シャワーを浴びたらまとわりつくような眠気も少しだけましになった。
髪をタオルで拭いながらリビングに戻ると、諸星さんは真剣な表情でパソコンと向き合っていた。パソコンを睨み付けるその眼光は鋭く、どう見てもちょっと調べ物をしているといった様子ではない。
…一体何を調べているんだろう。気にはなるが、なんだか詮索するのも悪い気がして気にしないことに努める。

時計を見れば夜九時を回ったところ。普段ならまだまだ残業中の時間だ。
定時に帰ったのも久しぶりだから、突然出来た時間に何をすれば良いのかわからない。
寝たいと思っていたし実際眠気もあるのだけど、なんとなく寝る気になれなくてリビングのラグマットの上、ローテーブルを挟んで諸星さんの向かい側へと腰を下ろす。
諸星さんは手を止めて、私の方へと視線を向けた。

「おかえり」
「うっ、…も、戻りました」

パソコンを見ていた鋭い表情はなりを潜め、柔らかな声で迎えられる。こんなのいつぶりだろうか。むず痒くて照れ臭くて、誤魔化すようにタオルを頭に被る。

「佐山さん」
「……はい」
「寝不足は肌に悪いと聞くが」
「……は、」

思わずぽかんとしてタオルから顔を出す。
諸星さんはローテーブルに頬杖をついて、私の顔を真っ直ぐに見つめながら言った。

「化粧を落としたからだろうが、目の下の隈が目立つ。慢性的な寝不足か?早めに休んだ方がいい」
「…そんなにわかりやすいですか」
「疲れた顔をしている」

確かにとても眠いし疲れていたが、それを表面上に出したつもりは全くなかった。
諸星さんの言う通り、寝不足は慢性的なものだ。徹夜はほとんどしたことなかったけど、多く寝れても四時間なんて日はざらにあった。

「…お恥ずかしい限りです」
「なに、俺も人のことは言えんよ。徹夜は趣味みたいなものだ」
「…社畜ですか?」
「日本人ほどじゃない」

諸星さんは軽く肩を竦めて言う。その軽い言い方が、なんだかすごく心に沁みた。
そういえば、さっきも日本人がどうとか言ってたけど…諸星さん、日本人じゃないのかな。体格や目の色、顔立ちからハーフだろうなってことはわかるけど、言い方からしてきっと国籍は日本じゃないんだろうな。

「俺はまだ調べ物を続けるが、佐山さんは休んでくれ。顔色もあまり良くない」
「そんなふうに言われたの、初めてかもです」

顔色が悪いだとか、疲れた顔をしてるだとか…私のことをそんなふうに見てくれる人はいなかったな、なんて思って苦笑する。毎日顔を合わせてる人達からは何も言われなかったのに、初対面の諸星さんにこんな心配されるなんて。
なんにせよ、疲れているのは事実だし眠いのも本当なので、お言葉に甘えて休ませてもらおうかと考える。
けれど私としては、怪我人である諸星さんにベッドを使ってもらいたい。私なんて所詮どこでも寝れるし、むしろ最近はラグマットで寝落ちることの方が多かったと思う。

「あの、諸星さん。それでしたら私がラグマットで寝るので、ベッドどうぞ」
「待ってくれ。なんだって?」
「いや、諸星さんにはベッドを使ってもらおうと…怪我人ですし」
「冗談だろう。自分はベッドで寝ながら女性を床に転がしておく趣味はない」

諸星さんは呆れたように私を見つめ、しっしっと追いやるように軽く手を振る。さすがに更に言い募ることは出来なくて仕方なく頷いたが、でもそうなると諸星さんがラグマットの上で寝ることになる。このままさすがに寝入るわけにもいかず、私は一度寝室に入ると分厚めのブランケットを持ってきた。
これがあればとりあえずは大丈夫だろう。ブランケットを諸星さんに手渡すと、諸星さんはぱちぱちと目を瞬かせた。

「これ、すごくあったかいので…。もし夜中寒かったら、そこにリモコンもあるので暖房入れてください。風邪引かないでくださいね」
「…風邪を引くほどヤワじゃないが…ありがとう」

諸星さんは、ほんの少しだけ苦笑してブランケットを受け取ってくれた。変な世話好きの女と呆れられただろうか。でも雪は夜中ずっと降り続くみたいだし、寒い思いはして欲しくない。

