「……あの、それじゃあ…お世話になっても、良いでしょうか」
「はい。もちろん」

安室さんと不思議な出会いを果たして、私は世界を越えてしまった。出会いは私の世界で。再会は安室さんの世界で。不思議な現象だったけど、これは夢ではないし現実でしかない。私に出来るのはこの事実を受け止めて、これからのことを考えることだ。
元の世界に戻るにもその手段が全く分からない為、しばらく安室さんのお世話になることにしたのである。

「…最後にミナさん、お話しなければならないことがあります」

お世話になることで話がまとまり、そろそろ休もうかという流れになった時、不意に安室さんがそう言った。なんだろうと首を傾げる私に、安室さんは小さな細長い箱を取り出す。
一見すると薬の箱のようなものだけど…なんだろう。

「話さなければならない、こと?」
「はい。ミナさんは、第二の性というのをご存知ないですよね」

突然の話に目を瞬かせる。…第二の性って、なんだ。聞いたこともない。小さく首を横に振ると、安室さんは頷いて言葉を続けた。

「ミナさんの世界にはそういう概念すらなかったようですが…僕の世界には、第二の性というものが存在します」

曰く、男性と女性という性別の他に、アルファ性、ベータ性、オメガ性という三つの性別が存在するのだという。大体人口の九割ほどがベータで、残りの一割がアルファとオメガらしいが、オメガはアルファに比べて更に少ないとのこと。
ベータは身体的特徴もなく、簡単に言えば普通の一般人。けれどアルファとオメガは特別で、例えばアルファ性の人は生まれながらにしてリーダー的存在、カリスマであり、エリートなのだという。オメガは絶滅を危惧されているような存在で、世間からは冷遇される場合が多いらしい。

「時代も変わって、昔よりは随分良くなりましたけどね。けれど未だにオメガを虐げるような風潮は残っています」
「アルファ、ベータ、オメガ…。…安室さんはどれなんですか?」
「僕はベータですよ」
「へぇ…」

何となく、ちょっと意外だなと思った。今の話を聞いて、安室さんはアルファかななんて思っていたからだ。安室さんでベータだと言うなら、アルファはどんなすごい人達なんだろう。
三つの性別のヒエラルキーはわかった。…とは言っても、オメガの人口が極めて少ないことからピラミッド型にはならないけど。
安室さんが取り出した細長い箱は、第二の性を調べるための検査薬だそうだ。

「恐らくミナさんもベータだとは思いますが、念の為検査を」

そう。私も、安室さんも、私がベータだということを疑っていなかった。どう考えたって私にはリーダー的素質だとかカリスマとかそういったものはないし、人口の九割もの人がベータなら間違いなく私もベータだろうと。
検査薬の結果を見て、安室さんが言葉を失うまでは。

私は、オメガ性だった。


***


この世界で過ごすようになって、そろそろ短いとは言えない時間が経った。自分がオメガだということ以外は大きな問題もなく、…いや、後ろから刺されて入院したり、東都水族館の事件に巻き込まれたり、平穏だったかと言われれば決してそんなことは無いのかもしれないけど…今では私の意思も固まって、元の世界に帰らずこの世界で過ごしていくことを決めた。それだけの時間が経てば、私と安室さんの関係も変わる。
安室さん…今では私は彼のことを透さんと呼んでいて、恋人、という関係性に落ち着いている。

「オメガには、三ヶ月に一度、一週間程度の発情期がある」
「…でも、ミナさんは発情期らしい発情期は来てないんですよね?」
「うん、抑制剤を飲んでるって言うのもあると思うけど…ちょっと体が火照ってだるいなぁって思うくらい。次の発情期もそろそろだなぁ」
「あ、やっぱり?なんかミナさん甘い匂いするもん」
「甘い匂い?」

