「ドライブに行こうか」
「はい?」

突然のお誘いに、私は目を点にしてぽかんとするしかなかった。


***


東都水族館の改修工事が終わった。そんな情報をネットニュースで見たのは、夏も終わり秋に差し掛かる時期のことだった。
東都水族館と言えば、まぁ、いろんなことがあった場所である。少年探偵団の子供達と一緒に遊びに行った場所。キュラソーさんと初めて会った場所。爆弾騒ぎや巨大な犯罪組織も絡んだ大事件があった場所。苦い思い出も多いが、どうしても忘れられないし嫌いになれない場所のひとつだった。
施設の目玉だった二輪式巨大観覧車も無事に再建され、事件前の姿を取り戻しているという。あんな事件のあった後だし客足も遠のいているのでは、と思っていたけど、集客率は上々の様子。確かにこの世界は犯罪や事件が多いが、それに比例して人々も逞しいんだなと感じている。

「ほんと、人って思うよりも強いんだなぁって思います」
「ホォー。それは何故かな」
「あんな大事件があって、施設自体めちゃめちゃに壊れたのに…もう一度同じものを再建して、そうして皆あの場所に遊びに行く。当然あの事件を覚えている人達ばかりのはずなのに」

きっと皆が気持ちを切り替えて遊びに行けるのは、あれだけの大惨事だったにも関わらずあの事件で死傷者が出なかったからなのかもしれない。コナンくんや安室さんや…今私の目の前にいる、赤井さんによって守られた命である。
私がカフェラテを口に運びながら顔を上げれば、赤井さんはテーブルに頬杖をつきながらじっとこちらを見つめていた。鋭い目付きではあるが、その緑色の瞳は柔らかい光を湛えている。
赤井さんとは、たまたま入ったカフェで会った。私は図書館からの帰り。赤井さんはこれからある用事までの時間潰しらしい。お互いに一人だったし、せっかくだからと相席させてもらったのである。

「癒えない傷も当然あるだろうが…大体のことは時間が解決してくれる。この街に生きる人達は、きっとそれを知っているんだろうな」
「私もそう思います」
「以前から思っていたが、君は非常に興味深い女性だな」

悲しい出来事も、辛い出来事も、時と共に少なからず風化する。強い思いを抱え続けるというのは存外難しいことで、とても疲れることなんだと私は思う。人は日々学んで成長する生き物だ。どんなに深い傷でも、覆い隠す手段を人は見つけ、そうして自分を守る。
時は待ってくれないのだ。いつまでも下を向いてはいられない。生き続けている限り、続いていくことだから。

「ドライブに行こうか」
「はい?」

赤井さんのその言葉は突然だった。脈絡もなかった。突拍子もなく向けられたお誘いの言葉に、私はぽかんと口を開けて赤井さんを見つめる。彼は変わらず頬杖をついたまま私を見つめていて、何をしていても様になるかっこいい人だなと改めて思った。

「ドライブ、ですか。え、これからですか?」
「いや?俺はこの後用事があるからな」
「そ、そうですよね。そう仰ってましたもんね」
「ただ、君という女性をもう少し深く知りたくなった。その機会をくれないか」

知りたくなった、って。
目を瞬かせていれば、赤井さんはくすりと笑いながら伝票を手にして立ち上がる。私のカフェラテも赤井さんのコーヒーも気付けば空になっていた。慌てて私も立ち上がって広くて黒い背中を追いかける。

「あ、あの、赤井さん?」
「今度の日曜日、午前十時に米花駅前で。仕事は休みだろう?」

慌てる私をよそに、赤井さんはさらりと会計を済ませてしまった。財布を出そうとした手を制され、顔を上げればじっとこちらを見つめるグリーンアイズとかち合う。
…なんというか、赤井さんってどっしりした大型犬みたいだなぁ、なんて思ったりする。思っていたよりも饒舌な人だと知りはしたけど、それでもどちらかと言えば赤井さんは寡黙な人だ。けれど、目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、じっと彼の瞳を見ているとなんとなく感情が見えてくるような気がする。
今は、とても優しい瞳をしている。

「仕事は、休みですけど…」
「行先は東都水族館。米花駅に車で迎えに行く」

確かに仕事は休みだし特に用事もない。突然のことに上手く答えられないだけで、赤井さんのお誘いを断る理由もない。
私が眉尻を下げると、赤井さんはくすりと笑ってその大きな手で私の頭をくしゃりと撫でた。

「楽しみにしているよ」

言いながら、赤井さんは私を置いてカフェを出ていった。
店員さんの「ありがとうございました」という声ではっと我に返り、私も慌ててご馳走様でしたと告げながらカフェから出る。通りに出た時には赤井さんの姿はもう見えなくなっていて、私は溜息を吐いた。
今度の日曜日、午前十時に米花駅前で。行先は東都水族館、赤井さんが車で迎えに来てくれる。
楽しみにしている、なんて。あんなハリウッドスターも顔負けのハンサムさんに言われて、ときめかない女性なんていないと思う。


