積もった雪を手で掬う。

「……雪…?…俺は夢でも見ているのか」

独り言のように呟かれた言葉に眉を寄せる。
なんだろう、この人何かがおかしい。会話をしているはずなのに、日本語を話しているのに何かが食い違う。
どうしよう、やはりここは警察を呼ぶべきだろうか。男性には悪いがどう見ても不審者だ。不審以外の何者でもないし、正直自分の手には余る事案だと思う。

「…すみません、」
「っ、ハイッ」

ぐるぐると考えていたところに声がかかり、必要以上にびくりと体を震わせて大きな声を出してしまった。少し恥ずかしくなったが、男性はそんなことは全く意に介さず私を見た。

「…僕は、安室透と言います。確認させてください。ここは、米花町ではない?」

あむろ、とおる。
男性の名前だと理解するまでに少し時間がかかった。ぽかんと口を半開きにした後、男性の名前を拙く口にする。それから、問いかけられた内容を理解してゆっくりと頷いた。

「…私は…佐山ミナ、です。…ここは東京都〇〇市四丁目にあるマンションで…ごめんなさい、ベーカチョウ、という場所には聞き覚えがありません」

男性が、小さく息を飲んだのがわかった。けれど、私には男性が何故絶句しているのかはわからなかった。
ベーカチョウ。どういう字を書くのだろう。チョウ、とは町のことだろうか。じゃあ、ベーカは?昔まだ学生の頃読んだ、シャーロック・ホームズの小説に出てきたベーカーストリートが脳裏を過る。

「……わかりました。何やらお騒がせしてしまったようで、すみません。駅はどちらの方角でしょう?」

唐突に男性が言った。つい先程まで感じていた動揺の気配はすっかり無くなっている。取り繕うようなトーンが高めの声が、やけに浮いて聞こえた。

「…この通りを真っ直ぐ行くと大きな通りに出るので、それを左折してしばらく行けば最寄りの駅に着きます、けど…」

こちらの動揺すら気にも留めず、男性は立ち上がってスーツについた雪を払った。
立ち上がったことで、電灯の明かりの下に男性の顔が照らされる。今度は、私が息を呑む番だった。

雪に濡れているものの、さらりと揺れる髪はミルクティーの様なブロンド。褐色の肌に、瞳の色は青…いや、グレーだろうか。身長はスラリと高く、私が思っていたよりもがっしりとした体格だった。
その男性…安室透と名乗ったその人は、驚くほどの美形だったのである。

「佐山さん…でしたか。ありがとうございます。とりあえず駅まで行ってみようと思います」
「えっ、…えっ、今からですか?結構距離ありますし、雪もこれからもっと強くなるのに…」
「帰らなくてはならないもので」

声ははっきりしていた。
つい先程までここで倒れていたとは思えない。その瞳は強く、曲げられないような意志を感じる。
けれど。

「帰るって…その、ベーカチョウに、でしょうか」

ベーカチョウがどんな場所かはわからないが、少なくともこの辺り、私の行動範囲では聞いたことがない。
私ですら行き方がわからないのに、この人はどうやってそのベーカチョウまで行くつもりなのだろうか。考えたってわからなかった。というか、わからないことだらけである。
ただ、直感的に思ったのは、この人は今行くところがないということだ。
これから雪も強くなる。気温も更にぐっと下がるだろう。そんな中、この人はベーカチョウへ帰ろうというのか。

私は、とても疲れていた。
まともに睡眠も取っていない。残業、早出続きで疲労していたことに気付いてしまった。会社に、都合よく使われていたのだと理解してしまった。
とても、疲れていて…それでいて、多分、とても寂しかったのだと思う。

「私このマンションに住んでるんです。…良かったら、いらっしゃいませんか」

生憎、食料は…インスタント食品しか、ないんですけど。ごめんなさい、私料理苦手で、自炊はほとんどしないんです。で、でも、お体も冷えてると思いますし、ほんと、これから雪強くなるので。
あの、だから。

男性にじゃない。自分に、ただ言い訳していたのだと思う。理由を沢山並べ立てて、男性を家に招く言い訳をしていたのだ。
こんな不審者を家に呼ぶなんてどうかしてる。だって犯罪者かもしれない。とっても悪い人なのかも。今だって逃走中なのかもしれない。家に入れたら、殴られたり、最悪殺されるのかもしれない。
たくさん、たくさん考えた。けれも、どれもこれもまるで現実味がなかった。

男性の目は警戒して私を見ていたけれど、それでも真っ直ぐ透き通っていたから。
そしてその透き通った瞳の奥に、微かに揺れる不安を感じ取ってしまったから。

「……警戒心というものを、持たれてはいかがです?あなた今、自分が何を言っているかわかっていますか?素性の知れない男を、家に上げようとしてるんですよ」

呆れたような声だった。
それでも、私の直感が、この人は悪い人ではないと言っていた。
この人を今ここで、行かせてしまってはいけないと思った。

「ベーカチョウ、行き方わからないんですよね」
「………」
「まずは、冷えた体を温めませんか。うちパソコンもあるし、ちゃんと行き方を調べて、体を休めてからでもいいと思うんです」

私が尚も食い下がると、男性はそれはそれは深い溜息を吐いた。それから、座り込んだままだった私に手を差し伸べる。どうしたら良いかわからずに戸惑いながらも男性の手を取れば、そのまま握られて強く引っ張られて立ち上がった。

「……若干不本意ではありますが。…あなたのお言葉に甘えさせていただけますか」

私の手を握ったまま、安室さんは少し困ったように微笑んだ。



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