お休みなさいとそう言って、お休みとそう言われて、私は零さんと一緒にベッドに入ったはずだった。眠る前、零さんは私の体を抱き寄せて優しく頭を撫でてくれたし、そっと触れる甘いキスもくれた。とてもとても幸せな気持ちになって、私が彼の腕の中で眠ったのは間違いない。昨夜のことだ、いくらなんでも鮮明に覚えている。
そんな幸せで眠ったのだから、当然私は翌朝も幸せな気持ちで目を覚ますことだろうと思っていた。翌日は私も零さんもお休み。ここのところ零さんは忙しそうにしていたし、私も嶺書房でのお仕事に加えて少年探偵団の依頼のお手伝いで少し疲弊していた(子供の探偵団だからと侮るなかれ、子供の体力とは恐ろしいものなのである)。
せっかくの休みだからどこかに出かけるのもいいけれど、たまには家でのんびりしませんかという零さんの言葉に私は一も二もなく頷いた。零さんは私なんかの何倍も忙しいはずなのに私の方が疲れてるっぼいのはなんでだろうと情けなく思ったが、零さんは多分私なんかと鍛え方が違うのだ。だって日本を守るお巡りさんだもん。

…そんなわけで。当然来るだろうと想像していた穏やかな朝だったのだが、目を覚ましたら何やら、何かが、違っていた。
まず目を開けて入ってきたのは零さんの胸元。いつも通りだ。なんとなく感じる視線も、いつもの通り。だから私は顔を上げて、いつものようにおはようの挨拶をしようとしたのだけど…零さんと目を合わせて、思わず言葉が喉に貼り付いた。

「おはようございます」
「…へ、」

私と目が合うなり、うっそりと目を細めて微笑むその様子はいつもの零さんとはまるで違った。囁かれるように告げられた朝の挨拶も、何やら背中の辺りがムズムズするというか…なんか違う。いつもと違う。
それにそれに、零さんはいつも「おはよう」って挨拶する。敬語だったのは安室透さんだった頃以来だけど、透さんとも何かがまた違う。
その違和感の正体に気付けずにぽかんとした私を見て彼はくすりと笑うと、私の唇に指先で触れてつうとなぞった。

「ひぇっ」
「おはようと言われたら、何と返すんです?この唇で。聞かせてください」
「えっ、あっ、お、おは、おはようございます…!」
「ふふ、よく出来ました」

な、な、何かが、何かが違う!絶対に違う!!
見た目は間違いなく零さんなのに、零さんはこんなこと絶対に言わない。いや、甘い言葉は言ってくれるけど、なんというか根本的に種類が違う。こんな、なんか、そわそわするような言い回しは零さんはしない…!

「あ、あの、あ、えっ?」
「餌をねだる雛鳥みたいですよ。混乱してるあなたも可愛らしいですが…あなたは僕が誰なのか、知っているはずだ」

顎を指先でくいと持ち上げられて息が詰まる。
私が零さんに逆らえないのはもちろんだけど…なんというか、抵抗を許さないという明確な意思を感じる。じっとこちらを見つめるこの目を私は知っている。
邂逅は一度だけ。安室透≠ニ同じ、零さんの一部…だった存在。
小さく息を飲んで口を開く。

「………バーボン、さん?」
「そう。いい子ですね」

ぶわ、と顔が熱くなる。
零さんに何かを言われて顔が熱くなるなんて言うのはもはや日常茶飯事みたいなものであったけど、それでも少しずつ少しずつ、ほんのちょっとずつのある程度の慣れというものはあった。それがこんな突然変化球を投げられて私が柔軟に対応できるはずもない。
バーボン。彼が追っていた悪の組織の幹部の名前であり、潜入捜査をしていた零さんに与えられたコードネーム。一体どういう事なのか理解がまるで追いついて来ない。
彼は赤くなっているであろう私の頬をするりと指先で撫でると、そのまま私の髪をひと房指先で絡めてそこに口付けた。

