「そういえばミナさんって、最初はキッドのことにあんまり興味なかったよね」

最初は、コナンくんのそんな一言だった。
阿笠博士のお家にお呼ばれした日のことだ。少年探偵団のみんなと一緒に、美味しいと評判のケーキを食べにお邪魔したのである。偶然作りすぎたカレーの差し入れに来たという沖矢さんも混じえて賑やかなお茶会を始めたのだけど、ふとしたタイミングでコナンくんからそんなことを聞かれて、そういえば確かに最初はあまり興味もなかったかもしれないなんて思い出した。
私の世界では怪盗が世間を騒がすなんてこともなかったし物珍しさは感じていたけど、キッドそのものへの興味としては薄い方だったと思う。

「そうだったかも」
「園子姉ちゃんにキッドの予告状の日に誘われても断ってたし」
「そうなの?でも、ミナお姉さんって園子お姉さんの飛行船に乗った時にキッドを追いかけて行ったよね」
「あぁ、赤いシャムネコ事件の時ですか。私はニュースで見ていただけなので詳しい状況は知りませんが」

あの時は大変だったなぁ。結果殺人バクテリアなんてものはなく、そう思わせて恐怖を煽るだけのものだったけど。あれもコナンくんのお陰で解決したようなものだったな、と思ったけど、空で身動きが取れない私達の代わりに地上で頑張ってくれた服部くんのことも忘れてはいけない。
あの事件で、キッドの正体が快斗くんだったということも知ったのだった。
沖矢さんも飛行船に乗れたら良かったなとはちょっと思ったけど、あんな面倒な事件も起こってしまったし地上にいたのは良かったのかもしれない。

「そういえば、そうじゃったのう。ワシらのロープも解かずにキッドに一直線じゃったから、あの時安室さんも心配していたんじゃぞ」
「うっ、その節はご迷惑をおかけしてすみません…。あの時は、キッドにお礼を伝えたかったんです」
「お礼?」
「そう。私ね、以前キッドからうさぎのぬいぐるみを貰ったの。ちょっと不眠で悩まされてたことがあって…その時に、夢へのお供にどうぞ、って」

眠れなくてしんどかった時、キッドからもらったれいくんには本当に支えられたから。今も変わらずれいくんは大切な宝物だ。

「わぁ!素敵!いいなぁ」
「なぁ、ふみんって何だ?」
「夜、眠りが浅くなってしまったり、寝れなくなってしまうことですよ!」
「えっ、大変じゃんか!ミナ姉ちゃん、もう大丈夫なのか?!」
「お陰様で今はぐっすり寝れてるよ。眠れなかった時、キッドからもらったそのぬいぐるみがすごくありがたかったんだ」

えへへ、と笑えば隣からつんと肘でつつかれて視線を向ける。哀ちゃんだ。哀ちゃんはケーキを黙々と口に運びながら、ちらりと私を見上げて目を細めた。

「…本当に、今は大丈夫なんでしょうね」

じとりとした視線と声。でも、滲み出る心配を感じて思わず頬が緩んでしまう。心配してくれてるんだな。嬉しいな。私がへらりと笑えば哀ちゃんはやや不機嫌そうに眉を寄せた。

「締まりのない顔をしないでちょうだい」
「えへへ。…本当に今はちゃんと寝れてるよ。心配かけてごめんね、ありがとう」
「べ、…別に心配ってわけじゃ…」

ほんのりと頬が赤くなるのを見逃しはしない。哀ちゃん、私のこと心配してくれてるんだなぁ。その事が嬉しくてにやける口元をそのままにしていたら、哀ちゃんはぷいっとそっぽを向いてしまった。嬉しいのだから仕方がない。大目に見て欲しい。
暗闇が恐怖だった。なかなか寝付けない夜もあった。でもそれも今となっては過去のことで、今の私には全てが悪かったことだとも思わないのだ。恐怖の元になった火事のことも、あれがなければ私はキッドとの関係もなかったかもしれないし。
快斗くんがキッドだと、今もまだ知らないままだったのかもしれない。

