目を覚ましたら、白い天井が目に入った。
ここはどこだ と視線を動かして頭部に走る鈍い痛みに眉を寄せる。真っ白い部屋、室内に併設された簡素なシンクと鏡。自然光がたっぷりと入る窓。病室だということはわかったが、自分が何故ここにいるのかと考えると記憶はかなり朧気だった。
酷い頭痛だ。手を動かして頭に触れれば、どうやら包帯が巻いてあるようだった。頭を打ったのか。

しばらくして病室の戸を開けたのは風見だった。俺が目を覚ましているとは思わなかったのかとても驚いて、切れ長の目を大きく開いていたのが印象的だった。
医師を呼ぶ前に状況の確認を、と告げると、風見は少し迷ったようだったが俺の言葉に応えて話し出した。
何かの事件でこんな怪我を負ったのかと思ったが、そういう訳ではなかったようだ。三日ほど前の雨の日、俺は道路に飛び出した子供を庇ってこの怪我を負ったのだという。普段ならばギリギリ避け切れるような状況だったろうが、雨により足元は悪く水たまりに足を取られたのだろう。子供を庇うところまでは良かったが、車体に掠って受身を上手く取れず、強かに頭を打ち付けたそうだ。情けない自分の状況に溜息すら出ない。
偶然、事故現場近くで少年探偵団の子供達が遊んでおり、俺の所属を知るコナン君が風見に連絡を取ってくれたらしい。事後処理は風見が全て取り仕切ってくれたようだ。

「…そうだったか。手間をかけてすまなかったな」
「いえ、とんでもない。降谷さんがご無事で本当に良かったです。…どうします?降谷さんの意識が戻らなかったので面会謝絶にしてありましたが、佐山ミナへの連絡は…」
「……佐山ミナ?」

聞き馴染まない名前に眉を寄せれば、風見の表情が変わった。佐山ミナのことを、ご存知でない?聞かれて俺はそのまま頷きを返す。その後も風見に知り合いの名前をいくつも上げられたが、どれも知った名前ばかりで余計に意味がわからなかった。飼い犬のハロのことも聞かれてさすがに馬鹿にしているのかと思ったが、風見の顔は至って真剣だった。この男がこんな場面で冗談を言う奴じゃないことは、誰よりも俺が知っている。
風見が上げた名前の中でわからないのはただ一人。その佐山ミナという名前だけ。

「…その、佐山ミナとは誰のことだ」
「………降谷さん」

落ち着いて聞いてください。風見の言葉に俺は目を細める。
風見は、その佐山ミナという名前の女性のことを…俺の、恋人だと言った。


──────────


「こっちがトイレで、そっちが洗面所とお風呂。ここがカウンターキッチンとリビング。それから、あっちが寝室で、そのドアが零さんのお仕事部屋です」

妙な気分だった。
見知らぬ家の中を、見知らぬ女が説明している。けれど、俺はこの女と一緒にこの見知らぬ家に住んでいたという。言いようのない奇妙さに、俺はハロを抱き上げたまま女の話を聞いていた。
この女が、風見の言っていた佐山ミナ。出自は風見も詳しくは知らないらしい。曰く、ある時突然現れて俺と一緒に過ごすようになった、と言っていた。彼女のデータも調べてみたが、何らおかしなところは無かった。
俺の協力者だった、というわけではない。そもそも彼女は安室透のセーフハウスで暮らしていた時から一緒にいたらしいし、この俺が得体の知れない人物を家に入れるはずもない。
…恋人。まるで夢のような話だ。

「零さん?」
「…あぁ、いえ。すみません、少し考え事を」

俺から少し距離をとった状態の彼女が、じっと俺を見つめていた。ぼんやりとしてしまっていたらしく軽く頭を振る。

「…まだ退院したばかりですもん。具合、あんまり良くないんじゃないですか?」
「そんなことはありませんよ。検査でも異常はありませんでしたし」
「…なら、いいんですけど」

俺と彼女の距離感に気付いているんだろう。ハロもどこか落ち着かない様子で俺と彼女の顔を見比べている。…ハロの様子からしても、俺が佐山ミナと共に生活していたというのはどうやら間違いではないらしい。

「あの、」

不意に声をかけられて視線を上げる。佐山ミナはぎゅうと両の手を握り締めながら、唇を引き結んでじっと俺を見つめている。
その瞳の奥に見え隠れするのは、恐らくは不安。懸命にそれを隠しながら、俺と真正面から対峙している。