「あっ、あう、ああぁああ、あの…!」

待って欲しい。ちょっと手加減して欲しい。このままじゃ脳みそが茹だって溶けてしまいそう。ひとまずくっついてるこの距離に耐え切れなくなり、彼の胸元に手を置いて背中を反らした。が、すぐに彼のもう片方の手がぐいっと私の腰を抱き寄せる。勘弁して欲しい。

「こら。大人しくして」
「で、で、出来ません…!」

せめてもの抵抗にと両手で顔を覆えば、バーボンさんはくすりと笑って体を起こしたようだった。おずおずと指の間から様子を窺えば、彼はベッドに手を着いたまま私を見下ろしている。
少しだけ乱れた髪と、隆起した綺麗な線を描く筋肉。あまりの色香に目が離せない。
息を飲んだまま硬直した私に気付いたのだろう。バーボンさんはくすりと笑う。

「もう少し寝ていても良いですよ。でも午後からは出かけるので、支度をしてくださいね」
「へぁ、」

あれ、確か今日は家でのんびりするんじゃなかったっけ。お出かけが嫌なわけじゃないけど、私が目を瞬かせるとバーボンさんは軽く肩を竦める。

「気が変わったんです」


***


バーボンさんに促されるまま結局お昼前まで寝てしまった私は、多分大物というよりは現実を一度シャットアウトしたかったんだと思う。もう一度寝て起きたらいつもの零さんに戻ってるかもしれないとかほんのり思っていたし。けれども結局次に目を覚ました時も、バーボンさんはバーボンさんのままだった。
いつもと様子の違う彼と一緒に軽めのブランチをとって、その後は彼に急かされるまま外出の準備をした。私が目を覚ました時にはバーボンさんはすっかり身支度を整え終わっていたから私はただただ慌てていた。何を着ようか迷いに迷っていたら、「後で着替えるからそんなのはいい」なんて言われてしまって結局いつもと同じような格好だ。
その時は「後で着替える」の意味がよくわからなかったんだけど、バーボンさんに連れ出されて私はその意味を痛いほど理解することになる。

「あなたの肌には色が合いませんね」

「シルエットの形が気に入らない」

「少しデザインが幼過ぎます」

「ああ、赤は除外でお願いします。ええ、一切」

連れて来られたのは金座にある高級百貨店。一体何をするのかと混乱しているまま、私はとあるドレスショップの試着室へと放り込まれていた。お店の人が持ってきてくれるドレスを何着も試着させられ、その度にバーボンさんのチェックが入る。
一体、私は、何をさせられているのだろうか。

「あ、あの」
「ミナさんは何か気に入ったものはありますか?」
「いえ、あの。…これは一体、なんなんでしょうか」

恐る恐る問えば、バーボンさんは、ぱちりと目を瞬かせて私を見た。それから、やれやれと軽く肩を竦めてみせる。

「何って。あなたに似合うドレスを見繕っているんですが」
「えぇと、それはどうして…」
「必要なことだからです」
「必要」
「そう、必要」

わかったら次のドレスを試着してください、と軽く言われ、私は再度お店の人に手渡されたドレスを手に試着室のカーテンを閉める。
…こんなに何着も何着も試着して、それなのにお店の人は文句一つ言わずニコニコしている。迷惑じゃないかな、と少し心配になりながら、私はバーボンさんの言った「必要」という言葉の意味を考えていた。
どうしてドレスが必要なんだろう。こちらの世界に来てからフォーマルドレスなんて必要な場面もなかったし買うこともないと思ってたけど…。
慎重にドレスに袖を通してチャックを閉め、小さく息を吐いてからカーテンを開けた。

「…どう、でしょう」

もはや何着目か数えることも諦めた。バーボンさんの前に立って、なんとなく恥ずかしくて視線を逸らす。今度はどんなダメ出しが飛んでくるのかと身構えていたが、一向に彼からのコメントはない。ちら、と視線を上げると、彼は顎に手を当てたまままじまじと私を見つめていた。

