「え?阿笠博士がギックリ腰?」
『そうなの、今日みんなで海に連れてってもらうはずだったんだけど…』

夏真っ盛り。行楽シーズン到来。観光施設には日本人だけでなく海外からの観光客も溢れかえる時期である。
その日私と透さんはお互いにお仕事がお休みで、せっかくだから夏らしさを楽しもうかということでお出かけの予定を立てていた。ベルツリーとか、東都タワーとか、今だからこそちょっと混雑したところにも行ってみたいなというか。と言っても私も観光施設なんてあまり詳しくなくて、「インスタ映え〜みたいなところに行きたいです」なんて無茶苦茶なリクエストをしてしまったんだけど。透さんはおかしそうに笑いながらも快くOKしてくれた。彼の脳内にはたくさんの選択肢があるに違いない。
で、朝食を食べてそろそろ出かける準備をしようかという時になって私のスマホに歩美ちゃんから電話がかかってきたのである。そして話は冒頭に戻る。
子供達を引率する予定だった阿笠博士がギックリ腰になり、動けなくなってしまった。子供達はすっかり準備万端で、突然の予定の頓挫に嘆いているのだという。頼りに出来そうな毛利さんは今日は探偵のお仕事で外出中、蘭ちゃんは部活動で忙しい。そこで、私に白羽の矢が立ったそうだ。

『哀ちゃんは、博士の看病するから残るって言ってるから、歩美と光彦くんと元太くん、それからコナンくんで四人なの』
『ミナ姉ちゃん、博士の代わりに連れてってくれよ!』
『せっかくビーチボールや浮き輪も用意したんです!』
『ミナお姉さん、お願い!』
『お前ら、ミナさんを困らせてんじゃねぇよ』

歩美ちゃんのスマホはスピーカーにしてあるんだろう、皆の声が聞こえてくる。コナンくんは無理に行かなくてもいいって感じなのかな。
とは言っても、私は車の運転なんて出来ないし…引率するとしたら電車での移動になるけど、それだと子供達も大変だろうし。どうしたものかと眉尻を下げていたら、そんな私の様子に気付いた透さんが不思議そうな顔をしながらこちらに寄ってきた。彼の口が、「どうしました?」と動いている。
私がスマホの通話口を軽く手で押さえながら事情を説明すると、彼は納得したように頷いた。

「阿笠博士がギックリ腰ですか」
「はい、それで博士の代わりに海に連れて行って欲しいと…」

電話の向こうからは、未だ子供達の懇願の声が聞こえている。
子供達からしてみれば夏の海というのはとてもとても貴重なものに違いない。プールと違って夏しか楽しめないし、夏の海というのは確かにテンションも上がる。彼らの年齢くらいの子供からしてみれば尚更だろう。

「子供達の人数は?」
「コナンくんと歩美ちゃん、光彦くんに元太くん、四人です」
「わかりました」

どうしようかと考えていたら、透さんは何やらどこかに電話をかけ始めた。
それから少し話をして、笑顔で電話を切る。

「僕の車では大人二人と子供四人は乗れませんから、米花町駅前でレンタカーを手配しました。六人乗りのミニバンが借りられましたので、それで博士の家まで子供達を迎えに行きましょう」
「えっ、でも、いいんですか?」

私としては、正直頼ってくれた子供達を無下には出来ない。頼ってもらえるというのは純粋に嬉しいし、きっと私に車が運転出来れば軽くOKしていたに違いないのだ。でも、だからと言ってそんな私に透さんを巻き込むわけにはいかないというか、わざわざ付き合ってもらうのもどうなんだろうと思ってしまう。
そんな私の思いを正確に読み取っただろう彼は、苦笑を浮かべながら軽く肩を竦めた。

「あなたの顔に放っておけないと書いてありますから。今日のデートは、子供達も一緒に海ということにしませんか?」

ミナさん、こないだ買ってた水着をまだ着ていないでしょう。そう言われて思わず赤くなる。
例のごとくというか、先日蘭ちゃんと園子ちゃん、世良ちゃんと一緒にショッピングに行った際、皆で水着を購入したのである。私ももう軽率に海とかプールに行く機会なんてない気がするし、水着はいらないと思っていたんだけど…園子ちゃんと世良ちゃんの圧に負けて、買ってしまったのである。ナイトプールに行こうねなんて話をしたけど、全員の都合が上手く合わず今はまだ予定を立てようとしているところだ。
そんなわけで確かに買ったばかりの水着はしまい込んであるのだけど。

