とても、とても疲れていた。
仕事が忙しいのも、残業や早出が多いのも、私が頼りにされているからだと信じて疑わなかった。期待されて、頼りにされて、私が頑張れば頑張っただけ皆喜んでくれると思っていたから。やればやっただけありがとうと言ってもらっていたし、それに簡単に舞い上がった私は更に仕事にのめり込んだ。
頼まれた仕事を抱え込み、休日にまで出勤して、ろくな食事もせずにろくに寝ることもない生活を送り、さて人間はそんな日々を送っていたらどうなると思う?
答えは簡単。壊れるのだ。
自覚などなくても摩耗する。軋み、外れ、崩れていく。心も体も無限ではない。人は、多分思うよりもずっと脆いんだと思う。酷使し続ければいずれ壊れる。十分な休息や息抜きをしていなかったり、確固とした強い意志などがなければそれはもう呆気ないものだ。それも、自分じゃ壊れるだなんて思ってすらいない。

「……」

さく、さく、と雪を踏み締めて歩く私の足音がする。昨日の夜から降り始めた雪は今朝には止んでいたが、三センチほど積もり日中の気温では到底溶け切らなかった。交通機関が麻痺するほどの雪じゃなかったのが幸いだったなと考えながら、どうでもいいやと思い直して息を吐いた。息は震えて、乾いた笑いに変わっていた。

「使えないなぁ、かあ」

今日、上司から舌打ちととも言われた言葉を思い出して思わず足を止めた。
薄々、自分でも勘づいていたのだと思う。私は別に皆に頼りにされているわけでも、期待されているわけでもない。ただ頼んだ仕事をしてくれる都合の良い存在だっただけ。勘違いして踊っていたのは私だけ。周囲は私に笑顔を向けて、時に申し訳なさそうな顔をしながら、それでいて裏では私を指さしてバカにしていたに違いない。でも私はそれを信じたくなくて、気付かない振りをしていたんだ。いつか、今すぐにじゃなくてもいつかきっとそのうちに、私が信じる通りに…皆に期待されて、頼りにされるようになると信じて。
ほんと、バカみたいだなあ。はふ、と吐いた息が白く染まって溶けていく。
上司の言葉で呆気なく砕けてしまった私は、仕事も上手く手につかずにものすごく久しぶりに定時に退勤した。いつもならまだ残業に力を入れている時間。今の私に頑張ることなど出来やしなかった。
胸は痛まない。涙も出ない。ただ無気力で、何もしたくない。
うちのマンションの屋上から飛び降りたら気持ちいいかな、なんて思いながら再び歩き出し、自宅マンションへと向かう。
そして、マンションの入口でぴたりと足を止めた。

マンション敷地の隅の方。電灯の明かりも当たりにくく、大分暗く影になった場所。
そこに、誰かが倒れている。

「…え、」

気付いた途端に足元から焦りのような恐怖のようなものが体を駆け巡った。ぼんやりとしていた思考が急に冴え渡る。
誰だろう。マンションの住民だろうか。何故あんな所に。
疑問ばかりが浮かんで、しかし私は考えるよりも先に差していた傘を放り出しその人に駆け寄っていた。

「あの、大丈夫ですか…!」

雪に膝をつく。うつ伏せで倒れていたのは男性のようだった。暗がりに溶け込むような真っ黒な服を着ている。倒れた体躯はがっしりとしていて大きく、立ち上がったら恐らくかなり背の高い人なのだろうと思う。肩を掴んで軽く揺すってみたが反応はなかった。
顔の前に手を翳してみると手のひらに呼気を感じて思わずほっと息を吐く。――生きてる。
そこで、ふと違和感を感じた。
マンションの敷地に積もった雪。そこに、この男性のものらしき足跡が見当たらない。この男性が倒れていた辺りに残っているのは、今駆け寄った私の残した足跡だけだ。雪に足跡を残さずこんなところで倒れているなんておかしい。
まさか飛び降りかと考えてその場から上を見上げてみるが、この辺りに飛び降りられそうな場所はない。なら、この男性はどうしてここに…どうやってここに倒れたのだろうか。

