私には好きな人がいる。でも、誰かにそのことを話したことは無い。
私が彼のことを知ったのは、高校に入ってからだった。彼はとても明るい人でお調子者。破天荒で先生達を困らせることも度々ある問題児だけど、テストの成績は超優秀。世界的にも有名なマジシャン黒羽盗一さんの息子さんで、彼自身もマジックを得意としており、いつもクラスのみんなを笑わせてくれていた。
…ちょっとスケベな部分もあって女の子を怒らせることも多かったけど、彼は本当の意味で誰かを傷付けるようなことはしない。とても心優しい男の子なんだって、私自身がちゃんと身をもって知っているのである。

高校入学の時。別の地域から引っ越してきた私に友達などいるはずもなく、けれども高校は持ち上がりの子達が大半で、私はどうしても一人浮いてしまっていた。
新しい土地、新しい学校。まるっきり新しい環境にすっかり萎縮してしまった私は、入学式までの間各々固まる友達同士のグループを見ながらぽつんと座っていることしか出来なかった。
そんな時だ。

「Three、Two、One…はいっ」

俯いていた私の目の前に突然現れた手のひらから、真っ赤なバラが現れたのである。顔を上げれば、少し癖のある髪の男の子がニッと笑って立っていた。

「俺、黒羽快斗。なぁ、あんた名前は?」
「えっ、…えっと、…ミナ。佐山、ミナ」
「そっか。佐山、これあげる。お近付きのシルシってやつな」

それが、私と黒羽くんとの出会いであった。
彼のその一言のおかげで私はクラスに馴染むことも出来たし、彼の幼馴染である青子ちゃんともお友達になれた。私の密かな恋は、黒羽くんにバラを貰ったあの日から多分、始まっていたんだと思う。



「もううう!キッドの奴、本当に許せない!!」

ばん、と青子ちゃんが机に叩きつけたのは、今朝の新聞である。そこには「怪盗キッド、予告通りにお宝を盗み出す」「ハンググライダーで華麗に飛び去るキッドの姿を激写!」なんて見出しがでかでかと掲載されている。
最近絶好調だな、怪盗キッド。青子ちゃんのお父さんはキッドの事件を担当している刑事さんらしく、毎度キッドに逃げられて苦い思いをさせられているそうで。青子ちゃんがこうして怒るのも当然のことなのかもしれないと思った。

「すごいねぇ、怪盗キッド」
「騙されちゃダメよ、ミナちゃん。キッドは世間を騒がす大悪党なんだから!」

大悪党って。思わず苦笑した。
青子ちゃんはこう言うけど、実際のところ私はキッドのことは嫌いじゃないというか…どちらかと言えばファンだと思っている。確かに窃盗なんてことをしているのは悪いことだけど…大衆の面前で堂々とマジックショーを披露する彼の振る舞いは、私にはとても眩しく感じられるのだ。
盗んだ宝石は今のところ全て持ち主の手元に返されているようで、彼がただ盗みを働く愉快犯だと言う人も中にはいるけど、私にはそうは思えなくて。なんというかこう、信念を感じるというか。私も彼みたいに堂々としていられるようになりたいなんて思う。

「今回もキッドの大勝利だったなぁ、青子」

ニヤニヤと笑いながらこちらに歩み寄ってくるのは黒羽くんだ。煽るようなその表情に、噛み付くように青子ちゃんが口を開く。

「何よ!!次こそ絶対に捕まえてやるんだから…!」
「無理無理。キッドは絶対に捕まらねぇよ」
「そんなのわからないじゃない!」

こんな黒羽くんと青子ちゃんのやり取りもいつもの日常風景。幼馴染のやり取りに、私が入ることは出来ない。青子ちゃんは怒ってるけど、黒羽くんはどこかこのやり取りを楽しんでいるんだろうな。ちくりと痛む胸に気付かないふりをして、私は机に置かれた新聞に視線を落とした。
いいなぁ、と思う。羨ましいなと思う。黒羽くんと青子ちゃんは幼馴染で、軽口だって叩けるような気の無い友人。快斗、青子と呼び合うような仲。喧嘩をすることも多いけど、二人の仲が良いのは見ていてわかる。
羨ましく思うのも、妬ましく思うのもお門違いだとわかっている。でも、それでもやっぱりいいなぁ、なんて。