『ちょっとお、ミナお姉さん聞いてるー!?』

スマホから歩美ちゃんの声が聞こえてはっとした。
慌ててスマホを耳に当てる。

「ごめん、今ちょっと透さんと話してたところだったの」
『えっ!安室さんもいるの!?』
「うん。今レンタカーを手配してくれたから、透さんの運転で海に行こう。それでいい?」

確認のつもりで聞いたけど、子供達の歓喜の声に最後の方はかき消されてしまった。透さんをちらりと見れば小さく笑っている。その表情があまりに優しくて、確かに子供達と透さんと一緒に海に行くのもいいかもしれないなんて思った。
子供達に迎えに行くことを伝えてから電話を切り、予定を変更して海に行く準備を始める。水着とバスタオル、帽子と日焼け止めクリーム。
海、楽しみだな。


***


「ミナさん、安室さん、急だったのにありがとう。二人とも今日はお休みだったの?」
「うん。ちょうど出かけるところだったんだけど、出かける前に連絡くれて良かったよ」
「…もしかしてデートだった?」

申し訳なさそうに眉尻を下げるコナンくんに小さく笑って、大丈夫だよと付け加える。
米花町駅前でレンタカーを借りた私と透さんは、そのまま博士の家に子供達を拾いに行った。博士はよほどの重症らしくて立つことも出来ないらしく、哀ちゃんはそれに付き添っているそうだ。この後知り合いのお医者さんがお家まで診に来てくれるとのことなので多分大丈夫だろう。

「博士、早く良くなるといいね」
「ほんっと、情けねぇよなぁ博士」
「元太くん、大人になると体は何もしなければ自然と衰えるものなんだよ…」

子供にはまだまだわからないだろうけど。時間は無情なのだ。私だって長い人生を思えばまだまだ若い方だと思うけど、それでも連日子供達が遊び回っているのを見るとそんな体力は私にはないとはっきり断言出来る。元気が何よりだ。

透さんの安全運転で車を走らせること約一時間。到着した海水浴場はシーズン真っ只中ということでたくさんの人で賑わっていた。
男子と女子に分かれて更衣室に行くことになり、私は歩美ちゃんと一緒に水着に着替えて更衣室を出たのだけど…既に着替え終わって外で待っていた透さん達を見つけて、思わず足が止まる。
透さんはライトグリーンの海パンに白いパーカーを羽織っていた。パーカーからちらりと見える逞しい胸板にどきりと心拍数が上がる。
…かっこいい、なぁ…。

「ミナお姉さん?」
「えっ、あっ、ご、ごめんね。行こっか、」

立ち止まった私を不思議そうに見上げる歩美ちゃんにはっとして軽く頭を振る。
海の家でレジャーシートを購入し、ついでに大きなパラソルも借りる。人が多くて拠点となる場所を探すのにも少し苦労したけど、なんとかスペースを見つけることに成功した。透さんがパラソルを準備して、私はレジャーシートを広げ、子供達は浮き輪に空気を入れる。準備万端な様子である。
バッグから日焼け止めクリームを取り出したものの、ボーイズは必要ないと首を振っている。歩美ちゃんだけ塗って欲しいと言ってきたので、彼女の顔や首、腕と足に丁寧にクリームを塗り込んだ。日焼けしたくないんだって。幼くてもやっぱり女の子だな。

「それじゃあ行こうぜ!!」
「あっ、元太くん待ってくださいよー!」
「光彦くん、浮き輪ー!」

駆けていく元太くんと光彦くん、歩美ちゃんの背中を見つめて小さく笑う。パーカーを脱いだ透さんが、私の肩にそのパーカーを掛けてくれて顔を上げた。

「それじゃ、ちょっと行ってきます。子供達の様子を見ながら戻ってきますから、ミナさんも熱中症と脱水症状には気を付けてくださいね」
「はい。…行ってらっしゃい、ここから見てますね」