「…でも、そのぬいぐるみって大丈夫なの?盗聴器とか隠しカメラとか」

さすがコナンくんである。透さんと同じことを言うんだから。

「それは大丈夫。ちゃんと透さんに確認してもらったから」
「さすが安室さんですね、抜け目がない」
「ねぇねぇミナお姉さん!そのうさぎさん見てみたいな!」
「写真があるよ。ちょっと待ってね」

スマホを操作してカメラロールから写真を探す。透さんが撮影してくれた、ハロとれいくんのツーショットである。れいくんを抱き込んで眠るハロの写真は本当に本当に可愛くていつまでも見ていられる気がする。
写メを表示させて見せると、みんなが感嘆の息を漏らす。

「すっごく可愛い!このワンちゃんは?」
「飼ってるの。ハロって言うんだよ」
「ぬいぐるみをぎゅーって抱いて寝てますね!」
「すっげー気持ち良さそうに寝てるなぁ!」

そうでしょうそうでしょう、可愛いでしょう。私の宝物×宝物のお宝ショットだ。見てるだけで幸せになれちゃうすごい写真なのだ。撮ったのは私じゃなくて透さんだけど、さすがと言わざるを得ない。透さんのセンスが光ってる本当に素敵な一枚。

「ミナお姉さん、このうさぎさんには名前付けたの?」
「付けたよ。れいくん、って言うんだ」

言った瞬間、何故だか視界の端でコナンくんと沖矢さんがぴたりと動きを止めたのが見えた。不審に思って顔を上げると、二人ともなんとも言えないような表情でじっとこちらを見ている。
…え、なに。

「…れい、くん?」

ぽつりと呟いたのはコナンくんだ。ケーキにフォークを刺したまま、やや頬を引き攣らせている。なんでそんな顔してるの。

「…う、うん。…れいって名前付けたの」
「…れい、ですか」
「……え、なんですか?なんかおかしいですか?」

コナンくんも沖矢さんも微妙な顔をしている。
…私何もおかしい事言ってないよね?うさぎのぬいぐるみにはれいって名前を付けたんだよって話をしていただけだし…。れい、なんて名前を付けるなんておかしいかな?…いや、おかしいってことはないと思うんだけど。

「ちなみに、なんだけど」
「うん?」
「なんでその名前にしたの?」

なんで、と聞かれると。

「この子、真っ白でしょ?白は全てのゼロの色だけど、この子はゼロなんてかっこいい顔してないし。だから、れいくん。…私は気に入ってるんだけど…ダメ、かな?」

話しているうちになんだか恥ずかしくなってきた。成人して大分経つけどぬいぐるみの名前の話なんてして、やっぱりちょっと変だったかな。
眉尻を下げてコナンくんと沖矢さんを見れば、彼らは未だ難しい表情をしていたけど二人とも首を横に振った。

「変じゃないよ、大丈夫。いい名前だと思うよ」
「…そういう割に、なんというか、コナンくんも沖矢さんも微妙な顔をしているというか」

微妙な顔、という以外にない顔をしてるからこちらとしても心配になるのだけど。

「ちなみに、なんですが」
「えっと、はい」
「安室さんはそのぬいぐるみにれいという名前をつけたことを知ってるんですよね?」
「えっ、それは、はい。もちろん」

れいくんの名前を決めた時も隣にいたし。そういえば、れいくんの名前を付けた時に透さんもなんだか微妙な反応をしていたのを思い出す。れいという名前に、何かあるのだろうか。
更に微妙な顔をする二人だったが、二人は顔を見合わせて何やら意思疎通を図った後に再びこちらを向いた。

「幸せ者ですね」
「え、私がですか?」
「いえ。れいくん≠ェ、ですよ」

何やら意味深な言い方だったけど、沖矢さんとコナンくんの表情の意味は、終ぞわかることはなかった。


──────────


ポアロに安室さんの姿を見つけて、オレは学校帰りにそのままポアロのドアを開いた。涼やかなベルの音とほぼ同時にカウンター奥の安室さんが振り返る。

「あれ、コナンくん。いらっしゃい、学校帰りかい?」
「こんにちは、安室さん。ちょっといろいろ聞きたくて来たんだぁ」

梓さんは常連さんと話し込んでいるようだ。オレはカウンター席に歩み寄ると、そのままよいしょと椅子に飛び乗る。なんとも格好が付かないが、コナンの身長ではどうにもならない。

