新大久保駅からの帰り道、私と諸星さんは昼間も来た近所のスーパーへと立ち寄った。
スーパーなんて来ても九割インスタント食品コーナーへと向かう私だが、今日は方向チェンジ。諸星さんと一緒に青果コーナーの方から回り始める。普段あまり踏み入れないエリアだからなんとなくドキドキするが、諸星さんも一緒だし話をしながら品物をカゴに入れるのは楽しかった。カゴは当然のように諸星さんが持ってくれている。諸星さんのルックスと買い物カゴというのはちょっとギャップがあるけど、お買い物中の主婦の視線が自然と諸星さんに向くのを見てそりゃそうだよなぁなんて思う。

「佐山さん、嫌いなものとか、食べられないものは?」
「えっと、特にないです」

特にないと言うよりは、そこまで食にこだわりがないのだ。出されたものは何でも食べる。よほどのゲテモノでない限りは。
私の返事を聞いた諸星さんは頷いて、手に持っていたじゃがいもをカゴに入れる。イケメンとじゃがいも。持っているものがじゃがいもなのに絵になるのはすごい。じゃがいもの他にもにんじんや玉ねぎをカゴに入れ、その足で肉のコーナーに向かうと牛肉をカゴへと入れる。ルーは中辛のものを選んだ。

「スーパーでの買い物、慣れてるんですね」
「そう見えるか?スーパーに買い物なんて以前はあまりしていなかったんだが…料理を教わったついでに新鮮な野菜の見分け方なんかも教えてもらってな。慣れてみればなかなかに楽しいものだ」
「私、青果コーナーやお肉のコーナーで買い物って基本的にあまりしないので…今でもちょっと緊張したりするんです。野菜とかって包装も何もないものも多いし、ちょっと触って傷つけちゃったらとか思うと」
「気持ちはわからなくもない」

諸星さんとそんな話をしながらレジに並ぶ。今回も諸星さんが会計を済ませてくれた。私の食事を作ってもらうのだから材料費くらい払わせて欲しかったが、「恩の先売りだ」なんて言ってる。恩の先売りってなんだろ。そんなもの売らなくても、私に出来ることならなんでも協力するんだけどな。
外に出るとすっかり暗くなっていた。さほど距離もないマンションまでの道を歩きながら、私は隣を歩く諸星さんを見上げる。

「諸星さんって何でもそつなくこなしそうですけど…出来ないことってないんですか?」
「出来ないこと?以前は料理も出来なかったし、さっき言った通り今だって得意な方じゃない」
「うーん…なんかそういうんじゃなくて、もっと意外性のある感じの…例えば運動神経がものすごく悪いとか」
「いや?運動神経が悪かったら今の仕事は続けられないな」
「お仕事…それって、どんな…」
「まぁそれは、後での話にしようじゃないか」
「…わかりました。それじゃあ…運転免許持ってないとか」
「持っているな。少し前に愛車が大破したから新しいのを買い換えたところだ」
「大破!?何やら不穏なんですけど…事故とか?」
「まぁそんなところだな」

しれっと答えているけど、ちょっとした故障とかじゃなくて大破って相当大変だったのでは。呆気に取られる私を見て、諸星さんは小さく笑った。
運動神経も良くて運転免許も所持。…まぁ、鍛えられた体をしているから運動が苦手なんてことはまずありえないとは思ったけど、筋肉にも観賞用とかあるらしいからもしかしたらと思ったのである。実際違ったわけだけど…まぁ、そうだよなぁ。
頭の回転も早いし絶対頭脳明晰だし、それにこの完璧なルックスとしっかり鍛えられた体。欠点を探す難易度の高さと言ったら。

「…恐れ入りました」

いろいろ聞けて諸星さんの人物像が少しずつ固まってきたけど、固まれば固まるほど完璧でしかないスペックに恐怖すら感じる。
現実にこんな人、いるんだな…。信じられないという気持ちとは裏腹に納得してしまうのだからどうしようもない。


マンションに戻ってきて部屋に入ると、諸星さんは早速カレー作りに取り掛かった。
何か手伝おうかと諸星さんについていけば、それじゃあ野菜を切って欲しいと言われたのでほとんど使ったことのないまな板を久しぶりに取り出す。料理はしないけど調理器具は一通り揃っていてよかった。人参とじゃがいもの皮をピーラーで剥いて、よし切るかとまな板に並べて包丁を手にし、そのままじっと動きを止める。牛肉に下味を付けていた諸星さんも、動きを止めた私に気づいて不思議そうな視線を寄越す。

