「知ってる?私、この夏に、夏らしいことしてないのよ」

ずずー、と音を立てながら無くなりかけのアップルティーソーダを飲みながら言ったのは園子ちゃんだった。彼女の目は半ば座っていて、園子ちゃんの目の前に座る私と目が合っているようで合っていない。彼女の視線は私を通り越し、更にその先…遠くまで向けられているようだった。心ここに在らずとまではいかないけど、彼女の意識がふわふわと漂っているのは見て取れた。

「園子さん、先日までインフルエンザで寝込んでいたと聞きましたけど…もう大丈夫なんですか?」

園子ちゃんと、その隣に座る蘭ちゃん、それから私と、その隣に座る世良ちゃんの前に新しいおしぼりを置きながら透さんがそう尋ねれば、園子ちゃんは急にテーブルをばんと叩いては声を上げた。

「そう!そうなのよ!しかも普通の風邪とのダブルパンチで二週間も寝込む羽目になったの。大事で貴重な女子高生としての夏休み中に、よ!」
「園子、お見舞い行った時も大分辛そうだったもんね」
「顔真っ赤にしてぜぇぜぇ言ってたもんなぁ」

園子ちゃんの言う通り、彼女はここしばらく風邪とインフルエンザで寝込んでいたのである。こんな夏の時期にインフルエンザなんて不運としか言いようがない。夏にインフルエンザになることもあるっていうのは知識として知っていたけど、インフルエンザウィルスは低温と定湿度を好むとかなんとか…だから、夏にかかることはほとんどないと思っていたし。半ば都市伝説くらいの感覚でいたんだけど、こんな身近で夏場のインフルエンザに苦しめられる人が出るだなんて思わなかった。
そんなわけで、園子ちゃん蘭ちゃん世良ちゃん、揃って会うのは今日が久しぶりだ。ポアロで夏限定のパフェをやっていると聞いたので、今日は園子ちゃんの快復祝いも兼ねてそれを食べに来たのである。パフェは文句なしですごく美味しかったけど、園子ちゃんはそれだけではどうやら不満の様子。まぁ、それはそうだろう。楽しい夏休みを半分近くベッドの上で過ごしたのだから無理もない。
今は回復してすっかり元気みたいだけど、寝込んでいた二週間で体力も落ちてしまっていたみたいだしそれを取り戻すのにも少し時間がかかったようだ。

「さぁここで問題、ミナさん!」
「はっ、はいっ」
「今は何月でしょうか!!」
「は、八月です」
「正解!八月と言えば!?」
「えっ、八月と言えば!?えっ、な、なんだろう、夏」
「ブブーッ!残念不正解!ミナさんには罰を受けてもらいます」
「え、えぇ…?」
「連帯責任でその罰は安室さんにも課せられます」
「なんで!?」

慌てる私と違って、透さんは園子ちゃんを見つめたままきょとんとしている。というか、話の流れで飛び出したクイズに答えられなかったから罰って…一体どんなことをさせられるのだろう。園子ちゃんだから無茶なことは言わないだろうと思いつつ、逆に園子ちゃんだからこそ無茶なことを言ってくるのではないかとドキドキしている。
園子ちゃんはこれみよがしに腕組みをすると、ふふんと鼻を鳴らした。

「この園子様に、付き合ってもらうわよ!!」


***


この世は、本当に化学の進歩というか技術の発展というか、とにかく一昔前に比べて随分といろんな願いが叶えられるようになったと思う。例えば、わざわざ飛行機に乗って海外旅行に行かなくたって海外の空気を味わえるような観光施設が出来たり。しかもそれが完全屋内施設で、外が寒かろうと大雨だろうと強風だろうと施設内は程よい常夏の場所だったりしちゃって。室温も丁度良ければ水温だって丁度良い。そして紫外線の心配もない。あぁなんて。

