「すみません、ちょっと散らかってるけど…どうぞ上がってください」

マンションの蛍光灯の下で見てわかったことだが、諸星さんの着ていた服はどこもかしこも煤のようなもので汚れていて、破れているところもあった。黒のライダースに、ネイビーのシャツ、チャコールグレーのスラックス。シャツはともかく、ライダースとスラックスは大分ボロボロである。
一体何があってこんな身形なのか。私の想像のつかないことがあったに違いない…多分。

「こちらが転がり込んだ身だ。あまり気を遣うな」
「とんでもない。えっと、今着替え持ってきますから、先にお風呂どうぞ。ちょっと待っててくださいね」

体も冷えてしまっているし、そんな人を放置は出来ない。気を遣うとかじゃなく最低限の話である。私は靴を脱ぐと先に寝室へと向かった。
クローゼットを開けて、奥に仕舞いこんでいた男物のジャージを取り出す。以前付き合っていた彼氏のもので、あまり使っていなかったためなんとなく勿体なくて捨てられなかったものなのだが、こんな所で役に立つとは思わなかった。…元彼と諸星さんじゃ体格もだいぶ違うけど…どうだろう。入るかな。元彼は低身長ではなかったけど諸星さんほど高身長ではないし。若干の不安が残るがあんな人が私の服が入るわけもないので、きっとないよりはマシだろう。ダボついたジャージだから入ることを祈るしかない。ちゃんとしたものは明日買いに行くとして、今日はこれで我慢してもらうことにする。
バスタオルも一緒に重ねて諸星さんの待つ玄関に戻ると、彼はぼんやりとした表情で壁に寄りかかっていた。
私が戻ってきたことに気付くと視線を上げ、じっと私を見つめる。

「…?どうかしました?」
「…いや。なんでもないよ。服とタオルをありがとう」
「いいえ。服は脱いだら洗濯機の上に置いておいてください。洗えるものは明日洗濯しちゃうので」

へらりと笑って言えば、諸星さんは私が差し出した着替えとバスタオルを受け取り靴を脱いで家に上がる。バスルームの場所を教えると、小さく礼を告げてドアの向こうに消えていった。

…最初からわかっていたことだが、本当に諸星さんは綺麗な顔をしている。長身に長い手足。高い鼻とグリーンの瞳。
間違いなく年上だと思うけど、かといって離れ過ぎてる感じはしない。三十代そこそこくらいかな。貫禄はすごいけど。
鋭い目は最初は迫力があるように思うけど、話し方や物腰はどこか紳士的で柔らかい。…ように感じる。

…本当に一体どんな人なのだろう…

気付けば私はぼんやりと玄関で考え込んでしまっていた。
自炊はほとんどしないと言っても、招いた人にお茶も出さない訳にはいかない。慌ててキッチンに向かい、ヤカンに水を入れて火にかける。確かインスタントコーヒーが残っていたはずだ。戸棚を探せば、それはすぐに見つかった。

ヤカンが沸騰するまでに着替えてしまおうと寝室に向かい、着ていたスーツを脱いでハンガーにかける。パジャマ兼ルームウェアに着替えると、ようやく帰ってきた実感がわいて小さく息を吐いた。キッチンに戻って、まだ音を立てないヤカンをぼーっと見つめる。

とても疲れた。
正直今すぐ眠ってしまいたいくらいには眠い。
自分の今後のことも考えなければならないし、けれど何からどう手を付けたら良いのか正直わからなかった。
会社は…辞めようと思う。残業代や早出代は出ていたし、それを使う間もなく働いていたから貯蓄はそれなりにある。
仕事を辞めて、少しのんびりと過ごそうか。三ヶ月くらいは働かなくても問題ないだろう。
それから…今考えなくてはいけないのは、諸星さんのこと。
彼はベーカチョウというところにいたらしく、そこへ帰りたいらしい。けれど私にそんな場所の心当たりはない。
ルームウェアのポケットからスマホを取り出し、ベーカチョウ、ベイカチョウ、ベイカチョー、など、検索をかけてみるもののヒットはしなかった。
かと言って、諸星さんが適当なことを言っているようには思えない。
まずは、彼とその辺りの話をしなければならない。

ヤカンが甲高い音で鳴いた。コンロの火を消し、用意していたマグカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。
ふわりと立ち上るコーヒーの香りに、無意識のうちにゆっくりと息を吐いた。

