その不思議な夢は、ある時から見るようになった。
夢だとはっきりわかる世界。それでも、やたらとリアルな音や感触は目を覚ましてからも私の耳や肌に残っていた。
暗い水底に沈んでいく夢。最初は、ただそれだけだった。


***


「最近変な夢を見る?」

コナンくんは私の言葉にほんの少し眉を寄せると、ふむ、と考え込んだ。
駅前の本屋で偶然会ったコナンくんは、挨拶もそこそこに私の顔を見て難しい顔をしながら「寝不足?」と尋ねてきた。そんな顔に出しているつもりはなかったのだけど、と告げると、彼は難しい顔を更に難しくして少し話をしようと持ちかけてきたのである。
近くのファミリーレストランに移動して、寝不足の理由を話して冒頭に戻る。

「夢の内容は?」
「水の中にいる夢、かな。音とか感触がやたらとリアルでね、あんまり寝た気にならなくて」
「溺れてる夢?」
「ううん、苦しさはないの。ただ、水の中を漂っているって感じ」

感覚としては、鈴木財閥の企画した向日葵展の事件の時に似ているかもしれない。崩壊する建物から脱出する際に、湖に放り出されたあの時の感覚。もちろん夢は夢であって現実じゃないから、息が出来ないとか死を感じるなんてことはないのだけど…ただ、酷く寂しく、悲しく感じる夢だなと思っていた。どうしてそう感じるのかはわからないけど、胸の奥の柔らかい部分がしくしくと痛む。

「…最近疲れてたり、とか?」
「仕事もいつも通りだよ。肉体的な疲れを感じてはいないと思うけど」

特別、何か変わったことは無い。自分が無気力で情緒不安定になっているのはなんとなく自覚しているけど、それだけだ。人間なんだから、そういうことだってあるだろう。いつだって万全で元気でいられるわけじゃない。私はそう思っているけど、目の前のいる小さな探偵さんはどうやらそうは思わないらしい。

「…ミナさん、顔色あんまり良くないよ」
「そう、かなぁ」
「 ボクが寝不足じゃないかって気付くくらいにはね」

その言葉に苦笑した。寝付きは良くない。寝不足、なわけじゃないとは思うけど、眠りが浅いのかもしれないというのは否定できない。なかなか眠れず、ようやく眠れたと思えば繰り返す水底の夢。

「安室さんは?」

まぁ、この話の流れなら彼のことも当然聞かれるだろうなとは思っていた。この子は私と透さんが一緒に住んでいることを知っている。

「今、仕事が忙しいみたいでしばらく帰ってきてないんだ」

体を壊していないか心配だなぁ、とぽつりと漏らせば、コナンくんはわかりやすく顔をしかめた。

「安室さんの心配より、今はミナさん自身の心配をした方がいいよ」
「心配してくれてるんだね。ありがとう」

今までだって、透さんがお仕事が忙しくてなかなか帰って来れないことは何度もあった。でもこんな情緒不安定になるのは初めてのことだ。毎夜、毎夜、同じ夢を見るなんて今までになかった。私どうしちゃったのかな、と思わない訳でもない。

「…でも、多分きっと、大丈夫」
「その根拠は?」
「誰だって不安定になることはあるでしょう?」

大丈夫、本当に少し、調子が悪いだけなの。そう告げて、席を立つ。伝票を手に小さく微笑めば、コナンくんはもうそれ以上何も言わなかった。


***


夢は緩やかに進行する。
ゆらゆら揺れる視界に広がるのは、深淵のブルー。昼も夜もない暗く冷たい海の底へ、ゆるゆると私の体は沈んでいく。こぽこぽ、と水の泡が弾ける音が耳の傍を流れていく。
苦しさはない。けれど、自分が息をしているのかしていないのかはわからなかった。

――ほんと、都合のいい存在だよな

――いつもへらへら笑ってっからさ

――あの子怒ったとこ見た事ないし

――全部押し付けちまおうぜ

そんな言葉が波間から響いた。
忘れかけていた傷の欠片。そんな欠片を思い出してしまったのは、多分本当に偶然だったんだと思う。
透さんもいない休日で、美味しいカフェを探しに散策に出た日のことだ。隣の席に座っていたのはどこにでもいるような高校生達。一人の女の子がトイレに行くために席に立って姿が見えなくなった途端、残っていた子達がそんな会話をしていたのを、聞いてしまった。

――こないだ先生に雑用頼まれたのもあの子がやってくれたよ

――まじ?今度俺も頼んじゃおっと

――用事あるから掃除も頼んだら一人でやってくれるし

――すっげぇな、自分が都合よく使われてんの気付かねぇのかな?

