いきなりだがデリケートな話をさせてもらいたいと思う。
女性としてこの世に生を受けた以上避けては通れないものがある。下手したら人生の半分もの期間、常ならば毎月やってくる奴のことである。避けて通れるものなら通りたい奴のことである。そう。月経だ。
私は学生の頃、生理痛というものをほとんど経験したことがなかった。年に一度か二度程度、ちょっとお腹が痛いなぁとか少し気持ちが悪いなぁなんて感じるくらいで、基本的に痛みとは無縁の生活を送っていたのである。当時の友人に生理痛が重い子がいて、毎月顔を真っ白にしてぐったりしていたり、場合によっては早退したりするのを「体質って大変だなぁ」なんて思って見ていたものだ。
そんな友達がいたお陰で、生理痛の時はお腹を温めると良いとか、チョコレートは避けるべきだとか、豆乳を飲むと良いとか、痛み止めは痛くなる前に飲むべし、なんていう知識は得られたものの、実際にその知識を自分に対して活用することはなかったのである。
社会人になってからは生理不順というものも経験して、二ヶ月に一度しか来ないなんてこともざらにあったが(今思えばストレスだったのかもしれない。意識しなくても人はストレスを感じているのである)、やはり痛みは基本的にあまりないことが多かった。
それが、どうしたことだろう。
この世界に来て、規則正しい生活を送るようになった。そして危険なこの米花町で、私は痛みを経験することが増えた。だから、というわけではない。根拠も何も無い。
ただ事実として私は、生理痛が通常装備になってしまったのである。


***


嶺書房の戸締りをして、私は駅に向かって歩き出そうとしてふらりとよろめいた。視界がちかちかと明滅したような気がして立ち止まり、嶺書房の壁に寄りかかりながら小さく呻く。

「……いたい……」

蚊の鳴くような声で呟いたものの、当然聞いてくれる人はいない。今日は平日、嶺書房のシフトは私だけの日。快斗くんがいたら心配してくれるだろうけど、そんな彼も今日は学校である。
月に一度の奴のお出ましである。今月の奴は恐るべき痛みを伴ってやって来た。
勤務中にやって来た奴は、最初は重たいような違和感のみで現れたものの、時間の経過とともに耐え難い痛みを生み出している。下腹部と腰はドーンとした酷い鈍痛に苦しめられ、鈍痛の間に内蔵の内側から千本の針の束で刺されるような鋭い痛みが不規則に襲ってくる。痛すぎて吐き気さえ覚えているし、指先は血の気が引いて痺れるような感覚があるし、物理的にも精神的にも頭が痛い。痛すぎてしんどいのに、怠さと共に感じるこの暴力的な眠気は一体なんなのか。立っているのもしんどい。歩くと一歩進む事にどしんどしんと鈍痛が襲う。いっそ泣きたくなりながら、私は半ば体を引きずるようにしてなんとか帰宅した。

玄関を上がってダイニングキッチンに辿り着いて、床に崩れ落ちれば一体どうしたのかと慌てた様子のハロが私の周りをうろうろとしている。心配してくれているのかぁ、優しいなぁハロ…。手を伸ばしてハロの頭を撫でてやれば、ハロはそんな私の手に体を擦りつけてきた。癒される。が、それによって痛みが引く訳では無い。
いつだったか、生理痛で救急車を呼ぶ人がいるなんて話を聞いたことがあったけど、今ならその意味がよくわかる。
本当に、動けないのだ。立っていても歩いても座っても横になっても痛いものはどうにもならなくて、私は何とか辛うじて帰ってくることが出来たけど…痛すぎて動けなかったら救急車を呼ぶのも充分にあることだと実感している。何なら私だって救急車が必要かもしれないと思ったくらいだ。

「…痛み止め…」

あるかな。しかしこんな酷い痛みになってしまったから飲んで、果たして効いてくれるのかどうか。
床に倒れ込んだまま膝を抱えるように背中を丸めるとほんの少しだけ痛みが引くような気がする。気がするだけで実際には痛みは変わらずそこにある。少し体を動かすだけでも痛みに息が詰まった。