「どうした?」
「…イエ…なんでも…」

なんというかこう、緊張するな。諸星さんの視線を気にしないように軽く頭を振り、人参に包丁を入れようとして、諸星さんが「待て」と声を上げた。

「ストップ、待て、動くな」
「えっえっ、えっと、」
「OK、君は包丁を握るのに慣れていないな?俺と変わろう。米を炊いてくれるか」

どうやって切ろうかと考えていた迷いが出てしまっていたらしい。諸星さんはさらりと私の手から包丁を抜き取ると、自分と場所を入れ替える。正直ドキドキしていたので変わってもらえてほっとしたのだけど、今のはどう考えても情けなくて恥ずかしい場面だったかもしれない。
すごすごと引き下がってお米を水でといで炊飯器にセットすれば、諸星さんは丁寧な手つきで人参とじゃがいもを切っていた。…諸星さんって、左利きなんだ。

ブー、とポケットの中の携帯が振動する。これは自分のスマホじゃない。仕事用で使っている携帯の方だ。万が一のことを考えて持ち歩いていたけど、昨日ぽっきりと折れてから今まで見る気にもなれなかった。取り出してみると、通知ランプが点灯している。
確認すると数件のメール。どれも、自分の代わりに仕事をやってくれないかという内容だった。仕事が終わらなくて困っているが、当の本人は用事で行けないから私に休日出勤をお願いしたいらしい。
今までの私なら二つ返事で了承していた。でも、今はとてもそんな気分にはなれないし…諸星さんがいるのに外出するわけにはいかない。諸星さんにも指摘されたことだ。それを違えたくはない。
辞めようと思っている会社の為に、自分を削りたくはない。
メール一通一通に丁寧に断りの返事をしていく。今までになかったことだから、皆驚くだろうな。このまま月曜日にでも辞表を提出しようと考える。辞表を提出して、どれくらいで辞められるだろうか。そのことだけが気掛かりかもしれない。ずるずる引き伸ばしにはなりたくない。

月の残業時間はどれくらいだっただろう。三桁はいってなかったと思うが、あまりその辺りを確認はしていなかった。休日出勤や早出を入れると多分三桁いくだろう。
今の会社を選んで、今の生活を選んだのは私自身だ。それに後悔や不満はなかったし、上手くやれているとさえ思っていた。
きっと世界にはもっときつい状況下で働く人もいるんだろう。でも、私にはこの生活を続けられない。きっかけは上司のたった一言。笑ってしまうくらいちっぽけな一言。
でも、それが私のトドメになったのだ。

「佐山さん?」

仕事用の携帯を見つめたままぼうっとしていたらしい。諸星さんの声と、すっかり切り終わった食材を前にしてはっとした。

「ご、ごめんなさい、ぼーっとしちゃって…!何もお手伝い出来ていないし…!」
「いや?そんなことはない。これから君には重大な任務があるからな」
「重大な任務」

慌てて謝ったが、諸星さんは何も気にした様子もなく食材を鍋で炒め始める。炒め終わったら水を加えて煮込み、そこにルーを投入する。カレーのいい匂いが立ち上ってそれを嗅いだ瞬間、お腹がぐうと音を立てた。なんでこうタイミングよく私のお腹は主張するのだろうか。恥ずかしさに顔を覆えば、諸星さんが小さく笑った気配がした。

「ほら。君の重大な任務だ」

言われて諸星さんを見れば、フォークで刺した一口大のじゃがいもを差し出される。カレーのルーに包まれたじゃがいもは湯気を立てていて控えめに言っても美味しそうである。…味見しろってこと?
諸星さんからフォークを受け取り、ふうふうと息で冷ましてから口へと運ぶ。熱いけどホクホクのじゃがいもとルーが絡んでたまらない。美味しい。

「おいひい、れふ」
「よし。それじゃあ米が炊けたら夕食にしようか。俺の腹の虫が鳴き出すのも、時間の問題なんでな」

それまで少し休憩しよう。そう言いながらリビングの方に向かう諸星さんの背中を追った。


***


諸星さんの作ってくれたカレーライスは家庭の味って感じだったけどとっても美味しかった。昔おばあちゃんが作ってくれたカレーの味を思い出して少し懐かしくなったのだけど、それは恥ずかしいから諸星さんには話していない。カレーをぺろりと完食した後は、私がコーヒーを淹れてそれを飲みながら休憩し、その後交代でお風呂に入った。諸星さんは遠慮していたけど無理矢理一番風呂を使ってもらった。諸星さんの後に私もゆっくりと湯船に浸かり、しっかりと体を温めてからリビングに戻る。
ドライヤーを置いておいたんだけど諸星さんは使わなかったみたいで、水を吸った髪は緩くウェーブしている。

「おかえり」
「…ただいまです」

少し気恥ずかしくなりながらも、タオルで髪を拭きつつローテーブル前に腰を下ろす。
諸星さんのパジャマは、今日買ったばかりの新品。さすがにサイズの違いすぎる元彼のジャージを何度も着てもらうのは心苦しい。きっときつくて昨晩は眠りにくかったに違いない。申し訳ないことをしてしまったなと反省。まぁ、他にどうすることも出来なかったんだけど。
私が腰を下ろして落ち着いたタイミングで、諸星さんは少し姿勢を正して座り直した。
それから、真剣な表情で真っ直ぐに私を見つめる。