「佐山?」

ぼんやりとしていたら黒羽くんの顔がドアップになっていて思わず悲鳴を上げそうになった。心臓に悪い。

「び、………くりした、…何?」
「いや。つか、お前もキッド好きだよな」
「えっ?う、…うん、好きだけど…」
「へへ、そっかぁ」

頷くと、黒羽くんはなんだか嬉しそうに笑いながら自分の席に戻ってしまった。…黒羽くんはキッドファンだと言うし、同じファンがいて嬉しい…って感じなのかな。何にせよ、彼の笑顔が見られたのは収穫だったかもしれない。
今日もさりげなく話すことが出来た。毎日そんな小さな接点を拾っては、大切に胸の中にしまうようにしている。

元から、期待などしていない恋だった。


***


「こんばんは、お嬢さん」

そんなセリフと共に私の目の前に彼が…世を騒がす怪盗キッドが現れたのは、とある夜のことだった。
私の部屋のベランダに突如として現れた彼は、真っ白なマントをはためかせながら頭を下げて丁寧な礼をする。足先から頭の先、手先まで洗練されたような美しい所作。月明かりを浴びて佇む彼の姿は、まるで夢のような光景だった。

「…怪盗、キッド…?」
「えぇ、そうですよ。…お嬢さんは私のことをご存知で?」
「それは、もちろん…。…とっても有名ですもの」

夢みたい。呟けば、キッドは目を細めて微笑んだ。
月明かりの逆光とモノクルで彼の顔はよくわからないけど、なんだかとても若い人みたい。思わずベランダに出てそっと手を伸ばせば、指先を彼の手に取られてそっと握られる。肌触りの良いシルクの手袋に覆われた彼の指を確かに感じて、とくりと胸が高鳴った。

「…どうして、ここに?」
「夜空を飛ぶのに疲れてしまいまして。羽休めですよ」
「そう、ですか」

本当に、夢みたい。こんな近くで、あの怪盗キッドを見られるなんて。見られるどころか、こうして手を繋いで真正面で見つめ合う日が来るなんて考えたこともなかった。
…泥棒、なのかもしれないけど。でも、やっぱり思っていた通り素敵な人。世の女の子が怪盗キッドに夢中になるのも頷ける。
ぼんやりとキッドを見つめていたら、彼はクスリと笑って小さく首を傾げた。

「何か悩み事でも?」
「えっ?」
「憂いを帯びた瞳をしていますよ。話せば楽になることもあるかもしれない」

彼の指先が私の頬を撫でる。それが不思議と心地よくてゆるりと瞬きをすれば、目の前の彼が一瞬動きを止めるのがわかった。その仕草がなんだかすごく人間らしくて笑みが浮かぶ。人間らしい、なんて。怪盗キッドだって一人の人間なんだから、人間らしいのは当然なんだけど。
怪盗キッドにこうして会って話をするなんて、もう二度とないことだろう。彼は気まぐれな人。私は彼に憧れる大衆の一人でしかない。
ならばここで何を漏らそうと、一夜の夢で終わるかもしれないと思った。

「好きな人に、似てるんです。…あなたが」
「…、…好きな人?」
「はい」

いつも自信に満ちていて、明るく破天荒で。強く前を見据える瞳には信念が宿っていて、ただただ彼に憧れる。太陽のような男の子。私なんかが近付いたら、熱で溶かされてしまうかもしれない。

「似てる、とは?」
「なんて言うんだろう。…仕草なんかは似ても似つかないんですけど…真っ直ぐな瞳とか、いつも堂々としているところとか」
「…へぇ、」

私なんかは、絶対に近付けない人だけど。
そう言うと、キッドの手がそっと私の顎に触れる。柔らかい力で上を向かされて、じっとこちらを見つめるキッドの瞳とかち合った。息を飲む。