「……いたいよぉ……」

痛みを経験することが増えたからと言って痛みに慣れたわけじゃない。痛みに慣れるなんてことには極力なりたくないものである。
以前背中から刺された時の痛みにも匹敵する程じゃないか、なんて思いながら、まだ体が動かせるだけましだと自分を奮い立たせる。物理的に立ち上がることは出来ないのだけど。
ずりずりと匍匐前進で移動して、なんとか少しだけ体を起こして戸棚へと手を伸ばす。中から救急箱を取り出して中を覗き込み、乾いた笑いが零れた。鎮痛剤の箱は見当たらない。そりゃそうか。私自身で買った記憶がないのだから、透さんが買っていない限りここにあるはずがない。でも痛み止めなんて、男性は頭痛持ちとかでもないと使うこともないよなぁ…。
がくりと項垂れながら救急箱を戸棚に戻し力尽きた。痛みも限界である。ご飯炊かないといけないのに、指先も上手く動かなくて情けなさに視界が歪む。
お腹を押さえたままダイニングキッチンでハロに慰めてもらう私。どんな構図だ。ポケットからスマホを取り出して酷い生理痛の場合の対処法を検索してみるけど、ろくな記事は出てこない。…まぁ、鎮痛剤もなくこの痛みを撃退するなんて普通に考えて無理だよね。


「うぅ」
「クゥン…」
「ハロぉ…」

ずきずき、じくじく。膝を抱えて横向きになりながら、痛みに小さく呻いて目を閉じた。
…陣痛って、生理痛の超強力版って言うけど本当かな。生理痛でこんなメソメソするくらいだし、そりゃめちゃめちゃ痛いよね。鼻の穴からスイカを出すような痛み、なんて想像もつかない表現をどこかで聞いたことがあるけどなんとなく納得できるような気がした。

ぴく、とハロが耳を立てて吠えながら玄関の方へと走っていく。次いで、がちゃんとドアを開ける音がした。
…透さんが帰ってきてしまった…。ご飯を炊くという簡単な役目さえ果たせず、ダイニングキッチンで横になり蹲る私のなんと情けないことか。なんとか起き上がって、せめてなんでもない顔をしていないとと思うのに、痛みは引くどころか無情にも強くなる一方である。もうやだ女なんてやめたい。

「ただいま…、ミナさん?!」

透さんの驚いた声に顔を上げる。彼は玄関を入ったところで動きを止めて目を丸くしているところだった。今日はポアロだけだったのだろう、ラフな格好をしている。透さんは驚いた顔をしたのも一瞬で、すぐに持っていた鞄を放り出してこちらへと駆け寄ってくる。

「どうしました?」
「…大丈夫です…、…せいりつうです、」

私がなんとかそれだけを絞り出すと、透さんは少しだけ目を細めて私の額に触れた。

「…微熱がありますね。少し揺れますよ、」
「え、」

透さんは言うなり私の体を優しく抱え上げた。彼の衣類からは柔らかなコーヒーの香りがする。常ならば少しくらい抵抗もしただろうけど、恥ずかしさよりも痛みが勝り私は彼の腕の中で大人しくしていた。透さんは私を抱えたまま寝室に入ると、そのまま優しくベッドに横たえてくれる。

「毎月痛みはありますか?」
「…前の世界にいた頃はなかったんですけど…生理不順が治った代わりに痛みは出るようになりました…。…でも、こんな痛いのは初めてです……」

もはや恥じらいなんてものはない。痛みで恥じらってる余裕もない。こんな話題透さんとしては困るんじゃないかと思ったけど、彼は真剣に私の声を聞いてくれている。

「救急箱に鎮痛剤があるかどうかを確認したんですね」
「……なんでわかるんですか…?」
「戸棚が少し開いてましたので。すみません、鎮痛剤はあそこには入れてないんですよ。ロキソニンなら僕が持ってますから、まずは何か胃に入れないといけませんね」

何か胃に入れないと、と言われてもだ。こんな状況で食欲なんてあるはずもない。どうしよう、と眉を寄せれば、透さんはそんな私を見て小さく笑った。

「バナナミルクなら、飲めますか?」
「ばななみるく、」

問われてゆっくりと目を瞬かせる。
…それこそ、私が刺されて大怪我をした時のことだ。鎮痛剤の効果が切れて夜中に目を覚ましてしまった私に、透さんが作ってくれたのがバナナミルクだった。あの優しい甘さを思い出すと、不思議と少しだけお腹が空くような気がした。あれなら。

「…飲みたい、です」
「うん。少し待っていてくださいね」

優しく笑った透さんが、ハロを伴って寝室から出ていく。それを見送れば、キッチンの方からミキサーの音が聞こえてきた。なんだか懐かしいな。あの頃は、まだハロもいなかった。
人生で経験したことの無いレベルの大怪我で、夜中に突然襲ってきた痛みに不安になった。透さんも夜中に私に起こされたというのに、文句や不満なんて欠片も見せずに私の為にバナナミルクを作ってくれた。
ゆっくりと息を吐いて、痛む下腹部をそっと撫でる。