「シャワーありがとう」

後ろから声をかけられて振り向く。シャワーを浴びてさっぱりした様子の諸星さんが、肩にバスタオルをかけた状態で立っていた。水を吸ってゆるくうねるブルネットの髪はとてもセクシーで、それだけならきっと私は顔を赤くしてしまっていただろう。
…が、諸星さんの姿を見て私は思わず吹き出してしまった。

「っふ、…ふふ、ごめんなさい、ッ…」
「君、ごめんなさいと思っていないだろう」

着れなかったらどうしようかと思っていた元彼のジャージ。きつくて着れないというわけではなさそうだが、全体的に長さが足りていないしズボンの裾に至っては彼の脹脛の辺りまで上がってしまっている。どう見てもサイズの合わないジャージを着た諸星さんは、その顔の良さとのギャップもあってなんだかちょっと可愛く見える。
にしても、初対面の彼に対してこんな風に笑うなんて失礼なことをしてしまった。

「ほんとにごめんなさい、思った通りやっぱりサイズ合わないなぁって…体は温まりました?」
「ああ。…このジャージ、君のボーイフレンドのものじゃないのか?俺が着てしまって良かったのか」
「元彼のです。新品じゃないしサイズも合わなくて申し訳ないんですけど、そんなに使ってなかったしちゃんと洗濯してあるので大丈夫ですよ。キツくないですか?」
「まぁ、裾丈の長さ以外は許容範囲だな」

これで着苦しかったらどうしようもない。
コーヒーの入ったマグカップをマドラーで軽く掻き混ぜると、私は一度手を止めて諸星さんを見上げた。

「お砂糖とミルクはどうしますか?」
「ブラックでいい」
「了解です」

お砂糖もミルクもなしのブラック。…見たままだなぁなんて思いながら諸星さんにマグカップを手渡し、彼と一緒に小さなリビングへと移動する。

「適当なところに座ってください」

体躯の大きな彼を床に座らせるようで申し訳ないが、うちにはソファーはない。リビングにはテレビと、床に敷いたラグマットの上に引出し付のローテーブル。一人暮らしのOLの家なんてこんなものだ。
諸星さんはさして気にした様子もなく、ラグマットの上に腰を下ろした。コーヒーを啜る彼を見ながら、私も諸星さんの向かい側に腰を下ろす。

「早速ですまないが情報を整理したい。いくつか質問してもいいか?」
「その前に…すみません、あの、怪我の手当をさせていただいても良いですか?」

ジャージで隠れて見えないけど、服もボロボロだったしお腹の辺りを庇っていたように思う。多分無傷じゃない。さっきも「大した怪我ではない」と言っていたし、少なからず怪我はしているはずなのだ。
テレビ台の引き出しから救急箱を取り出して中を確認。消毒液と絆創膏と湿布薬くらいしかないが、何もしないよりはマシなはずだ。
本当なら病院に行ってちゃんと調べて欲しいくらいだけど、救急車を拒否したわけだしそれはきっと難しいだろう。

「いや、だが…」
「だがじゃないです。怪我、してるんですよね」

図々しいと思われても、これは退くわけにいかない。簡単な手当だけでもさせて欲しい。

「ちゃんと手当しないと…バイ菌入ったら怖いですし。あの、私が触れてもいいところだけでも構わないので…せめて、絆創膏くらい貼らせてください」

救急箱を開けていろんなサイズの絆創膏を取り出した。左の手のひらを軽く擦りむいているのは見た。足首から脹脛にかけてはとくに傷もないけど、スラックスがたくさん破けていたから足も怪我してると思う。腹部にもあると思うけど、さすがに男性のお腹を手当するのはまずいかな…色んな意味で。
諸星さんは少し迷ったようだったけど、やがて軽く肩を竦めてズボンの裾を捲ってくれた。膝に大きな痣と、太ももに赤い筋。

「足や腕の怪我は大したことないんだが背中を強打していてね。湿布を貼ってもらえるだろうか」
「っ、はい、もちろん」

私は頷いて、湿布薬を取り出した。膝の大きな痣に湿布を貼れば、諸星さんは私に背中を向けてジャージを捲り上げてくれる。背中の内出血は膝よりも酷くて、赤紫の痕が広がっていた。そこに湿布薬を貼りながら、いくつかある古傷に視線を向ける。縫合の痕のようなものや…クレーター状に凹んだままの皮膚。これ、弾痕ってやつかな。