「……ぅ、」
「っ、もしもし?聞こえますか?大丈夫ですか?」

男性が小さく呻いたのに気付いて、慌てて声をかける。
焦っていて失念していた、先に救急車を呼ばないと。慌ててスマートフォンを取り出してロックを解除する。

「しっかりしてください…!今救急車を呼びますから、」

119番を押そうとしたその時だった。
ぐい、とスマホを持った方の腕を男性に強く引かれた。大きな手のひらは私の腕を一周している。思わず「ひっ、」と小さく悲鳴を上げそうになり、視線を男性に向けて…鋭く光る瞳と、目が合った。

「……呼ぶな、」

掠れた声だった。ニット帽から少しはみ出した前髪が男性の目元を隠していたが、髪の隙間から覗く瞳の強さは思わず体を硬直させてしまうほど。…とは言っても、どう見ても大丈夫そうには見えないし、私の腕を掴んだ手は寒さからか小さく震えている。
救急車を呼ぶなって、どうして。犯罪者?逃走中に力尽きてここで倒れてしまったとか?だとしたら呼ばなきゃいけないのは救急車ではなく警察?確かにこの人の体躯も、瞳の強さも、一般人のそれではないと思う。こく、と小さく息を飲む。

「…あの、…でも、怪我なさってるんじゃ…」
「問題ない。…すまない、大丈夫だ。大した怪我ではない」

意識がはっきりしてきたのだろうか。男性の声は思いのほかしっかりしている。男性は一度ゆっくりと息を吐き出すと私の腕から手を離し、そのまま体に力を入れて仰向けに転がる。小さく呻いてお腹の辺りを押さえたから、その辺に傷でもあるのかもしれない。
それから不意に驚いたように地面の雪を見つめ、それに手を伸ばして大きな手のひらで握りしめる。男性の手の中で雪はぎゅっと小さくなり、私の拳よりも少し小さいくらいの雪玉になる。

「……雪?…俺は夢でも見ているのか」

ぽつり、と呟かれた声に眉を寄せていたら、男性は雪玉を地面に転がして再度私に視線を向けた。
仰向けになったことで、薄暗い場所でも彼の顔がぼんやりと確認出来る。正直言葉をなくすほど、その人はとても美しい人だった。高い鼻と薄い唇。彫りの深い顔。どこか日本人離れした顔立ちに、どきりと胸が弾む。けれど今はそれどころではないと慌てて首を振った。

「…ここはどこだ?…俺は、建物の屋上にいたはずなんだが」
「…え?えっと…ここは東京都〇〇市四丁目にあるマンション…なんですけど…」
「……〇〇市?」

男性の声が低くなる。何かおかしなことを言っただろうかと不安になり、もう一度きちんとした住所を言おうとしたら、体を起こした男性に遮られた。

「俺は米花町にいた」
「………ベーカチョウ?」
「知らないのか?」

耳馴染みのない場所の名前だ。そんな地名あっただろうか。首を傾げて記憶を探るも、全く思い当たらない。
考え込む私を見て、男性はほんの少しだけ目を細める。けど、いくら考えてもそんな街の名前は聞いたことがない。
どうしよう。ここはやっぱり警察を呼ぶべきだろうか。男性には悪いが、顔が整っていようと現状ではどう見ても不審者だ。不審以外の何物でもないし、正直自分の手には余る事案だと思う。

「…すまないが、」
「っ、ハイッ」

ぐるぐると考えていたところに声がかかり、必要以上にびくりと体を震わせて大きな声を出してしまった。少し恥ずかしくなったが、男性はそんなことは全く意に介さず先程よりも険の抜けた目で私を見た。

「…俺は、諸星大。確認したいんだが、ここは、米花町ではない?」

もろぼし、だい。
男性の名前だと理解するまでに少し時間がかかった。ぽかんと口を半開きにした後、男性の名前を拙く口にする。それから、問いかけられた内容を理解してゆっくりと頷いた。

「…私は…佐山ミナ、です。…ここは東京都〇〇市四丁目にあるマンションで…ごめんなさい、ベーカチョウ、という場所には聞き覚えがありません」

男性が、すっと目を細めたのがわかった。けれど、私には男性が何故そんな反応をするのかはわからなかった。
ベーカチョウ。どういう字を書くのだろう。チョウ、とは町のことだろうか。じゃあ、ベーカは?昔まだ学生の頃読んだ、シャーロック・ホームズの小説に出てきたベーカーストリートが脳裏を過る。