「どうか、敬語はやめてください。…なんだか安室透さんだった頃を思い出して少し懐かしいですけど…でも、いつも通り、本当のあなたでいて欲しいから」

安室透が俺の偽名であることも知っている。恋人という事実を裏付けるような深い仲であったことは間違いないらしい。

「…それでは、いつも通りに。俺は君のことを、何と?」

風見の言っていたことを疑うわけじゃないが、自分の目で彼女を確かめるまではどうしても丸っきり信じられなかった。けれど風見の証言に加え、ハロの様子が何よりも真実を物語っている。
俺はこの佐山ミナという女性と、正しく恋人同士だったんだろう。実感は湧かないが、恋人を突然失ってしまった哀れな彼女のために、せめて少しでも恋人らしく振る舞うことが今俺に出来ることだと思った。
問うと、彼女はほんの少し目を見張ってから寂しげに微笑む。

「ミナ、と」

何故だかその寂しげな笑みが、強く俺の胸を刺した。



記憶喪失。簡単に言えば俺はそれだ。ただし日常生活や今までの記憶へのダメージはない。俺は警察庁警備局警備企画課、通称ゼロに配属され、黒の組織へと潜入した。バーボンというコードネームを得て組織の中枢へと食い込み、江戸川コナン少年の力を借りて組織を壊滅へと追い込んだ。
APTX4869で幼児化したコナン君と宮野志保は、未だ幼い姿のままだ。組織から押収したデータで解毒薬の開発に一歩近付きはしたものの、データの量が膨大すぎて数日やそこらでは到底無理であると宮野志保本人が口にしていた。
長年追っていた組織は壊滅。そんな記憶ははっきりとあるのに、俺の過去から佐山ミナという存在だけがぽっかりと抜け落ちてしまっている。
彼女は、よく笑う女性だった。馬鹿ではないし、なんでもテキパキとこなす。気も回るしほとんど何でも自分でやるが、料理だけは苦手だと恥ずかしそうに洩らしていた。

「ハロ、ハロ」
「アンッ」
「ふふ、いい子」

リビングでハロと戯れている彼女を見つめながら、ぼんやりと思う。
彼女は陽だまりのような人だった。傍にいると暖かく心地よい。自然と体から力が抜けて、ささくれ立っていた気分もすっと凪いでいくような、そんな人。なるほど、俺が彼女を傍に置きたいと思ったことも納得がいく。

「…コーヒーでも淹れようか」
「あ、お願いします!…ふふ、零さんのコーヒー大好きなんです」

ポアロの頃はカフェラテばかり飲んでいましたけど、零さんのコーヒーを飲んでコーヒーも好きになったんですよ。笑う彼女に笑みを返して立ち上がり、キッチンへと向かう。
彼女は、決して過去のことを押し付けたりはしなかった。こんなことがあった、あんなことがあった。まるで自分ではない他人の話をするような、そんな軽く柔らかな口調でふとしたタイミングで口にする。記憶を取り戻すようにとあれこれ押し付けられたらどうしようかと思っていたが、俺の心配は無用だった。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

コーヒーのマグカップを受け取った彼女が嬉しそうに頬を染めて笑う。俺が淹れたコーヒーを飲んでほっと息を吐く彼女を見て、不意にキスがしたいな、と思った。
退院してこの家に来てからもうすぐ一ヶ月。その間、彼女と恋人らしい触れ合いは一切無い。仮にも恋人だと言うのに、彼女はそのことに不満はないのだろうか。

「…君は、俺に記憶を取り戻して欲しいと思わないのか?」

あまりに優しく笑うから。恋人らしい触れ合いもないのに、当たり前のように俺の傍で笑うから。
突然の問い掛けだったにも関わらず、彼女は俺の言葉に一度瞬きをするとゆるりと首を振った。

「思いません。…そりゃ、思い出してくれたら嬉しいですけど…それを、強要したいとか、そういうのは無いんです」
「…けど、時々夜中に泣いているだろう」

ひゅっと息を飲む音が聞こえた。

「……気付いていたんですか」

毎日ではない。けれど数日に一度夜中に起き上がり、眠っている俺の顔をじっと見つめた後に寝室を出てリビングで泣いている。
俺を起こさないようにだろう、ひたすら唇を噛み締め声を飲んで、リビングのソファーでクッションを抱き締めながら肩を震わせて、しばらく泣いているのを知っていた。そんな彼女の傍には決まってハロがいて、慰めるように寄り添っていた。

「泣くほど辛いんだろ」
「…それは、…その、」

別に彼女を追い詰めたいわけでも責めたいわけでもない。口篭る彼女に、変に考えて欲しくないとこの話題はここで切り上げようとした。どの道俺の記憶は、まだ戻らないのだ。戻るかどうかもわからない。
そう思ったが、俺よりも先に彼女が口を開いた。