***


ドライブというか、これはある意味デートなのでは。なんてことに気づいたのは、赤井さんの車の助手席に乗り込んだ後だった。何故乗り込むまで気付かなかったのかと言われれば、真っ赤な車に気を取られていたからと答えるしかない。
真っ赤な車体に目が覚めるような真っ白な二本のライン。見た目ももちろんかっこいいが、左ハンドルであることに目を剥いた。安室さんにも言えることだけど、かっこいい人は乗っている車までかっこいいのだろうか。

「…かっこいい人は乗ってる車もかっこいいんですね…」
「?」

思わず心の声をそのまま口に出してしまったが、赤井さんは少し不思議そうにこちらを一瞥するだけだった。
かっこいいなんて言われ慣れてるか。そりゃそうだ。赤井さんを形容するのに「かっこいい」という言葉はまず必要だろう。
真っ赤な車は安全運転で走り出し、しばらく米花の街を走った後高速へと入った。休みの日だし混雑もあるかなと思っていたけど、予想よりは道路も空いていてこの調子なら予定通りに東都水族館に着きそうだと赤井さんが言った。

「日本の道路は狭いから運転するには少々怖いな」
「絶対嘘」
「嘘じゃないさ」

そう言う赤井さんの横顔はちっとも怖そうには見えない。煙草を吸いながらのハンドル捌きも安定しているし、赤井さんが怖がるなんていうのがそもそも信じられない。赤井さんに怖いものなんてあるのだろうか。なんて言ったってFBIだ。
ちら、と横目に見る赤井さんはほんの少し口角を上げているようだった。トレードマークとも言えるニット帽はいつも通りだったけど、今日の赤井さんはいつもに比べて少しラフな格好をしている。少し薄手のVネックのグレーのシャツにデニムのパンツ、それから黒いジャケット。素材が良いからデザインなんかに拘らなくてもなんでも似合ってしまうんだなあ…。

「…それにしても、どうして私と出かけようなんて思ったんですか?」
「言っただろう?君という女性を、もっと深く知りたくなったんだ」
「…と言われましても…私、そんな赤井さんに面白いと思って貰えるような人間じゃないですよ。ただの一般人です」

世界を越えた、なんてとんでもない経歴は持っていることには持っているけど。

「俺が君をデートに誘うというのはそんなに不思議なことか?」
「でっ、…デートなんですか、やっぱりこれ」
「一度デートという単語の意味を調べてみるといい」

言われるままにスマホでデートの意味を調べる。そうして私はぎゅっと唇を噛んだ。

「何と書いてある?」
「…男女が日時を決めて会うこと…その約束、と書いてあります…」
「俺と君は男女だな」
「…はい」
「日時を決めて会っている。つまりこれは?」
「…デートです」
「そういうことになるな」

赤井さんは穏やかに笑っている。最初からデートのつもりだった、とでも言わんばかりである。
そう、か。そうかぁ。これはデートなのか。赤井さんみたいな素敵な男性とのデートと考えてしまうと、急に緊張してしまう。まだ目的地に着いてさえいないのにこれではいけない。私は赤井さんに気付かれないように、人知れず小さく息を吐いた。


***


サービスエリアで適度に休憩を取りながら高速を進み、私達は昼過ぎに東都水族館に到着した。
デートと言われてから緊張してしまっていた私も、車の中で赤井さんと会話を楽しむうちにすっかりリラックスしてしまったらしい。赤井さんも以前潜入捜査官として働いていた時期があったと聞くし、人の心を掌握するのは得意なのかもしれない。さりげなくこちらに向けられる視線や柔らかな声にどきりとさせられはするけれど、話題に困ることは無くなっていた。

「本当に、すっかり元通りですね」
「ああ。こうしてこの観覧車に乗るのはこれが初めてだ」
「あの時はそれどころじゃなかったですもんね」

今は、赤井さんと一緒に東都水族館の大観覧車に乗っているところだ。少し並びはしたものの、以前ほどの混雑はなく思いのほかすんなりと乗ることが出来た。
私は以前来た時に子供達と一緒に乗ったけれど、赤井さんは遊びでここに来ていたわけじゃないし窓から見える景色を楽しんでいるように見える。窓際の椅子に座って外を眺めている横顔は穏やかだ。
こうして再建された観覧車に乗っているとなんだか不思議な気持ちになる。私はこの観覧車が崩壊するのを目の前で目撃したし、それにまた乗っているなんて時の感覚が少し狂ってしまったような気分だ。立ち上がって窓辺に寄ると、やはり以前と同じ景色が広がっている。たくさんの鳩が羽ばたいていくのが見えて、小さく息を吐きながら目を細めた。

「あの時、赤井さんすごかったですよね」
「すごかった?」
「オスプレイを一撃で撃ち落としちゃったじゃないですか。安室さんやコナンくんの機転もあったけど、なんだか映画を見てるみたいでした。えぇと確か、」