「お待たせしました」

以前と同じく二つのコップを手に透さんが寝室に戻ってくる。
透さんはローテーブルに一度コップを置くと、私の肩を支えて優しく抱き起こしてくれる。たかだか生理痛でこんなに面倒をかけてしまって今更ながらに申し訳なさが込み上げる。

「すみません…」
「謝らない。迷惑なんかじゃないですから」

言う前に先手を取られて口を噤む。透さんは小さく笑うと、バナナミルクのコップを私に差し出した。両手で受け取って、小さくいただきますと呟いてから口を付ける。

「夕飯に関してはあなたが気にする事は何もありませんよ。あなたが今すべきなのはしっかり休むこと。いいですね?」

申し訳ないなぁと思ってる部分を何も言わせてくれない。結局私は黙り込むしかないのである。恨めしげに透さんを見つめてからバナナミルクをゆっくりと飲み干せは、次に手渡されるのはほんのり暖かい白湯と錠剤。市販の薬だと効くかどうかわからないが、ロキソニンなら少なくとも今よりは痛みも引くだろう。ありがたく薬を飲めば、よしよしと頭を撫でられた。
…不思議だな。痛みは変わらないのに、透さんが傍にいてくれるだけで楽になるような気がする。彼に触れてもらえるのが嬉しくて安心する。

「寄りかかっていいですよ」
「…でも、」
「いいから」

ベッドに乗り上がった透さんが、私を後ろから抱え込むような形で座ってくれる。彼の体に寄りかかりながらちらりと首を傾げて見上げれば、目が合った透さんは優しく笑う。

「…どうして、そんな優しくしてくれるんですか…?」
「好きな相手が痛みに苦しんでいたら、助けるのは当然の事じゃないですか?」
「……でも、生理痛なんかで」

そう。所詮は、生理痛だ。重篤な病気でも怪我でも何でもない。今回は何故か非常に痛くてしんどかったけど、普段なら市販の薬でも飲んでおけば耐えられる程度なのである。
毎月のこと。これから閉経までずっと付き合っていかないといけない痛み。そんなことで、彼の手を煩わせてしまったのが申し訳なかった。

「僕は男なので、女性の痛みを理解し知ることは出来ませんが…」

透さんの腕が、私を優しく抱きしめてくれる。

「でも、寄り添うことは出来ます。白い顔で痛みを訴えているあなたの様子を見れば、どれ程の痛みなのかなんとなくの想像は出来ますよ。生理痛なんか≠カゃない。内蔵が剥がれて出血するんです。痛くて当然だ」

透さんの優しい声が、じわりじわりと染み込んでいく。
痛くて当然。そう言ってくれるのか。
男性だけじゃない、女性にだって生理痛を理解出来ない人はいる。かつての私がそうだった。この痛みは、実際なってみないとわからないんだと思う。生理痛を知らない時、私は痛みに苦しむ友人を確かに心配していたし手伝えることは率先してやったけど、それでもやっぱり痛みのことはよくわからなかったし実感もなかった。透さんのように、寄り添おうともしていなかったと思う。
透さんは、痛みに寄り添える人。きっとそれだけ、いろんな痛み知ってる人。
す、と体から力が抜ける。透さんに寄りかかってはいたけど、自分でも無意識のうちに少し体に力が入っていたようだ。

「…重くないですか?」
「全然」

さっきまで冷えて痺れていた指先に感覚が戻ってくる。目の前で軽く手を握ったり開いたりしていたら、透さんが私の手を取ってそっと握り込む。熱が指先から伝わっていく。

「…鎮痛剤が効いてくるまで、このままでもいいですか?」
「もちろん。鎮痛剤が効いてからもこのままでいいんですよ」
「それだと透さんがご飯食べられなくなっちゃう」
「気にしませんよ」
「気にしてください…」

私が口を尖らせたらくすりと笑われる。
辛いですよね。言いながら、透さんがそっと私のお腹を撫でてくれた。いやらしさなんて全くない、労るような触れ方に目を閉じる。
私は、幸せだなぁ。
生理痛に苦しんでいたのに、透さんの存在で幸せを感じちゃうなんて現金なヤツ。少しずつ痛みが引いていくのを感じながら、でもまぁいいか、なんて思いながらほんの少しだけ笑った。
だって、幸せなものは、幸せなんだもん。