「ありがとう。助かったよ」
「え、いや…私の自己満足みたいなものでしたし」

改めて礼を言われると何だかちょっといたたまれない。
まごまごと言葉を返して、救急箱をテレビ台の引き出しへと仕舞った。

「改めて、いくつか聞きたいんだが」
「あ、は、はいっ。すみませんお待たせして…」
「構わんさ。君は俺の手当をしてくれただけだ」

諸星さんは穏やかに言いながらも、真剣な目で私を見つめている。緩んだ気を引き締めて正座で座り直せば、諸星さんは小さく吐息を零して笑った。

「…最初に、ここは東京都〇〇市の四丁目、だったな。俺は東京都米花市の米花町にいたはずだが、君に米花町という場所の心当たりはない」
「はい、聞いたこともないです。…ちなみに、ベーカチョウってどういう字を書くんですか?」
「米に花の町と書く」
「なるほど、それで米花町…」

チョウは町で合っていたようだ。漢字がわかったところで少し地名としての親近感は出てきたが、それでも知らない場所ということに変わりはない。
試しに携帯で「米花町」と検索をかけてみたが、やはりそんな地名は一切ヒットしなかった。

「毛利小五郎という名前に聞き覚えは?」
「えっ、ごめんなさい無いです。どちら様ですか?」
「ふむ。では工藤新一は?」
「…えっと、無いです…」
「どちらも有名な探偵の名前だが、君は知らないんだな?」
「…ごめんなさい、知らないです。探偵と聞いて真っ先に浮かぶのってシャーロック・ホームズくらいで」
「なるほど、シャーロック・ホームズか」

やや難しい表情をしていた諸星さんだったが、シャーロック・ホームズの名前にほんの少しだけ眦を和らげたのがわかった。それから顔を上げて、念の為と前置きをして言う。

「怪盗キッドのことは?」
「か、怪盗キッド?いいえ全く。…アルセーヌ・ルパン関連の何かですか?」

話を聞きながらますますわからなくなって来た気がする。
諸星さんが何を言わんとしてるのかわからないし、この質問にどんな意味があるのかもわからない。毛利小五郎、工藤新一、怪盗キッド。どれもこれも知らないものばかりだ。
諸星さんは口元に指を当てて考えていたが、小さく息を吐いてポケットからスマホを取り出しすとテーブルの上に置いた。

「これは俺のスマートフォンだが、どうやら壊れてしまったようで電波が繋がらないんだ。すまないがパソコンを借りても良いかな」

諸星さんがスマホを操作し、待受画面を私に見せてくる。確かに電波の表示はなく、そこには「圏外」と表示されていた。電源はつくし操作もできるのに、電波だけが届かない。変な故障の仕方だなと思いながらも、私は立ち上がって寝室からノートパソコンを持ってきてローテーブルに置いた。

「それはもちろん構いません。ネットには接続されていますから、好きに使ってください」
「助かる。俺は少し調べ物をさせてもらうが、佐山さんは気にせずいつも通り過ごしてくれ」
「えっと、はい。諸星さんこそどうぞ寛いでくださいね。あっ、あと煙草は台所の換気扇の下でなら吸っていただいて構わないので」

ここで煙草を吸っていたのは元彼だけだ。使われなくなって久しい灰皿を引き出しから引き出して諸星さんの前に置くと、諸星さんはきょとんとした顔をしてから…すぐに、くすりと笑った。

「君は本当に不思議な女性だな。ありがとう、一服させてもらうよ」

想像して欲しい。少し見た目に迫力のある、あまり笑わなそうな男性が柔らかく笑うのを。どきりと胸が弾んで、顔に熱が上って、急に熱くなる。誤魔化すように私は寝室に入ってクローゼットから下着を取り出した。
そうだ。私は疲れているのだ。
早くシャワーを浴びて寝てしまいたいのだ。

「じゃ、じゃあ私お風呂行ってきます…!」
「ああ。ごゆっくり」

なんだか恥ずかしくて諸星さんの方が見れない。だって多分まだ笑ってる。
諸星さんの方を見ないまま、私は慌ただしくバスルームに入ったのだった。