あの時のことを思い出しながら私はライフルを構える真似をしてみせる。それから少し遠くの空を見つめて、少し意識して声を低くして。

「落ちろ!」

ばきゅん。口で発砲音まで真似してみたけど、なんだか急に我に返って恥ずかしくなってくる。慌てて手を下ろして意味もなく揺らしてみる。恥ずかしすぎて赤井さんの方は見れそうにない。

「…、っふ、」

一拍置いて、赤井さんは声を上げて笑い出した。思わずぎょっとして彼に視線を向ける。ほんのり微笑んだりすることはあったけど、赤井さんってこんな声を上げて笑う人だったのか。あっはっは、なんて笑いながら肩を震わせている彼を見ていたら、ただでさえ恥ずかしかったのが余計に恥ずかしくなって顔が熱くなる。
いや、そんな笑わなくなっていいじゃないか。

「あ、あのう」
「っ、くく、…すまない。本当に君は面白いな」
「自分がしでかしたことの恥ずかしさに気付いてしまったのでもうこれ以上からかわないでください」
「からかってなどいないさ。とても可愛らしいと思ったんだ」

さらりと言われた言葉にどきりとして言葉を失う。
口をぱくぱくさせている私と違って、赤井さんは穏やかな笑みを浮かべたままこちらをじっと見つめていた。き、気まずい。というか、恥ずかしい。

「あ、そ、そういえば!」

ぱっと視線を逸らしながら声を上げる。顔が赤くなっている自覚はあった。だからこそ、あんまり私の方を見て欲しくなかったし、この気まずい空気を払拭したかった。何か別の話題を、と思いながら私は窓に手をついて外を見つめたまま口を開く。

「む、昔見た海外ドラマに、FBIが出てくるお話があったんです。日本の刑事ドラマとかでもあるシチュエーションですけど、犯人確保の際に拳銃を向けて動くな!って言うじゃないですか。あの緊迫した追い詰められるシーンって私すごくハラハラドキドキして好きなんですけど、英語だとフリーズ!って言うんですね。フリーズって凍るって意味のイメージしかなかったんですけど確かにパソコンとかも動かなくなった時フリーズしたって言いますもんね!私そのドラマ一時期ハマってたんですけど、その時FBIがすごくかっこいいなあって思った記憶が、」

あって。
言葉尻が曖昧に消えていく。話をするのに意識を向けていて気付かなかった。赤井さんはいつの間にか立ち上がり、私のすぐ後ろに立っていた。窓についた私の手に赤井さんの大きな手が重ねられて、私は窓と赤井さんの間に閉じ込められる。きゅう、と喉が詰まって口がからからに渇くのがわかった。
心臓がばくばくと音を立てている。急激に頬が熱くなって、窓の外の景色に意識を集中させようとして失敗した。窓の反射に映った赤井さんと、目が合う。

「あ、あの、」
「Freeze.」

耳元で囁かれてぴくりと肩が跳ねた。
聞いた事のなかった、赤井さんの流暢な英語。ほんの少し吐息に掠れたその声は酷く色っぽくて甘くて、私はその命令通りにかちんと凍りついた。凍りつくなんて言っても、顔は熱くて溶けてしまいそうな気すらしたけれど。
窓越しにじっとこちらを見つめる赤井さんから目を離せない。彼はじっと私を見たまま小さくくすりと笑うと、そのままちゅっと音を立てて私の頬にキスをした。

「ひぇ、」
「…本物のFBIの「Freeze」はいかがかな?」

するりと私の手を軽く撫でてから赤井さんの手が離れていく。咄嗟に顔を両手で覆った。あぁとかうぅとか呻き声しか上げられなくて、私はそのまま椅子に崩れ落ちるように腰を下ろす。
いかがかな、って。そりゃあもう、ものすごかった。物凄い威力だった。体は凍りついていたけれど全身の血は沸騰してしまいそうだった。
あぁ、どうしよう。恥ずかしくてたまらないのに、何故だか酷く甘い痛みが胸を焦がしている。それがとても悔しくて、私は顔を覆った手の指の間から赤井さんをじとりと睨んだ。

「…赤井さんこそ、満足していただけましたか。私のこと知りたいなんて言ってましたけど」
「いいや」

いいやって。というか私のことを知りたいってどういうことだ。大した話はしていないし、こうしてからかったら面白い女とは思われたかもしれないけど、所詮どう足掻いても一般人な私である。
赤井さんは私の向かい側に腰を下ろすと、軽く小首を傾げた。

「この場合の過失の割合は50:50だと考える」
「…は…?過失って、なんの…」
「誘った俺と煽った君だ。俄然興味が湧いたよ。更に深く、君のことを知りたくなった」

いや、意味がよく、わからないんですけど。真っ赤になっているであろう顔のまま眉尻を下げて絞り出すように言ったが、やっぱりよく考えてみても意味はわからない。誘った赤井さんと、煽った私…?煽った?私、煽った覚えなんてないんだけども。
わけがわからずぐるぐると考えては混乱する。考えは上手くまとまらないけど、頬は変わらず熱いままだった。

「待つのは得意なんだ。じっくりと、落とさせてもらうよ」

そう言って、赤井さんは笑った。