頼りにしてるよ、君しかいないんだよ。そんな期待の皮を被った鋭く冷たい言葉の刃。私はそれを、よく知っている。前の世界のことを思い出しながら、胸の奥の柔らかい部分がずぶりと痛むのを感じてひくりと喉を震わせる。
トイレから戻ってきた女の子は、そんな冷たい会話が成されていたことも知らずににこにこと笑っていた。ただ、笑っていた。

…あぁ、それはまるで

抗えない。手を伸ばすことも諦めて、酷く悲しくなって、辛くなって私はただ静かに目を閉じる。目を開けているのも億劫だった。
誰にも見つからないような、深海へ。海の底へ。深淵へ、ただ沈んでいく。


***


「いい加減にしなさい」

そう言って私の前に小さなトートバッグを突き出したのは哀ちゃんだ。嶺書房での仕事が終わって戸締りを終え、帰るところだった。
哀ちゃんはいつからここにいたのだろう。私の仕事が終わるのを待っていたみたいだけど、背中にランドセルはない。一度家に帰ったのかな。
哀ちゃんに視線を合わせるようにしゃがみこんで目の前のトートバッグを見つめた。目を瞬かせていたら、ん、と更に押し付けられる。

「酷い顔よ。まともに食べてないんでしょ」
「…えっと、」
「いいから、受け取りなさい」

押し付けられるままトートバッグを受け取り中を覗いてみると、サランラップに包まれたおにぎりが三つ入っている。哀ちゃんが握ってくれたのだろう、おにぎりの大きさは小さめだ。おにぎりとは別に、小さな魔法瓶も入ってる。

「べ、…別に心配したとかじゃないわよ。江戸川くんが、あなたの具合が悪そうだって言うから…料理苦手なあなたが、そんな時に、ちゃんと食べてるとは思えなかったから、気まぐれよ」

ぷい、と顔を背ける哀ちゃんの言葉はつんとしていたけど、それでもその声から私に対する心配が感じられて目を細めた。
私の為に、哀ちゃんが握ってくれたんだ。大切に食べないと罰が当たってしまう。素直に嬉しいと感じながら、トートバッグを胸に抱きしめる。

「…ありがとう、哀ちゃん」

そう告げると、顔を背けていた哀ちゃんは私の方を向いてくれた。けれど私の顔を見た途端、きゅっと眉を寄せて小さく唇を噛む。

「……本当に、どうしちゃったのよ」

哀ちゃんの手が伸びて、小さな手のひらが私の頬に触れた。優しく、労わるように私の頬を撫でる手のひらに何故だか泣きたくなる。
温かいなぁ。柔らかくて、温かくて、なんだか泣いてしまいそうだ。

「あなた、今の自分の顔鏡で見た方がいいわよ」
「…そんなに、酷い顔してる?」
「バカ。…早く、元気になりなさい。そんな顔、あの子達の前に晒したら…承知しないんだから」

哀ちゃんの声は少しだけ震えていた。厳しいことを言って私を叱りながら、その実私のことを心から思ってくれている。
なんて優しいんだろう。そうだね。こんな状態で少年探偵団の子供達に会ったら、皆にたくさんの心配をかけてしまうかもしれない。
泣いてしまいそうなのに、涙はどうしたって出てこなくて。それなのに、哀ちゃんは私の目元をそっと指先でなぞった。
まるで涙を拭うように。

持ち帰ったおにぎりは、大切に食べた。一緒に入っていた魔法瓶の中身は、優しい味のする豚汁だった。どちらも、とても美味しかった。


***


海の底へと沈みながら、時折波間からきらきらと輝く光が届くことがあった。あぁ、綺麗だなと思って腕を伸ばすけど、すぐに波に溶かされ消えていく。
あたたかくて眩しくて優しい光。私はその光を知っているはずだけど…けれど、手を伸ばしてはいけないということも、よく知っている。

――静粛に!静粛に!

――判決を言い渡します!判決を言い渡します!!

水の音しかしない静寂の中に、鋭い声が響いた。こんな静かなのに静粛に、なんておかしな話だなんて思って小さな笑みが浮かぶ。
叫んでいるのは、私の声だ。水底の闇が揺らめいて、人の形になって私の前へと現れる。ゆらゆらと揺れるその影は、私を指差しながら尚叫んでいた。

――有罪です!有罪です!

――罪名は、嘘つき!

――嘘つき!嘘つき!!

そう。私の判決は、有罪。嘘つき。私は嘘つきだ。
どんな嘘をついていたかって?私は、私にずっと嘘をつき続けていた。

――嘘つき!嘘つき!!

――本当は傷ついていたくせに!!