フードを被せられてぽんと頭を撫でられれば、私はたちどころにふわふわと甘く温かく蕩けてしまいそうになる。子供達を追って駆け出す透さんを見送り、ほうと息を吐き出してから私はちらりと隣に視線を向けた。

「…で、コナンくんは行かないの?」

準備が終わるなり弾丸のように飛び出して行った元太くん、光彦くん、歩美ちゃんと違って、コナンくんは私の隣で三角座りをしたまま海を見つめている。私の視線に気付いた彼は、私と同じようにちらりとこちらに視線を向ける。

「ミナさんを一人には出来ないよ。荷物があるから誰かはここに残らなきゃいけない。でも子供の水難事故も多いからあいつからから目を離すことは出来ない。つまり安室さんかミナさんのどちらかはあいつらについて行かなきゃならない。安室さんがあいつらの面倒を見てくれるなら、ボクはここでミナさんとお留守番。いいでしょ?」
「良いんだよ?気にしなくても」
「ボクがそうしたいんだからいいの。…それに、そんな格好のミナさんここに一人置いて行ったら大変だよ」
「えっ、どうして?……水着、変かな」
「………よく似合ってるよ」

安室さんも大変だな、と呟いたコナンくんが乾いた笑いを漏らす。どういう意味だろう。似合ってると言ってくれた割にはものすごく間があったような。
海の方に視線を向けると、透さんは子供達の泳ぎを見てあげているようだ。歩美ちゃんと光彦くんが浮き輪に捕まりながら笑い声を上げている。あ、元太くんが軽く溺れて水を飲んだみたい。大丈夫かな。…でも、ふふ、楽しそうだな。
本当にコナンくんはあそこに混ざらなくていいんだろうか。せっかく来たのに、彼にだけつまらない思いをさせるのも忍びない。暑い中荷物番の私に付き合わせてしまっているのだし、何か食べ物でも買ってこようと考えて財布を手に立ち上がる。

「コナンくん、何か食べる?」
「えっ?でも…」
「いいから。私も少しお腹空いちゃったんだ。海の家すぐそこだし、何か買ってくるよ。何がいい?」

コナンくんは少し迷っていたようだったけど、すぐに小さく笑ってフランクフルトのリクエストをしてくれた。暑いし喉も乾いてるだろうから何か飲み物も一緒に買おうと決めて、私はコナンくんをその場に残して海の家へと歩き出す。
フランクフルトを一先ず五本と、よく冷えたペットボトル二本を腕に抱えて海の家を離れ、はたと気付く。…はて。ここは。一体…どの辺なのだろう、か。
視界に広がるのは同じようなパラソルの海。
しまった。自分のパラソルの場所をきちんと確認してから来るべきだったのに、何も考えずに海の家まで来てしまったから場所がわからなくなってしまったのである。自分が来た方向はもちろんわかるけど、でも大まかな場所しか分からない。
どこまでも同じような光景が続いていて、人は沢山溢れていて、私はただただその場にぽかんと立ち尽くした。

「……どうしよう、」

あんまり長い時間戻らなければコナンくんが心配するだろうし、透さん達もパラソルに戻ってくるかもしれない。海の家の列もすごかったからパラソルを離れてから大分時間も経ってしまっているし、早く戻りたいのに場所がわからない。焦りが胸をじりじりと焼き始めた、その時だった。

「…ミナ、さん?」

不意に名を呼ばれて勢いよく振り向く。私の顔を見た彼は驚いたように目を見開いたけど、彼の顔を見た私もまた驚きに大きく目を見開く。

「やっぱりミナさんだ」
「か、快斗くん?!」

なんとそこに居たのは快斗くんだった。知り合いに会えたという安心感から駆け寄れば、快斗くんは小さく笑った。

「ミナさん偶然じゃん!遊びに来てたんだ」
「快斗くんこそ。それだけたくさんの焼きそば抱えてるってことは、そっちは結構な大人数?」

彼は両手にたくさんの焼きそばを抱えている。到底一人で食べる量とは思えないし、二人や三人という少人数でもない気がする。男の子だからたくさん食べるのかなと思わないわけじゃないけど、まぁパッと見の判断でいけば五、六人といったところだろうか。