第二の性について、というタイトルの本を閉じながら、私は目の前に座る蘭ちゃんと園子ちゃんに視線を向ける。
今日は彼女達にお茶に誘われて、金座のオープンカフェでのんびりしているのである。
第二の性について透さんからある程度のことを教えてもらったとは言っても、当たり前にこの世界で育ってきた人達に比べたら私の第二の性についての知識はまだまだ浅い。待ち合わせまで時間があったから本屋さんで購入した本は、基本的なことはもちろん、少し掘り下げた内容も書かれている。これは当たりだったかな。
それにしても、甘い匂いなんて今まで誰かに指摘されたことなかったんだけど…なんだろう。自分の腕をくんくんと嗅いでみるけどよくわからない。

「ミナさんがオメガだって知った時は驚いたわぁ。オメガなんて、ほとんど都市伝説レベルの存在だもの」
「アルファよりも更に数が少ないんだよね」
「アルファは生まれながらのエリートだから表にも出てくることが多いけど、オメガはなかなかね」

蘭ちゃん園子ちゃんを初め、私の周りにいる人達のほとんどがベータだ。蘭ちゃんの幼馴染である工藤新一くんはどうやらアルファらしいということだけど私は直接会ったことがないし、私が知るアルファと言えば同じバイトの黒羽快斗くんである。怪盗キッドとして飛び回る彼を思えば、まぁ納得というか。

「あっ、でも、ミナさんがオメガなら運命の番がいるってことですよね!」
「運命の番?」

初めて聞いた。なんだそれは。

「ミナさんは知らない?アルファとオメガの間だけに存在するって言われてる運命の存在のことよ」
「運命の存在…」

園子ちゃんの話だと、運命の番とは言葉の通り運命なのだそうだ。運命のアルファとオメガが出会うと、目が合っただけで自分の運命だとわかるのだという。

「ま、あれよね。ただでさえ人口の少ないアルファと、そのアルファよりも更に少ないオメガの間に成立する運命なんて天文学的確率よ」
「天文学的確率だからこそ、まさしく運命ってことなんだろうけどね。…でも、ちょっと憧れちゃうなぁ」
「どっちにしろベータの私達には関係の無い話よ」

運命の番、か。…快斗くんとの間にそういったものを感じたことは無いし、恐らくそれは快斗くんも同じだと思う。私の知り合いのアルファは彼だけなので、その運命とやらがどんな感覚なのかはわからないけど。

「でも、どうする?もし運命のアルファに出会っちゃったら。安室さんから乗り換えたりするの〜?」
「ちょっと、園子」
「だって、運命の番に出会うと抗えないって聞くもの。どうしようもなく互いに求めてしまうって」

園子ちゃんの言葉に、ふと考えてみる。
もし運命の番に出会うことがあったら。私はその時、どうするんだろう。抗えないほどに求めてしまうなんてこと、本当にあるのだろうか。
でも私は、透さんのことが好きだし。先のとこは分からないけど今はそのままでいたいと思うし…正直、運命の番なんて現れなければいいと思う。彼のことを、今のまま好きでいたいと思うから。
いっそのこと、それなら透さんが運命だったら良かったのに、なんて独占欲の塊のようなことを考えかけて苦笑する。
彼はアルファじゃなくてベータ。運命の番など有り得ない。
そもそも、運命の番というもの自体が都市伝説のようなものだ。園子ちゃんの言う通り天文学的確率でしかない。
だから、運命なんていらない。望まない運命ならいらない。
いつしか話題は移り変わり、第二の性についての話はそれっきりだった。


***


その日、帰ってからのことだ。
今日は透さんはポアロが夕方までなので、さほど遅くならずに帰ってくる。家に帰り着いたのは私が先だけど、多分そんなに時間を空けずに帰ってくるだろうと思っていた。
家に入ってまず感じたのは、やけに喉が渇くということ。水道水を飲んで少し落ち着いたけど、手先足先からじんじんとした熱が這い上がってくる。心做しか頭も少しぼうっとして、あれ、もしかして風邪かななんて思った。そう言えば発情期もそろそろだし、少し体を休めた方がいいかもなんて思いながらベッドに横になって、ぞくりと背中が震えた。