「…あなたにそんな顔をさせるような酷い男と私が、似てると?」

いきなり何を言い出すんだろうと思ったけど、彼の瞳は真剣だった。私を捕らえて離さない。視線を少しでも外すことを許さない。強い光を湛えた瞳に見つめられて、脳がじんと痺れるようだった。

「酷くなんかないです。…私が臆病なだけで」

キッドは私のその言葉に、ゆっくりと目を瞬かせた。

「とっても素敵な男の子なんです。…そうそう、マジックが得意なところもあなたと似てる。彼のマジックもあなたのマジックもまるで魔法みたいで…見た人はみんな笑顔になるんです」

初めて会った入学式のあの日。彼の手から突然現れたバラを受け取った私は、その日初めて、ようやく笑顔になれたのだ。
マジックには必ずタネや仕掛けがある。けれど黒羽くんのマジックも、キッドのマジックも、どちらも人を笑顔にする魔法の力を持っていると思う。

「そんな彼が…、どうしようもなく、好きで」

キッドが、私の顎から手を離した。どうしたのかと視線を上げれば、彼は口元を覆って少し視線を逸らしている。…どうしたんだろう?なんだか少し、戸惑っているような。月明かりに照らされた彼の耳が、ほんのり赤く色付いているようにも見える。

「…あの…?」
「…失礼。いえ。…確かにあなたが、その。…想いを寄せている相手は、素敵な人のようだ」
「…はい」

笑顔で頷く。すると、キッドはこほんと咳払いをして指を一本立てた。

「あなたの恋路が上手くいくよう、私が魔法をかけましょう」
「えっ?」

魔法。意味がわからなくて目を瞬かせれば、キッドは少しだけ楽しそうに笑った。それから私の目の前でヒラヒラと手を振って見せ、握り込んだ手を少し下へと下げる。

「Three、Two、One…」

ぱちん、と彼が指を鳴らすと同時に、彼の手のひらから真っ赤なバラが一輪咲いた。ぽんっと飛び出したそれに私が目を見張っていると、キッドがバラを私の手に握らせる。
このシチュエーションには、覚えがあった。黒羽くんと初めて出会ったあの日と同じ、バラを出現させるマジック。思わず息を飲んでキッドを見上げれば、彼は満足そうに笑うばかりだ。

「さぁ、これで大丈夫。明日想いを寄せる彼に会ったら、朝の挨拶と一緒に名前を呼んでごらんなさい」
「なっ、名前っ?!そんな、私には彼を名前で呼ぶなんてそんなのとても…!」
「大丈夫。バラはマジックですが、あなたにかけた魔法は本物ですよ。勇気と恋を授ける、とっておきの魔法」
「そんなこと言われても…!」

確かに、いいなぁって思ってた。黒羽くんのことを名前で呼びたいのに呼べなくて、呼んで変な顔されたらって思うとどうしても踏み込めなくて。そもそも、私には彼のことを名前で呼ぶ資格なんてものも、ない気がして。

「あなたの気持ちがわかった以上、もう手加減はしません」

え、と顔を上げた時には、キッドはベランダから翼を広げて飛び立ったところだった。慌てて手すりから身を乗り出すけど、キッドの姿は風を受けてあっという間に遠くへ飛んでいく。しばらくの間白い翼を目で追っていたけど、それもやがてビルの合間に紛れて見えなくなった。
本当に、夢を見ていたみたい。手に残された赤いバラが風に揺れて、私が今晩キッドに出会ったのが夢じゃないのだと思い知らされる。
でも、限りなく夢に近い…そんな人だった。まるで月の光から生まれたかのような、そんな不思議な人。太陽みたいな黒羽くんとは正反対なのに、やっぱり、どうしても、似ている人だと思った。


***


翌朝のことである。
いつもの数倍緊張しながら登校した私は、自分の席に着くなり思わず黒羽くんの席を確認してしまった。…青子ちゃんの姿もないし、どうやらまだ来ていないみたい。

――明日想いを寄せる彼に会ったら、朝の挨拶と一緒に名前を呼んでごらんなさい

昨晩キッドに言われた言葉を思い出す。…というか、キッドはすごく自信満々に大丈夫だなんて言ってたけど…一体どんな根拠があるというのだろうか。魔法って言っても、さすがにそれを手放しで信じられるような年齢でもない。
やっぱり、やめた方がいいんじゃないか。今まで通り、普通におはよう黒羽くんって挨拶した方が、