「…うん、良いですね」

まさかのOKが出た。
今回着たのは、落ち着いた色味のシャンパンゴールドのドレス。デザインは可愛いけれど決して幼過ぎず、シルエットも洗練されていてとても綺麗だ。布地には光沢があるけど、光を吸って煌めくような上品な光沢。胸元にはスパンコールとレースがあしらわれている。

「このドレスに合う靴とバッグを」
「かしこまりました」
「えっ」

私が目を瞬かせている間に、お店の人が靴とバッグを持ってくる。バーボンさんが選んだのはネイビーのバッグとドレスと同じシャンパンゴールドの靴。ヒールは少し高めだけどこの程度なら問題ない。

「…うん、良いでしょう。じゃあミナさんはここで待っていてくださいね」
「えっ」

戸惑う私を他所に、バーボンさんはそのままどこかへ行ってしまった。取り残された私に、お店の人がにこやかに話しかけてくる。そして促されるまま軽くお化粧を直され、ヘアーアレンジまでされて、更にそのまま待たされた。
というか、これ、いくらなんだろう。こんな高級なドレスショップのドレスが安いはずはない。更には靴とバッグまで。お財布にお金入ってたかな、と思いかけて、急いで出てきたからお財布を家に置いてきたことを思い出して青ざめる。え、どうしよう。
というか私、ドレス、着たままなのだけど。

「お待たせしました」

それからしばらくして戻ってきたバーボンさんは、なんとフォーマルスーツにお着替えしていた。黒のスリーピースで、ネクタイの結び目の部分には青いブローチが光っている。彼のスマートなシルエットが映えるというか…いや、足、長い。すごい。足長い。
バーボンさんはサイドの髪を片側だけ後ろに撫で付けていて、それがまた、いつもの雰囲気をガラリと変えている。
というか。
かっこよすぎて気が遠くなりそう。無意識のうちに両手で口元を覆っていた。勘弁して欲しい。

「さぁ、行きましょうか」
「えっ、あの、どこに…というか、お会計、」
「それはあなたが気にすることではありませんね」

するりと手を取られて腕を組まされる。近付くと彼の香水のいい匂いがしてくらくらした。勘弁してほしい。


***


そうして連れて来られたのは、超がつくほど高級なホテルの中にある高級なレストラン。当然ドレスコードがあり、普段着では入れないようなお店である。ここまで高級なお店に入るのは人生初めてで、お店の入口を見た途端にガチガチに緊張してしまったのだけど、バーボンさんはそんな私にも構うことなくお店へと入っていく。降谷様ですね、お待ちしておりましたなんて店員さんが言って席まで案内してくれた。窓の外には夜景が広がっている。

「どうでした?今日一日」

ワイングラスを揺らしながらにっこりと笑うバーボンさんに問われ、私は唇を尖らせる。

「なんかよくわからないままこんなところにいるんですけど、私」
「食事は口に合いませんか」
「とんでもない!美味しいです!」

慌てて首を振る。運ばれてくるコース料理は、見た目も味も一流である。口に合わないなんて口が裂けても言えない。言うはずもないけど。

「興味があったんです。あなたが、僕とちゃんと対面したらどんなふうに思うのか」

バーボンさんはグラスをテーブルに置くと、そっと私の手を取った。どきりとして思わず手を引っ込めそうになるけど、ゆるりと指を絡められてそれも叶わない。どきどきと胸が高鳴っていく。息苦しくて、こんな美味しい料理も上手く喉を通らなくなってしまう。

「…僕と、っていうのは…バーボンさんと、って意味ですよね」
「ええ。思っていた以上に可愛らしい反応が見れたので僕としては大満足ですが」
「というか、…あの、あなたはバーボンさんなんですか?零さんなんですか?」