寝室に入ろうとすると、不意に諸星さんに呼び止められる。何だろうと振り向けば、諸星さんは寝室のドアを指さして言った。

「鍵をかけて寝てくれ。君に何かをするつもりはないが、俺も男なのでね」

思わず変な声が出そうになった。…なんというかじわじわと恥ずかしくなる。
諸星さんを疑ったりなんて全くしてないけど、彼を家に上げた以上私にも私の果たすケジメもあるのは間違いない。何かなんて起こりえないけど、だらしのない女だとは思われたくはない。

「…わかりました。何かあったら遠慮なく呼んでくださいね。…それじゃ、お休みなさい」
「ああ。…おやすみ」

諸星さんの柔らかい声を背中に受けながら寝室に入って鍵をかける。髪を拭いていたタオルは椅子の背に掛けて、私はそのままベッドにダイブした。
…あれ、ベッドで寝るのいつぶりだろう。なんだかとても久しぶりな気がする。
諸星さんと話していた時は少しマシだった眠気も、横になった途端に今にも引きずられそうなほど強くなる。
目を閉じたまま部屋の電気を消すと、もぞもぞと布団に潜り込む。

ダメだ、眠い。疲れた。



***



疲れているし寝不足だともわかっていたけど、私は自分で思っている以上に限界だったらしい。
目が覚めたらなんとお昼を過ぎていた。

「……えぇ…マジかぁ…」

昨日は九時半には寝入っていたと思う。となると単純計算、私は軽く十五時間程度も一度も起きずに眠ってしまっていたということだ。
体は正直だ。今まで誤魔化してやってきたものが、全て剥ぎ取られてしまったような心地である。
むくりと体を起こし、寝癖ではねた髪を手櫛で整える。まだ少し跳ねてはいるが、何もしないよりはマシだろう。

ぐぅとお腹が鳴った。そう言えば私は昨日の朝を食べたきり、夜にコーヒーを飲んだだけだ。昼も過ぎてしまって諸星さんもお腹が空いているのではないか。
あらかじめ諸星さんにも伝えておいたことではあるが、うちにはインスタント食品やカップ麺くらいしか無かったはず。生活力は昔どこかに置いてきた。自炊なんて気が向いた時にしかしない。
ベッドから起き上がって、ドアの鍵を外して開ける。この時間ならさすがに諸星さんも起きているだろう、失敗したなと思いながらリビングに入って…私ははたと動きを止めた。
ラグマットの上、ブランケットが盛り上がっている。…そして長すぎる足がブランケットから覗いている。…まだ寝てるみたい。諸星さんもきっと疲れてたんだろう。
さて、どうしたものかと思いながら彼を起こさないようにキッチンに移動し、冷蔵庫を開ける。…まぁわかっていたことだけどろくなものは入ってない。…入ってるのは卵とお味噌にふえるわかめ。味噌の賞味期限は大丈夫だからお味噌汁くらいは作れそうだけど、でもこの卵はちょっと…怖いな。

「おはよう」
「ひえっ」

突然後ろから声をかけられてびくりとすくみ上がる。慌てて振り返ると、のっそりと立つ諸星さんの姿があった。まだ少し眠そうではあるけど、昨日よりは顔色もや良くなってる気がする。寝起きもこの人はセクシーだ。

「お、おはようございます…!よく眠れました?…と言ってもあんな床じゃ充分にはお休みいただけてないと思いますけど…」
「いいや、ゆっくり休ませてもらったよ。ありがとう」
「とんでもないです」

私が首を横に振ると、諸星さんはほんの少しだけ笑ってくれた。…少しでも疲れが取れたなら良かったな。でもラグマットで寝かせるなんていうのはやっぱり申し訳ないな。今晩はベッドを使ってもらおうかと思ったけど、多分聞いてくれないだろう。それよりも今はご飯のことだ。

「あの、今家に食べられそうなものインスタントかカップ麺くらいしかなくって…私ちょっと買い物行って来ますからのんびりしててください」
「待て。君は見ず知らずの男を家に残して買い物に行くと言うのか?さすがに警戒心が無さすぎる」
「えっと、でも…諸星さんもお腹空いてますよね」
「俺は転がり込んだ身だ、そんなに気を使うな。二、三日食わなくてもなんとかなる」
「そ、そんなのはダメです!!」