「いろいろ聞きたくて?…君が望むような話が僕に出来るかどうかわからないけど」
「変な話じゃないよ。ミナさんの話」
「ミナさんの?」

オレがどんな話を要求すると思ってるのか。まぁ普段の自分の行いでもあるので攻めはしない。ミナさんの名前を出せばぐっと話を聞く体勢になるんだから、この人も意外とわかりやすいよな。
ミナさんは自分ばっかり安室さんのことが好きで…みたいなことを言っていたこともあったけど、傍から見れば安室さんからミナさんに対する矢印もかなりのものだと思う。
安室さんが俺の前にオレンジジュースを置いてくれるのを見てから口を開いた。

「ミナさんが持ってるぬいぐるみあるでしょ?」
「…あぁ、キッドから貰ったうさぎのぬいぐるみのことかい?」
「そうそれ。そのぬいぐるみの、名前のことなんだけどさ」

そこまで言うと、オレが何を言わんとしてるのか察した安室さんは苦笑を浮かべた。もちろんぬいぐるみの名前のことだ。
ミナさんからぬいぐるみの名前がれい≠セと聞いた時は驚いたけど、彼女は安室さんの本名のことなど全く知らないような様子だった。それはそうだろう、恋人だろうと今の安室さんの立場で簡単に本名を明かすわけがない。
だからこそ驚いたのだ。…安室さんの本名を、うさぎのぬいぐるみに名付けているということに。

「…ミナさんは当然何も知らないんでしょ?」
「もちろん。僕も驚いたよ。まさかそんな名前を付けるなんてね」

安室さんは言いながらカウンターに頬杖をついた。やれやれと言った様子だけど、ものすごく優しい顔をしている。…恋は人を変えるよなぁ。

「良かったの?」
「何が?」
「ぬいぐるみにその名前を付けられて」

オレンジジュースのストローを吸えば、100%オレンジジュースの程よい酸味と甘味が口内に広がる。ちら、と安室さんを見上げると、彼は少し目を瞬かせてからにやり、と笑った。

「じゃあ、君はどうだい?」
「えっ?」
「例えば蘭さんがぬいぐるみにコナン≠チて名前を付けたら」
「えっ」

突然のことに顔が赤くなったのがわかった。いやだって突然蘭が出てくるとか思わねぇじゃんびっくりするじゃん。
そんなオレを見て、安室さんはますます笑みを深めている。やめてほしい。

「…どう、って言われても…なんとも言えない、というか…」
「そう。そんな感じなんだよ。複雑だけど嬉しい気持ちもどことなくあるし、ってね」

恥ずかしい話だけどぬいぐるみに嫉妬することもあるから気をつけてね、なんて言われたけど、オレはそんなことにはならないと思う。そもそも蘭はぬいぐるみに新一なんて名前付けたりしないだろうし。

「…じゃあ安室さんは、…そのなんというか、嬉しいってこと?」
「複雑だけど嬉しい気持ちを否定はしないよ。彼女の声で名前を呼ばれるというのはやっぱり心地良い」

こと、安室さんはそう感じるのかもしれない。本名を、それも下の名前を読んでくれる人は…多分凄く限られているというか、今現在存在しているかも怪しい。彼の部下はみんな降谷さんと呼ぶだろうし。
ミナさんがぬいぐるみを通してれい≠ニいう本名を呼んでくれるのは、安室さんにとって心穏やかになれることなのかもしれないな。

「いつか本当に呼んでもらえるといいね」

ぬいぐるみを通してでは無く、彼本来の名前を、きちんと彼女の口から。
安室さんは俺の顔を見て目を瞬かせると、柔らかく目じりを下げて微笑んだ。

「そうだね。いつか」

それは近い未来ではないだろう。でもきっと、そう遠い未来でもないはずだ。
そんな未来は、オレにも容易に想像出来た。
近くも遠くもないその間の未来。彼女はきっと彼の名前を知った時に、ほんのり照れながらも口にすることだろう。
うさぎと同じ、彼の名前を。