「なんて、贅沢なんだろう…」
「さすが鈴木財閥ですね。非の打ち所がない」

はぁ、と溜息を吐きながら、私はハイビスカスの花が飾られたグラスのジュースをストローで吸い上げた。爽やかな甘みとほのかな酸味が口内にじゅわりと広がって目を細める。飲み物の味まで完璧だ。
ビーチベッドに横になりながら、目の前の波のプールで遊ぶ子供達を見つめる。波打ち際でビーチバレーをしているのは、元太くんと光彦くん、それから歩美ちゃんである。コナンくんと哀ちゃん、それから阿笠博士はどこか別のところに行ってしまっているらしい。少し離れたところにあるウォータースライダーでは、園子ちゃんと蘭ちゃん、世良ちゃんが遊んでいるのが見えた。かなり大きいスライダーだから楽しいだろうな。
本当は毛利さんにも声をかけていたみたいだけど、彼は警察からの依頼でどうにも都合を合わせることが出来ずに今回は不参加とのことだった。
ちらりと横を見れば、私と同じようにビーチベッドに横になって子供達の方に視線を向けた透さんがいる。その横顔はリラックスしていて、寛いでいるのがわかる。
外は生憎の大雨だったが、完全屋内プールであるここならば何の心配もない。平和な常夏の空間である。

園子ちゃんが私と透さんに課した罰とは、「鈴木財閥のリゾート地に私と一緒に旅行すること!」であった。この夏休み、夏らしいことが全然出来なかった園子ちゃんの為に、鈴木財閥のプールリゾートを丸一日貸切にしたらしい。オープン前という訳ではなく既に予約客もいたそうだが、そのお客様達には鈴木財閥側で交通費を負担して別のリゾート地へ移動してもらったそうな。金持ちの考えることは桁が違うので私には理解の及ばない領域だ。クレームなんかが出ないように、他にも手厚いサービスをしたのだろうし…ついでに言えば私達の旅費だって鈴木財閥の全負担だ。本当に良いのだろうかと心配になる。

「…本当に良かったんでしょうか」
「何がです?」
「園子ちゃんのお言葉に甘えてこんな贅沢な旅行に来ちゃいましたけど…本当に良かったのかなって」

基本的に、私は鈴木財閥の恩恵に与りすぎだと思う。飛行船のこともそうだし、向日葵展のことだってそうだ。鈴木財閥に足を向けて寝られない。足を向けて寝るつもりも予定もないけれど。

「いいと思いますよ。園子さんはそういうことを気にしたりする女性ではありませんし…それに」
「え、」

透さんの手が伸びて、ジュースのグラスを持つ私の手首をそっと掴んだ。そのまま自分の方に引き寄せると、先程私が吸っていたストローを口に含む。こく、と透さんの喉仏が動いて、その色気にどきりと胸が弾んだ。
一口ジュースを飲んだ透さんは唇を離して、ほんの少し私の方に顔を寄せて小さく笑う。

「きっと、僕達がこうしていれば園子さんも文句は言わないでしょう」
「…え、と…それってどういう、」

ひそひそと囁かれる言葉にどきどきとしながら問い返そうとしたが、ふと視線を感じて顔を上げる。
いつからそこにいたのか、ウォータースライダーから戻ってきたらしい園子ちゃんと蘭ちゃん、世良ちゃんと目が合った。彼女達はレプリカの岩の陰に体を半分隠しながらこちらを凝視していて、私と視線が合った途端に何やら腕を大きく動かして口を動かしている。…え、な、何…?何か言おうとしてる?というかなんでこっちをじっと見ているのか。今の、もしかして見られていたのか。理解すると同時にかっと顔が熱くなる。

「続けろ。…そう言っているようですね」

ちらりと園子ちゃん達の方を見た透さんが、くすりと笑いながら囁いた。

「つ、続けろって…」
「どうします?彼女達の期待に応えて、ここでキスでもしてみましょうか」
「な、っ何を…!!」

慌てる私の項に手を添えた透さんが身を乗り出してくる。あ、と思う間もなく彼の顔が近付いてきて、そのまましっとりと濡れた唇が私のそれに触れた。プールの水音の合間に、園子ちゃんと蘭ちゃんの黄色い悲鳴が上がる。瞬間、透さんの顔はぱっと離れた。
頬が熱い。耳までじんじんと痺れるような熱を感じて、私は思わず持ったままだったジュースのグラスをテーブルに置くとそのまま自分の口元を両手で覆った。