「佐山さん」
「はい」
「まずは最初に謝罪しよう。俺は君にひとつ嘘を吐いていた」
「…嘘?」
「ああ。昨晩から君と一緒に過ごし、君には誠意を持って対応すべきと判断した。結果として騙していたことを謝らせて欲しい。すまなかった」

何の話だと目を瞬かせていたら、諸星さんは私の目を真っ直ぐ見つめたまま謝罪を口にする。謝られる覚えなんて当然あるはずもなくて、私は慌てて首を横に振る。

「その、ごめんなさい。私諸星さんがどうして謝るのかとか全然わからなくて…」
「ひとつずつ説明するよ。まずは…そうだな。自己紹介からしようか」

そう言いながら、諸星さんはおもむろに黒い手帳を取り出した。手のひら大のその手帳は、パスケースよりほんの少し大きいくらいのサイズだ。二つ折りのその手帳を開き、諸星さんはそれを私に見せた。
そこに記載されていたアルファベット三文字に、思考が停止する。

「諸星大というのは偽名でな。俺の名前は赤井秀一という。アメリカ連邦捜査局…FBIの人間だ」

あめりかれんぽう、そうさきょく。
開いた口が塞がらないとはこのことか。諸星さん…いや、彼の言葉を信じるのなら、赤井さん。赤井さんの口にした情報量はほんのちょっとだけど、そのちょっとの情報のサイズが大きすぎた。脳内はショートしかけている。FBIって、洋画ドラマなんかで耳にする機会も多い、あのFBI?運動神経が悪かったら続けられないお仕事って、これのことだったのか。

「訳あって本来なら今俺の身分は秘匿されなければならないのだが、君には明かしても良いだろうという結論に至った。それは君が信頼に足る人物だということはもちろんだが、それよりももっと大きな理由がある。俺が君にこれから話そうとしていることは、恐らく到底信じられるようなことではない。俺の頭がおかしいんじゃないかとか、嘘を吐いているんじゃないかとか、そう思われても仕方の無い内容だ」

赤井さんの声は少し硬く、どこか少し緊張しているようにも聞こえた。

「だが、俺の中で答えが出たらきちんと君に話す。そう決めていたし、そう言ったからな。だから聞いて欲しいと思っている」
「…は、い…」
「君に頼みたいことも出来た。だがそれも断られて当然だとも思っている。つまりだ、俺が言いたいのは、俺の話の内容がどうあれ、君には君の選択をして欲しいということ。きちんと自分の意思に従ってくれ」
「…えっと、だから…赤井、さん…のお願いを聞けないと思ったら、その時ははっきり断って欲しいということですか?」
「理解が早くて助かるよ。…自分がどうしたいか、君には君の意思がある。それを、ちゃんと選んでくれ」

なんだか、全てを見抜かれているような気分だった。
社会人になり働いてきたこの数年間、私にはきっと自分の意思などなかった。あったかもしれない意思を、見ないようにしてきたのだと思う。
周りの言葉に流されて、ふらふら漂うだけ。確固とした自分なんてものは見失って、忘れてしまっていた。

赤井さんの話がどんな内容かは聞いてみないとわからない。けれど、私は。
誠意を持って対応すべきと言ってくれた赤井さんに対して、私だって誠実でありたいと思う。

「どういうお話かは聞いてみないとわかりませんが…赤井さんには正直でありたいです。だから、聞かせてください」
「…本当に、君は変わっているな。俺が心配になるほど優しいというべきか」

赤井さんは少し硬かった表情を和らげた。少しだけ困ったように笑って、俯いて息を吐く。
それから改めて顔を上げると、こう言い放った。

「正直、最初は俺も自分の頭を疑った。だが実際に俺の手元に残ったもの、ここで調べさせてもらったこと、あらゆる可能性と事実を目にして信じざるを得なくなった。…俺はアメリカ国籍だが、イギリスと日本のハーフでな。生まれはイギリスだが日本で生活していた時期もある。最近はずっと日本で生活していた。だがここは…俺と、俺の知る日本を繋ぐ関係性があまりに薄すぎる」
「……それは…どういう、」
「When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.」

突然の流暢な英語にひゅっと息を飲む。赤井さんはそんな私を見て笑った。

「数少ない繋がりのひとつだ。佐山さん、君はシャーロック・ホームズは知っているかな」
「えっと、あの、はい。…コナン・ドイルの小説ですよね」
「その通り。不可能な物を除外していって残った物が、たとえどんなに信じられないものだったとしても真実である。そういう意味の言葉だ」

不可能なもの。除外。そして、真実。

「俺は恐らく、この世界の人間じゃない」