「おっはようミナちゃん!」
「わぁっ!!」

とん、と肩を叩かれて思わず飛び上がって椅子から立ち上がる。振り向けば、驚いた表情の黒羽くんと青子ちゃんが硬直していた。なんてところを見られてしまったのだろう。恥ずかしさに顔が熱くなる。

「あ、お、お、おはよう青子ちゃん…」
「お、おはよ…ごめん、びっくりさせちゃった?そんなに驚くとは思わなくて」

申し訳なさそうに眉尻を下げる青子ちゃんに慌てて首を振る。私が物思いに耽っていたのがよろしくなかったのだ。黒羽くんの顔を見ることが出来ず、無意識に黒羽くんから視線を外して青子ちゃんの方に向き直ったのだけど、そうしたら彼は身を乗り出して私の顔を覗き込んできた。咄嗟に仰け反ってバランスを崩し、少し慌てた様子の黒羽くんの手が私の背中を支えてくれる。近い。

「ひぇ…」
「っと、大丈夫かよ」
「だ、だ、大丈夫、大丈夫だから」

ひたすらに近い。もう一人で立てるから離れて欲しいのに、彼はやや不満そうな顔をしたまま離れる様子がない。こんな格好で固まってたら注目されちゃう。

「ちょっと快斗。いつまでミナちゃんにくっついてんのよスケベ」
「スケベじゃねーよ。引っくり返りそうになったのを助けたんだろぉが」
「ずっと触ってる必要は無いでしょ!」

いつもの黒羽くんと青子ちゃんの小さな喧嘩が始まる。いつもと違うのは、私がその極々近くにいるということ。いつもは少し離れたところから見ているだけなのに、今の私は黒羽くんの腕に支えられた状態のままである。恥ずかしい。近い。もう勘弁して欲しい。

「つーか!俺には何もねーのかよ」
「えっ」

突然矛先を向けられて戸惑う。
何も無い、とは。
訳が分からずに目を瞬かせていたら、彼はますます不満そうな様子を露わにして唇を尖らせた。…私は何やらやらかしてしまっているらしい。どうしよう、彼を怒らせたり嫌な気持ちにさせるつもりはなかったんだけど、無意識のうちに見落としている部分があるみたいで。
何も言えなくなって視線を落とせば、頭上から小さな溜息が聞こえた。

「…おはよ、ミナ」

弾かれたように顔を上げる。彼は、ほんのり頬を染めてそっぽを向いていた。
私がぽかんとしている間に、黒羽くんは手を離して自分の席へと足を向けてしまう。今の何?なんでもねーよ。そんな青子ちゃんと黒羽くんのやり取りが少しずつ遠ざかる。

勇気と恋を授ける魔法。キッドは昨日、そう言った。
恋が上手くいくかどうかなんて私にはわからない。期待はなかった。燻る気持ちをそっと撫でるくらいしか出来ないと思ってた。
でも、キッドが勇気を私にくれたのなら。一歩踏み出してみるのも、悪くないんじゃないか?
彼が魔法と言ったのだ。魔法はマジックとは違う。きっと、タネも仕掛けもないのである。

「ッ、おはようっ、…えっと、…快斗くん…!」

思い切って声を上げる。
幼い頃、お父さんが信号を変えるという魔法を見せてくれたことがあった。なんてことは無い、ただタイミングを見計らってそう見せていただけのこと、可愛らしい幼き日の思い出である。
けれど当時の私は、本当にお父さんが使ったその魔法を信じていた。お父さんは魔法が使えるんだと信じて疑わなかった。今ではその魔法も解けてしまったけど…けれど、だからこそ、魔法は信じていればきっと続くのだ。
キッドが私にかけてくれた魔法。私はこれを、信じることが出来る。

「…おう、おはよ」

一瞬動きを止めた彼は振り向いて、数回目を瞬かせた後ににっと晴れやかに笑った。
まずはここから。
勇気と恋を授けられた私は、その魔法を信じてみようと思う。