なんだか朝から、体調が少し悪いような気はしていた。
体がだるくて、頭が痛くて、咳が零れると胸の辺りまでざらざらと痛む。だけどどうせ疲れだろう、前の世界で仕事をしていた時もこんなことはよくあった、なんて思っていた。
零さんは今朝早くから出ていったみたいで、テーブルの上には簡単な朝食が準備されていた。びっくりするくらい食欲がなくて、二口くらい食べてほとんど残してしまった。零さんに酷く申し訳ない気持ちになった。
零さんはここ数日、とてもとても忙しくしている。帰ってくるのは夜中だし、私が起きる頃にはもう家を出てしまっている。最後に彼の顔をちゃんと見たのは、一週間…以上、前かもしれない。
彼がこの国を守るお巡りさんだということは教えてもらったけど、本名や本職を教えてもらえるようになってもその内情まではとても明かせるものでは無いらしい。彼が忙しい人だというのは重々理解しているけど…それでも、しばらく会えていないのは寂しいと思う。

ハロは、私の不調に鋭く気付いていたらしい。吠えられたし、行っちゃダメと言わんばかりに服の裾を齧られた。でも今日は仕事だし行かないと。今日は快斗くんも一緒の日だから安心だ。
マスクをして、だるい体を半ば引きずるようにしながら嶺書房に出勤した。私の顔を見た快斗くんはぎょっとして、目を瞬かせた。

「えっ、ミナさん何?大丈夫?いや大丈夫じゃねーよな。顔真っ赤だよ、風邪?熱は?」
「大丈夫、元気だよ」
「元気じゃねーだろ!」

帰れ、大丈夫、帰れ、大丈夫、のやり取りを何度か繰り返し、結果として折れたのは快斗くんだった。とは言え、私がレジに立つのは許してくれず、私はレジカウンター奥のテーブルで書類の整理や発注処理を行うことになった。
今日はお客さんも少なめで来る人皆が常連さんなので、私の様子を見て皆心配してくれる。…でも、そんな周りからもわかるくらい、今の私って調子悪そうなのかな。
書類の文字が歪んで、だんだんどこを読んでいるかわからなくなってくる。どうしよう、熱が上がったみたい。でも、仕事しなくちゃ。こんな風邪くらいで休んでいたら、周りに迷惑がかかるし…また、怒られちゃう。やらなきゃいけない仕事はたくさんあるのに。そうだ、頼まれた資料も作ってないし、会議資料のコピーと、注文書の発行と…あ、あの件の請求書は処理したっけ、先日退社した人の引継ぎと、しまった、私、どこまでやっていたんだったか、

「ミナさん!」

大きめの声で呼ばれてハッとした。
ゆっくりと顔を上げると、私の肩に手を置いた…快斗くんが立っている。
…快斗くん。そう、…そうだ。私が今いるのはあの職場じゃなくて、嶺書房。
いつの間にか意識が飛んでいたらしい。ぐるぐるとした軽い眩暈を感じながら手元に視線を向ければ、書類にはミミズがのたくったような文字が伸びていた。なんだこれ、酷い。いや、私が書いたんだけど。

「ミナさん、駄目。帰ろ」
「…大丈夫、」
「大丈夫じゃねーよ。後は俺がやっとくから。つーか、あれ、ミナさん一人暮らしだっけ?彼氏と一緒に住んでる?家に誰かいる?」

頭が重くて上手く回らない。テーブルに肘をついて額を押さえると、なるほど、確かに熱いな。
…でも、大丈夫。大丈夫。一人で早出も残業も頑張ってきたんだもん。誰もいない事務所で、一人で仕事してたんだもん。これくらい平気。あの時だってなんとかなった。熱くらいで、風邪くらいで動けなくなるなんて、そんなのおかしい。
頑張らなきゃ、頑張らなきゃ。ぐるぐると回る頭は、どうしてだかそんなことばかりを考える。
私、今どこにいるんだろう。

「ミナさん、とりあえずこれ飲んで。…俺の飲みかけでごめんって感じだけど」

差し出されたペットボトルを見つめて、ぼんやりとした頭で考える。…スポーツドリンクの、ペットボトルだ。のろのろとペットボトルを受け取って、力の入らない指でキャップを外そうとしたら手を滑らせた。
落とす寸前で快斗くんがキャッチしてくれる。

「あっぶね…!ミナさん平気?」
「…うん、…ごめん」

よくわからない、けど。でも自分が快斗くんに、大きな迷惑をかけていることは理解出来た。私、何してるんだろ。こんな、自分の体調もきちんと管理できないで、快斗くんに迷惑かけて。仕事もまともに出来ず、周りに心配をかけて足を引っ張って。
どうしていつも、私はこう。

「…ごめん、ね」
「何で謝んの。謝ること何もないっしょ」
「でも私、周りに迷惑ばっかかけて」
「迷惑じゃないよ。心配なだけ。…ミナさん、自分のことに関しては本当に頭硬いなぁ…真面目なんだろうけどさ、俺としては心配だよ」