慌ててブンブンと首を振れば、諸星さんはそんな私を見てから小さく苦笑した。それからふむ、と考えるように顎に手を当て、インスタント食品を置いてる棚へと手を伸ばす。手に取ったのは、どこにでも売ってる…そして最近の私の主な食事でもあるカップ麺のひとつ。

「それじゃあ、これをひとつ俺に恵んではくれないか。確かに腹は減っているんでね」
「それは、…もちろん構いませんけど…」

本当にそんなものでいいのだろうか、と心配になるも、諸星さんは気にした様子もなくもうひとつ同じものを手に取ると外側のビニールを破ってシンク台へと置く。君も一緒に食べよう。そう言われては、私には頷くしか出来ない。
ヤカンに水を入れて火にかける。諸星さんは二つのカップ麺の蓋をそれぞれ半分まで開けて、お湯を入れる準備を整えてくれていた。諸星さんとキッチンで並びながら、ヤカンのお湯が沸騰するのを待つ。

「佐山さん、昨日はパソコンを貸してくれてありがとう。助かったよ」
「あ、いえ、とんでもないです。何かわかりましたか?」
「まぁ、いろいろとな。それで君に折り入って頼みがあるんだが」
「頼み、ですか。なんでしょう、私に出来ることなら良いんですが」

改まって言われると緊張する。一体なんだろうと身構えていたら、ヤカンのお湯が沸騰した。コンロの火を止めてお湯をカップ麺に注ぎ蓋をする。

「正直、まだ自分の中で答えが定まっていなくてな。確かめたいことがあるんだが…新大久保駅に連れて行ってくれないか」
「新大久保駅、ですか?」

新大久保駅と言うと、山手線で新宿の近く。韓国料理のお店が多いイメージだけど、そんなところに何の用があるんだろう。不思議そうに首を傾げる私を見て、諸星さんは軽く肩を竦める。

「知り合いの家がある。…かもしれない」
「…かもしれない?」
「確率は低いだろうが、何かわかることもあるだろうと思ってな」

諸星さんは、何か既に掴んでいるような様子だった。それがはっきりとしていないから、確認したいということなのだろうか。
何にせよ私は土日休みの職場で、今日明日はお休みだ。諸星さんのお願いを断る理由はない。十五時間も寝てしまったのだ、少しは体を動かさないと逆に辛い。

「わかりました、お供します。そうと決まれば、まずは諸星さんのお洋服を用意しないとですね」

あのボロボロになった服ではさすがに外を歩くのは忍びないだろう。中に着ていたワイシャツはともかく、ライダースジャケットもスラックスもかなり破けていたし、正直再生出来るとは思えない。

「近くに簡単な衣料品も売ってるスーパーがあるんです。そこで何か適当に買ってきますよ」
「俺も一緒に行こう。それまでこのジャージは貸しておいてくれるか」
「え?大丈夫ですよ、諸星さんは家で待っててくださっても…」
「繰り返すが、君はもっと警戒心を持つべきだ。例えば俺が悪い奴で、君が外出している間に盗みを働いたらどうする」
「……はい…すみません」

諸星さんは絶対にそんなことをする人じゃないと思っているけれど、諸星さんが言うことももっともだ。
私はやはり、頭のネジが数本飛んでしまっているのかもしれない。感覚が少しずれてしまっている。気をつけなければと思いながら小さく俯くと、私の頭に彼の大きな手がぽんと乗せられた。

「俺を信頼してくれるのは嬉しい。だが、昨日出会ったばかりの人間を家に一人残して出かけるなんて軽率すぎる。…まぁ、君の厚意に甘えている身では説得力に欠けるか」

顔を上げると、苦笑を浮かべた諸星さんと目が合った。諸星さんはすぐに小さく笑って軽く私の頭を叩く。
…なんだろう、手付きが慣れているような。目を瞬かせていたら、諸星さんはカップ麺を両手に持ちながらリビングの方へと足を向ける。

「腹が減った。これを食べて出かけよう。外の雪も少し溶け始めているみたいだぞ」

その言葉に窓の外に視線を向ける。
青空がいっぱいに広がる、とても良い天気だ。