「み、見た!?蘭、世良ちゃん、今の見た!?」
「み、見た…!」
「安室さん、やるなぁ…!」
「なぁなぁ、何してんだ?」
「園子お姉さんも蘭お姉さんも顔が赤いですねぇ」
「ねぇ、何を見たのー?」
「子供は気にしなくていいのよ!」

園子ちゃん、蘭ちゃん、世良ちゃん。全部、聞こえてる。とても子供達や蘭ちゃん達の方を見ることなんて出来なくて、私は顔を覆ったまま俯いた。どうやら今のを見ていたのは蘭ちゃん達だけで、子供達は見てなかったようだ。それは安心できるけど、かといって恥ずかしくないわけじゃない。

「ミナさーん!安室さーん!二人ともそんなとこにいないで、泳いできなさいよー!」

私が俯いたまま呻いていたら園子ちゃんの声が響いて、透さんはくすくすと笑ってビーチベッドから立ち上がった。

「僕達も少し泳ぎに行きましょうか。せっかくのプールです。泳がないと損ですよ」

差し出された彼の手をそっと見つめて手を伸ばす。彼の手に自分の手を重ねれば、優しく握り返された。

「…透さん、浮かれてます?」
「ええ、実はかなり」

私は今、白いワンピースの水着を着ている。これは透さんが選んでくれたものだ。アメリカンスリーブとふわりと広がるフレアスカートの水着は、私の腹部や背中の傷をしっかり隠してくれる。彼の気遣いに胸が温かくなった。
私自身、傷痕をあまり気にしているわけじゃない。でも多分見ていて気持ちの良いものではないし、子供達は優しいから気にしてしまうかもしれない。彼らに気を遣わせてしまうのは私の本意ではないのだ。

「あ、」
「あれ、博士とコナンくんに、哀ちゃん」

流れるプールの方に行こうと歩いていたら、曲がった先の岩陰から現れたのは阿笠博士とコナンくん、哀ちゃんの三人だった。哀ちゃんは透さんを見ると、ぱっと博士の陰に隠れてしまう。理由は分からないけど、あんまり会いたくないんだろうな。

「ミナさんと安室さん、これから泳ぎに行くの?」
「うん、そのつもりだよ」
「じゃあこれ、貸してあげる」

コナンくんが私に手渡したのは大きな浮き輪だった。子供達が流れるプールで遊びたいというから買いに行ったらしいのだが、何やら皆スライダーの方に興味津々らしい。さっき蘭ちゃん達も戻ってきてたから、彼女達からスライダーの感想を聞いてそっちにシフトチェンジしちゃったんだろうな。結局流れるプールはお預けで、これから皆でスライダーの方に行くそうだ。
有難くコナンくんから浮き輪を借りることにする。

「ありがとう、コナンくん」
「うん、二人とも楽しんでね!」

手を振る三人に私と透さんも軽く手を振り返し、私と透さんは借りた浮き輪を流れるプールへと浮かべてそのままドボンとプールに飛び込んだ。思っていたよりも水深が深い。
潜って下から浮き輪の中心に入れば、透さんも同じようにして浮き輪の中心へと体を入れてくる。一人で入るには余裕があっても、二人だとぴったり密着して狭いくらいだ。程よく冷たい水温と、触れ合う肌の温もりにくすぐったくなる。

「ふふ、狭い」
「でも、好きでしょう?」

透さんと向き合いながら顔を見合わせてくすくすと笑う。流れるプールは緩やかにコースを進み、ウォータースライダーの岩山の傍を流れていく。スライダーからは子供達のはしゃぐ声が響いていて、時折阿笠博士の悲鳴のようなものも聞こえるけど…大丈夫だろうか。