きっと私はずっと、悲しかったんだなぁ。寂しかったんだなぁ。
自分の心に蓋をするのは、さほど難しい事じゃなかったんだ。閉じこもってしまえばいいだけだったから。心を深く押し込めて、鍵をかけて、そことは違うところで笑っていればいいだけだったから。
だって私よりもっともっと辛い思いをしてる人なんてたくさんいる。このくらいで傷ついて苦しいなんて、そんな馬鹿な話ないと思った。苦しいのも疲れているのも、私が頑張っている証拠。頑張っていれば、皆私のことを見てくれるから。

――嘘つき!嘘つき!!

――本当は笑いたくなんてなかったくせに!!

――本当はいつだって泣きたかったくせに!!

怒ることも嘆くことも悲しむことさえ諦めて、笑っている方が楽だった。でもその笑顔は、本当に笑顔だったんだろうか。
歪んで、壊れかけていたんじゃないのか。だって私は多分、笑うことがどういうことなのかを、忘れかけていたんだ。

――本当は、誰かに、助けて欲しかったくせに!!

そうだよ。私は、ずっと誰かに助けて欲しかった。
滑稽だね。助けを求めることもせず、何も言わないのに助けて欲しかったなんて。とんだ悲劇のヒロインだ。こんな私に、誰も構わないで欲しい。ほら、また。そんなふうに思いながら、構って欲しいと心が叫ぶ。助けて欲しいと心が軋む。
光に手を伸ばすことを諦めていたのに、光が欲しかったなんて。光に焦がれて、太陽に焦がれていたんだ。
波間が揺らいで、眩い光が差し込んでくる。あたたかくて柔らかい、私の大好きな光。

――大丈夫ですよ

大好きな声がした。目を開けて顔を上げる。沈むばかりだった体を動かして、私の腕を掴んでいた闇を振りほどいて光に向かって手を伸ばす。
助けて。助けて。私はここにいるの。腕を引かれて降り注ぐ光が強くなる。
きらきら、光が反射する。海の中で美しい雪が降っていた。


***


意識が浮上して、ゆっくりと目を開ける。部屋は明るく、朝になっていた。
私の体を抱きしめるしっかりとした腕に気付いて顔を上げる。静かに寝息を立てる透さんの顔が目に入って、無意識のうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
…帰ってきたんだ。その顔には疲れが滲んでいたけど、顔色は悪くない。
そっと透さんの頬に手を伸ばすと、閉じられていた彼の瞳がゆっくりと開く。ほんの少し揺れた視線はすぐに私の方に向けられて、目が合うと彼は優しく微笑んだ。

「…おはようございます、ミナさん」
「…おはようございます、…おかえりなさい、透さん」

ぎゅうと彼に抱きつくと、彼も私を抱き返してくれた。それがたまらなく安心して、胸がきゅうと苦しくなる。あぁ、透さんだ。透さんの匂いに満たされて泣きたくなった。


久々の休みだと言うので、その日は透さんと一緒に少しお出かけをすることになった。映画を見て、買い物をして、休憩がてらカフェへと入る。そのカフェは、以前にも来たことのあるカフェだった。透さんと一緒に席について、なんとなく隣を見つめて目を瞬かせる。
あの女の子だ。以前来た時も隣の席だった、高校生グループの中にいた女の子。都合のいい存在だと笑われていた、昔の私のようなあの子。

「なぁ、無理に笑わなくたっていいよ。嫌なことは嫌って言っていいんだ。お前が良くても、俺は嫌だよ」

女の子の前に座っている男の子は、こないだ見た時にはいなかったと思う。彼は真剣に、俯く女の子に語りかけていた。都合のいいだけの存在でいるなんておかしいと。

「自分に、嘘をつくのはもうやめようよ」

男の子のその言葉に、女の子はゆっくりと顔を上げた。まだどこか不安そうな覚束無い顔をしていたけど…でも、目にはしっかりとした光が宿っていた。
あぁ、この子も光を見つけたんだ。もう大丈夫、手を伸ばせば届く光があることに気付いたんだ。
男の子と女の子が二人で揃ってカフェを出ていく背中を見つめながら、私は小さな笑みを浮かべていた。

「ねぇ、透さん。私ね、ここ最近ずっと、悲しい夢を見ていたんです」
「悲しい夢?」

沈んでいく夢。全てを諦めている、悲しい夢。
でも、暗く冷たい海の底にも光があった。

「でも、夢の中でも透さんが助けてくれた気がします」
「…、…そうですか。僕は、あなたを助けるのに間に合いましたか?」
「はい、もちろん。だって今朝目を開けたら、目の前に透さんがいたんですもの」

言えば、彼は少しだけ目を瞬かせてから笑ってくれた。そっと手を取られて、優しく握りこまれる。絡む指先が、触れる温もりが、私を見つめる瞳が愛おしくてたまらない。
会えない間も、傍にいない時間も、私は彼に守られている。今の私はそれを信じることが出来る。
私を助けてくれた太陽の輝き。それはきっと、透さんの形をしていた。



BGM:『深海少女』