「あの、…本当に、無理に思い出して欲しいとか、そういうんじゃないんです。零さんは私の恩人で、私が零さんのことを好きだということに変わりはありません。あの、私、私も以前記憶喪失になったことがあるんです。その時、零さんは大丈夫ですよって言ってくれました。ゆっくりでいい、今は何も考えなくていいって。私、それが本当に嬉しくて…すごく、救われたので」

彼女の目は、真っ直ぐだった。真っ直ぐに俺を見つめ、逃げまいとする意思を感じる。そんな彼女の目が、ゆらりと揺らぐ。

「あの、…ほんとに、…零さんが、無事だっただけで、ほんとに、」

ひく、と彼女の喉が鳴った。驚いて目を見張る俺の前で、ぽろぽろと涙を零す彼女はその涙を拭いもせずに言葉を続ける。

「風見さんから、零さんが事故に遭ったって、連絡もらって、…あ、会いに行きたかったけど、意識が、も、…戻らない、って、言われて、私、…なにも、出来なくて、」

ひく、ぐす、彼女の泣き声を聞くのは、初めてだった。彼女はいつも、声もなく泣いていたから。肩を震わせて泣いているのを、一方的に見つめていることしか俺には出来なかったから。

「だから、…だからほんとに、零さんが、生きててくれただけで…ッ、れ、零さんが、無事で、良かっ…」

彼女の言葉を聞いていられたのは、そこまでだった。俺は泣きじゃくる彼女を抱きしめて、ぎゅうと腕に力を込める。
愛おしいと思った。心から、彼女のことを愛おしいと思った。それと同時に、彼女のことを忘れてしまって思い出せない自分のことを憎いとさえ思った。
何故、忘れてしまったんだろう。何故思い出せないんだろう。こんなにも彼女のことを愛おしいと思う。大切だと思う。
逃げていたのは俺だ。記憶をなくして、彼女に歩み寄ろうとしなかったのは俺だ。

「ミナ、ごめん」
「零、さん、」
「ごめんな」

謝ることしか出来ない。愛してるということも、そんなに俺のことを思ってくれてありがとうということも、今の俺に言う資格なんてない。
俺の背中に必死にしがみつきながら泣きじゃくる彼女をただ抱き締めながら、いつか俺の胸に刺さった痛みがじくじくと大きくなるのを感じていた。



――その晩、夢を見た。




──────────


「んっっとにいい加減にしろよなお前ら」
「まぁまぁ、そう言うなって陣平ちゃん。降谷は子供を守って事故に遭ったわけだしさ、不可抗力っしょ」
「ふざっけんな子供一人救うのにてめーまでボロボロになってどうする!事故るなとは言わねぇが大切なもん手放してんじゃねーよ後生大事に抱いとけ!」
「んな無茶な」

懐かしい声だった。騒がしいけど心が安らいで、苛つくことも多かったし何度もぶつかりあったけど誰よりも信頼できる奴らだった。
目を開けることも、指先一つ動かすことも出来ない。ゆらりゆらりと漂っているだけの、不思議な空間。

「お前らそのへんにしとけって。まずは子供を守った降谷を褒めてやるのが先だろ」
「降谷は伊達の子供か?」
「こんなでけぇガキいらねぇよ」

あぁ、本当に懐かしい声だ。もう二度と聞くことは出来ないと思っていた、あいつらの声。結構酷いことを言われているのに、俺の胸に満ちるのは喜びだった。
俺を置いて、先に逝ってしまった友人達。誰かを失う悲しみを、辛さを、俺はよく知っている。

「だったら、もうミナちゃんを悲しませるようなことはすんなよ。ゼロ」

ほんと、世話の焼ける奴。小さな笑いと共に落とされたその言葉に、胸が震えた。
そうだな、ヒロ。彼女を置いて先に逝くことも、彼女から恋人である自分の存在を取り上げることも、もうしない。
もう彼女を悲しませるようなことはしないと、他でもないお前らに誓うよ。彼女と俺を、守ってくれたお前達に。


ゆるりゆるりと夢の中での意識が遠ざかっていく。あいつらの声はまだ聞こえていたけど、ぼやけて響いて何を言っているのかまではわからなかった。反響するあいつらの声を聞きながら、早く夢から覚めたいと思う。
遠く世界を越えて俺を選んでくれた彼女。力いっぱい抱きしめて、愛してると囁きたい。ありがとうと伝えたい。
朝の目覚めが待ち遠しい。
早く、ミナに会いたい。