「楽しそうですね」
「あの子供達はいつでも元気いっぱいでいつでも楽しそうですよね。見ていてとても微笑ましい」

浮き輪に腕と顎を乗せながら緩く足を動かせば、私の後ろにいる透さんの足に軽く触れた。あ、と思うと同時に、後ろから透さんが背中をぴったりとくっつけてくる。

「…あ、の」
「言ったでしょう?浮かれてるんです」

ずし、とのしかかられるけど全然重いという感じはない。背中いっぱいに広がる透さんの体温にとくりと胸が高鳴って、肩越しに軽く振り返ればじっとこちらを見つめる瞳とかち合った。

「また、見られるかも」
「ウォータースライダーを過ぎれば、しばらくは皆のいた場所には戻りませんよ」

流れるプールは当然ながら止まらない。ゆらゆらと流されながら、気付けば子供達のはしゃぐ声も遠くになっていた。岩陰が大きくなり、少し薄暗いと感じるほどに造花の草木が生い茂るエリアへと入っていく。造花の根元に隠されているであろうスピーカーからは、鳥の鳴き声が響いている。なんだかまるで、本当に遠くに来てしまったようで。
じっと彼の瞳を見つめていたら、無意識に唇が震えるのがわかった。ブルーグレーの輝きに吸い寄せられる。

「ん、」

触れた唇は、冷たい水温とは逆で熱を持っていた。しっとりと啄まれて多幸感に目を閉じる。あぁ、心地いいな。気持ちいいな。胸に満ちる愛おしさに唇を開けば、彼の舌が私の口内へと押し込まれる。柔らかく下唇を食まれ、優しく絡む舌にどうしても夜の情事を想像してしまって体に熱が灯った。

「ん…ぁ…」
「は、」

惜しむようにゆっくりと唇が離れ、すぐに彼が私の項に唇を寄せた。ちゅう、とキスを落とす音がして背中が甘く痺れる。

「…いい夏の思い出が出来ましたね」

流れるプールは進み続ける。気付けば薄暗いジャングルのようなエリアを抜け、先程私と透さんがいたビーチベッドが遠目に見える位置まで戻ってきていた。皆の声も少しずつ明瞭に聞こえるようになってくる。

「…園子ちゃんは罰ゲームだ、なんて言ってましたけど…」

きっとこの旅行は、彼女自身の為だけじゃない。彼女の身近な人達皆が、ひと夏の優しい思い出を作れるようにという意図があったんじゃないかな。
罰ゲームなんてとんでもない。私にとってはご褒美のようなものだ。そう言って透さんの方に向き直り、そっと彼の首に腕を回して今度は私から口付けた。


***


流れるプールを一周して戻ってきたら、哀ちゃんに水着のスカートの裾をちょいと引っ張られた。振り返ると、何やら少し難しい顔をしている。
どうしたのかな、なんて思いながらそっと彼女の方に寄ってしゃがみ込むと、哀ちゃんは私の顔をじっと見て眉を寄せる。

「随分と大きな虫に噛まれたものね」
「へっ?」

首を傾げる私に、哀ちゃんは今度こそ深い溜息を吐いた。それから、彼女は自分の項の辺りをちょんと指差す。
一瞬何だかわからなかったけど、すぐに理解した私は頬がかぁっと熱くなるのを押さえられなかった。慌てて項の辺りを手で覆ったけど、恥ずかしさのあまり俯くしか出来ない。
哀ちゃんが指差したのは、先程透さんに口付けられた辺りだ。ちゅう、と吸われたなと思ったけど、まさか痕が…き、キスマークが残ってるなんて思いもしなかった。

「パーカーでも着て隠しておきなさい。蘭さんや世良さんはともかく、園子さんに見られたら根掘り葉掘り聞かれちゃうわよ」
「そうします……」

哀ちゃんの忠告を聴きながら、慌てて持ってきていた白いパーカーを羽織る。小学生の女の子にキスマークの指摘をされて忠告されるなんて、なんて情けないんだろうと肩を落とす。
けどそんな私を見て、哀ちゃんは少し意地悪そうに笑って言った。

「ご馳走様」