私の隣に腰を下ろした快斗くんが、今度はキャップを開けたペットボトルを差し出してくれる。しっかり持って、そう言われながら怠重い腕を持ち上げてペットボトルを握る。口に運ぶと、冷たいスポーツドリンクが喉を通っていった。程よく甘くて美味しい。自分でも気付かないうちに、私の体は水分を欲していたらしい。水分を摂って、頭が先程よりも幾分かスッキリしてきた。

「ミナさん、彼氏に電話」
「……大丈夫、一人で帰れるから」
「駄目。帰れるかどうかも心配だけど、帰ってからも心配だから。ミナさんが電話するの嫌なら、俺が電話してやっから」

ん、と手を差し出される。…スマホを要求されているらしい。私の代わりに快斗くんが電話って…なんだかそこまで面倒をかけるのも申し訳ないと思いながら、でもここまで来たら今更かもしれないなんて思う。
私は頭が上手く回ってないし、この状況を上手く伝えられる気がしない。…これ、間違いなく零さんに怒られるやつだろうなぁ…。
わけがわからなくなってる私が電話するより、快斗くんにしてもらった方が間違いもないかと考えると、私は零さんの番号を表示させたスマホを快斗くんに手渡す。その表示は安室透のままだ。外で彼を呼ぶ時は、本名ではなく偽名のまま。米花町に生きる彼は、降谷零ではなく安室透として存在している。
今日も朝早くから出ていったみたいだったし、立て込んでいるみたいだから電話には出ないかもしれない。…電話が迷惑にならないといいんだけど、とぼんやりとしながらゆっくりと息を吐く私の隣で、快斗くんがスマホを操作しているのが横目に見えた。彼は通話ボタンをタップすると、そのままスマホを耳に押し当てる。それから、小さく咳払いをした。

『…はい。…ミナさん?』

何回かのコール音の後、スマホから零さんの声が聞こえてくる。電話、繋がったんだ。忙しくないのかな、大丈夫かな。そんなことを考えていた私は、次の瞬間叫び出しそうになった。

「…もしもし、透さん…?」

ぎょっとして隣を見る。
い、今。今の、声は。

『どうした?今日は嶺書房だったと思ったけど…』
「そう、なんですけど…今朝から体調が悪くて…。今から、帰ろうと思うんですけど、透さん…今日、何時頃帰ってきますか…?」

わざとらしく小さく咳き込む快斗くんのその声は、私の声そのものである。目の前の男子高校生(ここ重要)の声帯から私の声が出る光景は異様としか言いようがなく、私はただぽかんとして見つめていた。怪盗キッドのスキルをこんなところで見せつけられるなんて思わなかった。

『まだ嶺書房だな?いいか、俺が迎えに行くまで、勝手に帰ったりするなよ。今から行く』
「ありがとうござ…、…切れてる」

ほい、と快斗くんからスマホを返されるけど、私は言葉が出ない。私にはわかる。今の零さんの声は、怒っている時のそれだった。やばい。やっぱり怒られる。
一気に熱が上がったような気がして、くらりと目眩がした。テーブルに突っ伏すと、ポンポンと頭を快斗くんに撫でられる。
…熱は上がったような気がするけど…でも、不思議とさっきまでの地に足つかないような覚束無い感覚はなくなっていた。私はちゃんとここにいる。

「ミナさんはさ、頑張りすぎ」

頭を撫でられているうちにうとうととしてきて、瞬きの速度が落ちていく。ゆるりと快斗くんを見上げると、彼は小さく笑っていた。

「いいんだよ、周りに甘えたって。迷惑じゃないからさ」
「…ありがと、快斗くん…」
「彼氏来るまで寝てなよ。後は俺に任せて」

優しい言葉に促されて、私はそのままあっさりと意識を飛ばしていた。


***


ふ、と意識が浮上した。随分と深く眠っていたらしく、目を開けるとすっかり見慣れた天井が目に入る。零さんの家の寝室の天井だ。いつの間にか帰って来ていたようだ。
まだ熱が高いみたいで視界はぐらぐらと揺れていたが、ふと触れた額に冷却シートが貼ってあるのに気付いた。酷い耳鳴りがしていて聞こえにくいが、ドアの向こうから微かな物音がするし明かりも漏れている。…今何時だろう、外はまだほんの少し明るいみたいだけど、電気のついていない室内は暗くなっていた。
体を起こそうとして…ぐらり、と視界がぶれる。体に上手く力が入らなくて、起こしかけた体はそのまま再びベッドに沈んだ。…しんどい。体はとても熱いのに、寒気を感じて小さく身体を震わせる。
かりかり、と寝室の戸を引っ掻く音がする。…ハロだ。小さな音のすぐ後に戸が開く音と、足音が聞こえた。ゆるりと目を開けると、すぐそばに零さんがしゃがみこんでいる。