今日一日彼と一緒に過ごして私が思ったのは、バーボンさんが零さんの別人格なのではないか…ということ。彼が多重人格という話は聞いたことがなかったけど、そうなんじゃないかと思うほどにバーボンさんはいつもの零さんとは違う存在だった。
恐る恐る問いかけると、彼は一度パチリと目を瞬かせてから小さく吹き出して肩を揺らしながら笑う。

「っ、ふ、はは、そんな心配そうな顔をしなくても。…バーボンは俺が演じている存在に過ぎない。虚像の存在だよ」

そう言う彼は、いつもの零さんだった。
纏っていた雰囲気ががらりと変わる。…演じるって、こんなびっくりするほど演じ分けるって、すごすぎやしないか。そう考えて、でも、それは彼にとってずっと必要だったことなんだろうと思う。
降谷零、安室透、そしてバーボン。演じる必要があった。演じ分ける必要があった。三つの顔を駆使して過ごす必要があった。透さんもバーボンさんも、間違いなく零さんの一部だ。

「バーボンはもう必要のない存在だ。本来なら二度と現れることは無い。二度と現れてはいけない。…でも、なんというか。…君には、ちゃんと存在していたことを、知って欲しかったんだよ」

二度と現れることはない。零さんがバーボンという存在を捨てれば、この世界中のどこにもバーボン≠ヘいなくなる。それは、死と同義だ。私はそれを、寂しく思う。少しだけ悲しく思う。胸が痛いと感じる。だって、彼の一部だから。彼の一部が死ぬということを意味するから。

「覚えています。これからもずっと。バーボンさんがいなくなっても、私がちゃんと…覚えてますから」
「…ありがとう、ミナさん」

風に流される砂のように溶けてしまうバーボンという存在。でもそこにあったという事実は、決して消せはしない。
私に何が理解出来るんだろうと思うけど、でもどうしても伝えたかった。どんな彼も…どの彼も、私の大切な人に変わりはないのだから。

「…でも、ところで、どうしてこんな高級レストランに突然…」
「バーボンらしいことがしたいなって思っただけ。ちょっとしたストレス発散みたいなものだよ」
「…その、私のドレスとかを買ってくださったのも?」
「好きな女性を自分好みにコーディネートしてみたいと思うのは普通だと思うよ。これからこういったドレスの使用頻度も増えるだろうし」
「え?」
「例えば、新一くんと蘭さんの結婚式、とかね」

まぁ数年後の話だけど、と零さんは笑う。
そっか。…こっちの世界でも、人との繋がりが出来て…こういうドレスを着る機会も、出てくるってことなんだ。友人の結婚式に呼ばれる可能性が、今の私にはある。一人二人じゃない、もっと多くのお友達に。
それってすごく素敵なことだ。彼が選んでくれたドレスを着て、友の門出を祝うことが出来る。じんわりと胸が温かくなった。

「…あれ、そういえば」

零さんがワイングラスを口に運ぶのを見て、ふと目を瞬かせる。ここまでの移動は零さんの車だったけど、彼が飲んでいるのは正真正銘赤ワインだ。ノンアルコールなどではない。もちろん私が飲んでいるのも彼のと同じ赤ワインである。

「零さん、帰りってどうするんですか?タクシーとか…」

言うと、彼が目を細めて笑った。
それは、降谷零≠ナはない微笑み。目を細めてうっそりと笑う、バーボン≠フ顔だった。彼が胸ポケットから取り出したのは…ここのホテルの、カードキー。

「部屋を取ってあるんです。なので、部屋に行く前にバーで飲み直しませんか。あなたに是非、ご馳走したいカクテルがあるんです」

これから、甘い夜にしても? 囁かれて胸が高鳴る。その言葉の意味がわからないほど、私は子供ではなかった。それを期待してしまうほどには彼に溺れてしまっている。
繋がれた手が持ち上げられ、指先に彼の唇が触れる。痺れるような甘さがそこから広がって、無意識のうちに小さく息を吐く。
じっとこちらを見つめるブルーグレーを見つめ返し。私はひとつ、ゆっくりと頷いた。