「…え、」

じんじんと疼くような熱が腹部の辺りから湧き上がってくる。ベッドのシーツから、タオルケットから、枕からする透さんの匂いにくらくらする。なんで。どうして。
一体何が起こってるのかわからなくて、けれど体は透さんの匂いを求めていて、私は枕を抱き込みながらそこに顔を埋めた。全然足りない。
咄嗟に立ち上がって洗濯カゴを覗きに行くけど、今朝洗濯したばかりで中は空だったのを思い出す。そのままベランダに飛び出して、干してある洗濯物を引っ掴んで和室へと戻る。洗濯物に顔を埋めて深く息を吸い込むけど、ベッドよりももっと匂いは薄くなっていて泣きたくなった。当然だ。
どうしよう。彼を感じられる、彼の匂いのする何かが欲しい。

「ミナさん!」

がちゃん、と音を立てながら玄関のドアが開かれて透さんが飛び込んできた。ほんの少し息を切らしている。走って帰ってきたのだろうか。考えることはいくつかあったけど、私はもうそれどころではなかった。ふわりと鼻先を掠める透さんの匂い。求めるものが突然目の前に現れて、正気でいられるはずもない。それほどまでに、その時私の脳内は蕩けきっていた。
ぼろぼろと涙が零れるのも構わず彼に腕を伸ばす。体が、心が、強く透さんを求めていた。

「透さ、ん」

透さんは靴を脱ぎ捨てると私に近寄り、指先を強く握ってぎゅうと抱きしめてくれる。
彼の匂いに包まれて、彼の体温に触れて、体が満たされていく。好き。好き。透さんが好き。歓喜に体が震えるけど、それさえ抑え込むように強く抱き締められて脳が痺れるようだった。

「外まで、甘い香りが漏れていたので」
「……そと、」

透さんに抱き締められたまま、そっとベッドに座らせられる。彼の胸元に顔を埋めて深く呼吸するだけで、先程まで感じていた不安感も全部無くなっていく。

「ミナさん、今まで発情期でこんなふうになったことありませんよね」

ぼんやりする頭で考える。今までの発情期は、発情期とも言えないような本当に軽いものばかりだった。抑制剤を飲んでいるからと思っていたけど、今回だって抑制剤を飲み忘れたりなんかしていない。今までと同じようにしていたのに、どうして今回はこんなことになっているんだろう。

「透さんの、…匂いがするもの、たくさん欲しいです、」

そういえば、今まで透さんの匂いをこんなに強く感じたことは無かった。陽だまりのような暖かくて、それでいて甘く清涼感のある香り。なんだっけ、本で読んだ…そう、確か、フェロモンとかいう。でも、おかしいな。透さんはベータで、ベータからはフェロモンを感じることは無いはずなのに。
私が小さく呟くと、彼は息を飲んだようだった。
額に優しい口付けをされて胸がきゅんと疼く。

「ミナさん」
「……?」
「今まであなたに、隠してきたことがあります」

ゆっくりと顔を上げて、彼と視線を合わせてどくんと胸が高鳴った。

――でも、どうする?もし運命のアルファに出会っちゃったら。

――運命の番に出会うと抗えないって聞くもの。どうしようもなく互いに求めてしまうって。

園子ちゃんの言葉が脳裏を過る。
運命のアルファ。運命の番。出会うと、どうしようもなく互いに求めてしまって抗えない。

「ぁ、あ」

そんなわけないのに。そんなわけないと思ってるのに、胸が期待に打ち震えている。呼吸さえ忘れてしまう。
震える吐息を吐き出せば、透さんの目がぎらりと光ったような気がした。

「僕はベータではありません。…アルファなんです」

あぁ、そうだったのか。
ごめんなさい、と呟いた透さんが私の体を掻き抱く。強く透さんにしがみつきながら目を閉じる。
そうだったんだ。透さんは、アルファだったんだ。
運命の人。私の運命。もうそうとしか思えなかった。園子ちゃんの言った通り、どうしようもなく求めてしまう。抗えない。これが運命の力。
運命の番であるアルファとオメガが出会う確率は天文学的確率。けれど、透さんが私の世界にやって来て、私がこの世界にやって来たことだって、充分に天文学的確率の出来事なのだ。
うなじの辺りがちりりと痺れる。

「ここにいたんだ。…俺の、運命」

透さんの声が、甘く蕩けた。