「…れい、さん」
「じっとしてろ」

零さんは私の首筋に手を当てて、それから小さく溜息を吐いた。

「なんでこんな状態で仕事に行ったんだ?今日は一人のシフトの日じゃなかっただろう。無茶なことだとわからなかった?」
「……れいさん、…おこってる?」
「当然」

零さんの声はいつもよりも低い。その声に、私を甘やかすような色はない。…本当に怒ってるんだ。でも、そんなの考えなくたって当然…そう、当然のことだ。
体調が悪いのは朝からわかってた。今日は快斗くんと二人でのシフトだということもわかっていた。ぼんやりとしていて休むということが頭になかったというのはあるけど、お陰で結局私は倒れ、快斗くんにも零さんにも迷惑をかけた。
私がもっとちゃんとしていれば、なんてぐるぐると考え始めて言葉に詰まると、零さんは今度は深い溜息を吐いた。

「…本当に君はなんというか。そうじゃないだろ、そうやってまた変な方向に自分責める」
「……だって、」
「違うよ、前にも言っただろ。俺が怒ってるのは周りに頼ろうとしない君のその姿勢」

体調を崩すのは人間なんだから当たり前のこと。零さんはそう言ってから、目を細めて私をじっと見つめた。

「君は意識も朦朧としていたみたいだから覚えてないんだろうけど…黒羽くん、だっけ。彼から聞いたよ。ずっと小さな声で「頑張らなきゃ」って呟いてたってね」

過去の夢を、見ていた。皆が笑顔で私に仕事を頼んでくる夢。私もそれに笑顔で応えて、早出や残業をして仕事を片付ける夢。夢、だったけど…あれは実際にあったことだった。私が経験した、過去の出来事。
体調を崩しても点滴で誤魔化しながら出勤したりしていたっけ。あの頃私は、ずっと自分に言い聞かせていた気がする。
頑張らなきゃ。頑張らないと。そう、ずっと。

「呪いだな」

零さんがぽそりと言った。
それから、零さんは手を伸ばして私の頭をそっと撫でる。心地良さに目を細めたら、彼がようやくほんの少しだけ笑ってくれた。

「なぁ、どうしたらその呪いを解くことが出来る?」
「…のろ、い」
「そう。…頑張らなきゃ、ってすぐに自分を追い込む呪い」

…確かに。
前の世界にいた時は、これは呪いだったのかもしれない。そして夢に見てしまった以上、呪いは今も続いているのかもしれない。でも私は、頑張らなきゃって思う理由が、今は別にちゃんとあるから。だからこの気持ちを…呪いだなんて、思わない。

「…零さんが、」
「うん?」
「…零さんが…がんばってる、のに……私が、頑張らないのは、おかしいもん…」

知ってるのだ。零さんは、夜中だろうと呼び出しがかかれば出ていかないといけないこと。忙しくしていて、それでも日々懸命に走り回っていること。そんな忙しい中、私のことまで気にかけてくれていること。…毎日、頑張っていること。

「…わたしも、…がんばりたい、零さんと、一緒に…」

零さんと一緒だから、頑張ることが出来る。頑張りたいって思えるんだから。

「…ほんと、君のそういう真っ直ぐなところが俺はとても好きだけど。…でも、頼むから無茶だけはしないでくれ。迎えに行って、思ってた以上の高熱に驚いた。四十度近くあったんだぞ」
「…自分の体調を考えないで…周りに心配や迷惑をかけてしまったのは、ごめんなさい…。…お仕事、抜けてきてくれたんですか…?」
「迷惑じゃないよ、心配したけど。仕事は、そろそろ休めと周りにも勧められてたから丁度良かったんだ。君は気にしなくていい」

零さんは、もう怒っていないようだった。繰り返し私の頭を撫でながら、優しい目で私を見つめてくれている。
こんな時に、と思うけど…でも、少し久しぶりに零さんにちゃんと会えたのが嬉しくて幸せだ。夜帰ってきてくれているのは知ってたけど、ちゃんと言葉を交わすのも久しぶりだし。

「…さみしかった、」

思わず小さな弱音が漏れた。けれど零さんはその私の言葉にうん、 と頷く。

「寂しい思いさせてごめん。…俺も、ミナさんに会いたかった」
「…うん…」

頭を撫でてくれる零さんの手にほんの少し擦り寄ると、彼はくすりと笑った。それから、そのまま私の体を抱き込むようにしてベッドに潜り込んでくる。
急な接近に微睡みかけていた意識が引き戻され、私は慌てて身を捩った。

「れ、零さん…うつっちゃうから、」
「大丈夫、この程度じゃうつらないさ」

さっき、口移しで水も飲ませたしね。なんて、しれっと言うんだから。
恥ずかしさに熱が上がるような気がするけど、それと同時に勿体ないと言う気持ちにもなる。私の背中を撫でる零さんの手に甘えて、彼の胸に頬を寄せる。
せっかくのキスなのに、記憶に残らないなんて嫌だ。

「…次は…起きてる時に、してください…」
「ふふ、了解」

零さんは笑って頷いた。

もう少し寝て、起きたら夕飯にしよう。零さんのその声を聞いて小さく頷く。
彼に抱かれながら世界一安心する場所で、私はゆるりと目を閉じた。