「まーね。男ばっかでむさ苦しいったらねぇけどさ、まぁこういう夏もアリかなってことで。ここでミナさんに会えたからむさ苦しさマイナス百って感じ。水着可愛い」
「またそうやって歳上をからかって」
「からかってねーし。で、ミナさんは?」

きょとん、と首を傾げる快斗くんに苦笑を浮かべ、私は視線をパラソルの海へと向ける。

「子供達の引率で来たんだけど…自分のパラソルの場所がわからなくなっちゃって」
「子供達…あぁ、少年探偵団の?」
「そう。子供達は透さんが見てくれてるけど、パラソルでコナンくんが待ってるから…早く戻らないと心配させちゃう」
「げ、あの探偵もいるのかよ」

快斗くんはあからさまに嫌そうな顔をした。それもそうか。こんな海に遊びに来て、プライベートでまで好敵手には会いたくないんだろうな。今の快斗くんとコナンくんが会ったとしても、キッドだとはわからないとは思うけど。

「ひとまず、俺のパラソルもあっちの方だから途中まで…」
「ミナさん!」

突然呼ばれて肩を抱かれてよろめいた。フランクフルトを落としそうになって慌てて持ち直しながら顔を上げれば、強く快斗くんを睨む透さんが立っていた。まだ海から上がったばかりなのだろう、彼の体は海水で濡れていて、髪から雫が滴っている。…これが本当の水も滴るいい男ってやつなんだろうな、なんて考える。

「おっと、そんな怖い顔で睨むなよ。見ての通り俺は両手が塞がってますし、彼女の両手も塞がってますし。たまたま偶然ここで会って、少し話をしてただけだって」
「と、透さん…!ごめんなさい時間かかっちゃって、迷子になってて…!」
「そう。俺も方向が同じだから、途中まで一緒に行こうとしてただけですけど?」

な、なんだかこのバチバチした感じは既視感がある。そういえばこの二人、初対面の時もやたらとバチバチしてたけど…。私の方には見向きもせず、透さんと快斗くんはじいと睨み合っている。

「…そうですか。それはお手数をお掛けしました。ですがもう大丈夫ですので失礼します。ミナさん、行きましょう」
「え、あ、はいっ、か、快斗くんまたね…!」

透さんに肩を抱かれたまま歩き出す。手が塞がってるから手を振ることも出来なくて、とりあえずまたねと声を投げておく。
人の並を縫うように透さんと一緒にパラソルの方に向かって歩きながら、私はちらりと彼の顔を盗み見た。視線が合うことはないけど、彼はそのまま口を開く。

「コナンくんから、ミナさんが海の家に向かったまま帰ってこないと聞いたので見に来てみれば」
「時間かかってすみません…」
「いいえ。でも、心配しました」

透さんは言うと、ふぅ、と息を吐いた。濡れた髪が揺れて、毛先の雫が太陽の光に反射する。綺麗だなぁ。
…これだけの人混みだし、きっと心配させてしまったんだろう。そもそも私がちゃんとパラソルの場所を覚えていればこんなことにもならなかったのだ。結局は自分の責任だ。反省、と思いながら視線を落とせば、透さんは私の頭からパーカーのフードを外した。それから私の項にそっと唇を寄せる。咄嗟のことに体を硬直させる余裕もなかった。

「虫除けです」

そっと透さんが囁いて、項にちゅうと吸い付かれる。ちくりと小さな痛みが走って、それと共に彼の意図を理解して、爆発するような勢いで顔が赤くなるのがわかった。

「と、っと、と、透さん…!」
「すみません。…でも僕も、これでもヤキモチ焼きなんですよ。本当はあなたの水着姿だって、僕以外の誰にも見せたくない。…なんてね」

冗談なのか本気なのかわからないようなトーンで透さんは言った。なんでそんなことを言うんだろう。私がますます恥ずかしくなることも、赤くなることも、透さんなら絶対わかるはずなのに。
真っ赤になった私を見て、透さんがクスクスと笑う。
これから子供達のところに戻るのに、この顔の熱も赤みも引きそうにない。