「……わかった。面倒をかけてしまって悪かったな。道を教えてくれ、駅はどっちだ?」

唐突に男性が言った。つい先程まで感じていた動揺の気配はすっかり無くなっている。心做しか声色も柔らかくなったが、逆にそれが取り繕うような違和感を纏っている。

「…この通りを真っ直ぐ行くと大きな通りに出るので、それを左折してしばらく行けば最寄りの駅に着きます、けど…」

こちらの動揺のすら気にも留めず、男性は立ち上がって服についた雪を払った。
立ち上がったことで、電灯の明かりの下に男性の顔が照らされる。今度は、私が息を呑む番だった。

思っていた以上に長身でがっしりとした体格に長い足。黒のニット帽からゆるくうねった黒い前髪が覗いている。鋭いつり目に埋め込まれた瞳は美しいグリーン。目元には隈が刻み込まれていたが、それがかえってセクシーでどきりとする。
その男性…諸星大と名乗ったその人は、ハリウッド男優顔負けの容姿をしていた。

「ありがとう、お嬢さん。とりあえず駅まで行ってみるよ」
「おじょ、いや、…えっ、今からですか?結構距離ありますし、雪もこれからまた降り出して強くなる予報なのに…」
「帰らなくてはならないのでな」

お嬢さんなんて呼ばれたことに動揺してしまったが、彼は全く気にしていなかった。
帰らなくてはならない、そう言う声ははっきりしていた。
つい先程までここで倒れていたとは思えない。その瞳は強く、曲げられないような意志を感じる。
けれど。

「帰るって…その、ベーカチョウに、でしょうか」

ベーカチョウがどんな場所かはわからないが、少なくともこの辺り、私の行動範囲では聞いたことがない。
私ですら行き方がわからないのに、この人はどうやってそのベーカチョウまで行くつもりなのだろうか。考えたってわからなかった。というか、わからないことだらけである。ただ、直感的に思ったのは、この人は今行くところがないということだ。
これから雪が再び降り始める。気温も更にぐっと下がるだろう。そんな中、この人はベーカチョウへ帰ろうというのか。

私は、とても疲れていた。
まともに睡眠も取っていない。残業、早出続きで疲労していたことに気付いてしまった。会社に、都合よく使われていたのだと理解してしまった。
とても、疲れていて…それでいて、多分、とても寂しかったのだと思う。

「私このマンションに住んでるんです。…良かったら、いらっしゃいませんか」

生憎、食料は…インスタント食品しか、ないんですけど。ごめんなさい、私料理苦手で、自炊はほとんどしないんです。で、でも、お体も冷えてると思いますし、ほんと、これからきっと雪強くなるので。
あの、だから。

男性にじゃない。自分に、ただ言い訳していたのだと思う。理由を沢山並べ立てて、男性を家に招く言い訳をしていたのだ。
こんな不審者を家に呼ぶなんてどうかしてる。だって犯罪者かもしれない。とっても悪い人なのかも。今だって逃走中なのかもしれない。家に入れたら、殴られたり、最悪殺されるのかもしれない。こんな体格の人と対峙したら、私に勝ち目なんて万が一にも有り得ない。
たくさん、たくさん考えた。けれも、どれもこれもまるで現実味がなかった。

男性の目は警戒して私を見ていたけれど、それでも真っ直ぐ透き通っていたから。
そしてその透き通った瞳の奥に、微かに揺れる不安を感じ取ってしまったから。

「……少々君は警戒心に欠けているようだ。自分が何を言っているかわかっているか?素性の知れない男を、家に上げようとしているんだぞ」

呆れたような声だった。
それでも、私の直感が、この人は悪い人ではないと言っていた。
この人を今ここで、行かせてしまってはいけないと思った。

「ベーカチョウ、行き方わからないんですよね」
「………」
「まずは、冷えた体を温めませんか。うちパソコンもあるし、ちゃんと行き方を調べて、体を休めてからでもいいと思うんです」

私が尚も食い下がると、男性はしばらくじっと私と目を合わせて沈黙し、やがて諦めたような短い溜息を吐いた。それから、座り込んだままだった私に手を差し伸べる。どうしたら良いかわからずに戸惑いながらも男性の手を取れば、そのまま握られて強く引っ張られて立ち上がった。

「……日本人は警戒心が強いと思っていたのだが、認識を改めなければならないようだ」
「…え?」
「いいや。世話になる身で申し訳ないが、君の部屋は喫煙可能か?」

彼がジャケットの胸ポケットから取り出したのはショートホープ。
私は軽く目を瞬かせた後に、換気扇の下でならどうぞと言って笑った。