目が覚めた。
がば、と体を起こすと、自分がふかふかのベッドに寝かされていたことに気づく。零さんの家のベッドじゃない。というか、零さんの家ですらない。
床がある。壁がある。でも窓はなくて、ドアもない。天井も壁も床も真っ白。部屋の中には私の寝ていたベッドと…テーブルと椅子のセット。それから赤く大きなソファーがひとつ。ここからだとソファーの背面しか見えないけど、安物ではなさそうだ。
というか、なに、この部屋。出入口がない場所。
私はどうやってここに来たと言うんだろう?
私そもそも何をしていたっけ、と考えて、昨晩はいつものように零さんと寝たのを思い出す。…あれ、それにしては私、寝巻きじゃなくて私服姿だ。どうして。

「目が覚めたか」

悲鳴を上げなかったのを褒めて欲しい。ソファーの方から突然声がして、無言のまま私は縮み上がった。自分一人だけだと思っていた空間で他人の声がしたのだから、驚くのも当然だと思う。しかも男性の声だ。ビビらないわけがない。
けれど、私はその声に聞き覚えがあった。よく知っている…と言うほど知っている訳では無いけど、全く知らない人の声じゃないだけで今の私には充分な安心要素になる。
じっとソファーの方を見つめていたら、黒い影がのっそりと体を起こした。ソファーに横になっていたらしい。
黒のライダースジャケットにネイビーのワイシャツ、チャコールグレーのスラックス。癖のある黒髪を掻き上げながらこちらに視線を向けたのは。

「……赤井、さん?」
「やぁ、ミナさん」

赤井秀一さん。FBIの捜査官である。
えぇと、なんだっけ。零さんと大きな案件を一緒に追っていたとかで…詳しいことはわからないけど、所属は違えど今は一時的に零さんと一緒にお仕事をする仲だとか。私も実際に会ったのは、東都水族館の一件の時だけだ。相当お久しぶりになるはずだけど、何故だか久しぶりに会った気がしない。…というか、二度目にお会いしたという感じがしない。

「…こ、こんにちは。お久しぶりです」
「あぁ」

一応ご挨拶をと思って頭を下げると、赤井さんは軽く体を伸ばしてソファーから立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。その手にはニット帽が握られている。…ソファーで寝ていたみたいだから、脱いでいたんだろうな。東都水族館の時は周りも暗かったしあまりよく見えなくて、整った顔立ちの人だなとしかわからなかったんだけど…改めて明るい場所で見ると、想像以上にハンサムな人だ。
目の色はグリーン。きゅっとつり上がった鋭い目と形の良い眉。鼻筋は真っ直ぐ通っていて、目の下のクマが不思議とセクシーな雰囲気を醸し出している。…アンニュイ、と言うのだろうか。零さんとはまた違ったタイプの美丈夫。
というか、足、長。股下、長。外国の人みたい。目が緑色だし、きっとハーフなんだろうとは思うけど。
赤井さんはテーブルセットの椅子を掴むと、ベッドの傍に置いてそこに腰を下ろした。変わらずベッドの上にいた私は、必然的に赤井さんと顔を合わせる形になる。
え、なんだろうこの状況。

「要領を得ないというような顔をしているが」
「おっしゃる通りです」
「君はここに来る前何をしていたか覚えているかな」

ここに来る前。というかそもそも、私はここに自分の意思で来た訳では無い。知らない場所だし、出口はないし。しかし一人じゃないというのと赤井さんが一緒だという安心感から、焦りは全くなかった。

「いえ…昨晩は普通に寝たはずなんですが」
「なるほど、奇遇だな。俺もだ」
「あの、ここはどこなんでしょう?出入口も…無いみたいですし」
「そのことなんだが」

赤井さんはそこで一度言葉を切ると、胸ポケットから何やら折り畳まれた一枚の紙を取り出した。そしてそれを広げて私に差し出してくる。
そこに書かれていた内容を目で追い、私はぴしりと固まった。

「赤井さん」
「俺にもわからん」
「私まだ何も言ってないです」

私は大きな文字で「キスしないと出られない部屋」と書いてある紙に再度視線を落とし、沈黙した。何を言えというのか。今すぐ考えることをやめたい。脳は既に思考を停止し始めている。

「君が寝ている間に部屋は一通り調べた。見た通り出入口はない。どこかに隠し扉でもと思ったが、それもないようだ。ここにあるのはテーブルと椅子、ベッド、それからソファーだけ。君、持ち物は?」

問われ、私は服のポケットを漁る。残念ながら何も入っていない。カバンも持っていないし、私の所持品は情けないことにゼロである。

「…何も無いです、すみません…」
「謝ることは無い。俺の持ち物も役立ちそうなものはほとんど無いからな」

そう言いながら赤井さんが取り出したのは、ライター、マッチ、タバコ、スマートフォン。それから拳銃。

「…拳銃?!」
「職業柄だ。気にするな」

そうだ、この人FBIのすごい人なのだった。日本のお巡りさんだって拳銃を携帯しているのだから、FBIの方が所持していないわけないよなぁ。赤井さんは私に拳銃を触らせる気はないらしく、ちらりと見せたらすぐに懐に戻してしまった。それはそうか。

「でも、スマホがあるなら外と連絡を取れるんじゃ」
「生憎と圏外だ。君のボーイフレンドに、君へのキスの許可を取ろうにも取れなくてな。まぁ、連絡が取れたところで許してくれるとは思わんが」
「んっっっ」

思わず言葉に詰まる。
…そうか、赤井さんは私と零さんがお付き合いをしているということも知っているのか。…そりゃそうか、東都水族館の時から、きっとこの人は私が零さんに向ける好意にも気付いていただろうし…。
そこまで考えて、首を傾げる。
そういえば、私は東都水族館の事件の時に初めて赤井さんに会ったのだ。にも関わらず彼は私のことを知っていて、私と零さんの関係についてもある程度知っているふうだった。
でも、一体どうして。

「何か聞きたそうな顔だな?」

私がまじまじと赤井さんの顔を見つめていれば、彼はほんの少し苦笑して肩を竦めた。それからタバコを手に取り、「吸っても?」と問いかけてくる。どうぞ、と促せば赤井さんはタバコをくわえて火を付けた。…そんな仕草ひとつでも、大人の男性の色気…とでも言うのだろうか、とてもセクシーである。
タバコを持つのは左手。…赤井さん、左利きなんだ。

「…私、記憶が間違っていなければ、赤井さんとお会いするのは二度目だと思うのですが」
「そうだな。その記憶で間違いない」
「私は赤井さんのことをほとんど知りませんけど、赤井さんは私のことを知っているようなので、どうしてかなと思いまして」
「さぁ、どうしてだろうな」

はぐらかされていることくらいはわかる。赤井さんはほんの少しだけ口角を上げて、その美しいグリーンの瞳をこちらに向けた。

「…あの、赤井さんのフルネームを教えて貰ったのって、沖矢昴さんという方なんですが。…彼とは、どんな関係なんですか?ご友人?ご親戚とか」

そういえば、沖矢さんと赤井さんはどことなく雰囲気が似ているような気がする。赤井さんに初めて会った時にどうしてだか初対面のような気がしなかったのは、沖矢さんの存在があったからかなと今になって思う。
沖矢さんも赤井さんのことを知ったいたし、無関係というわけじゃなさそうだけど。

「ホォー」
「…な、なんでしょう」
「知りたいか?」
「えっ、」
「俺と、沖矢昴の関係だ」

そりゃ、気になるに決まっている。私は赤井さんのことはほとんど知らないのだ。私が小さくこくりと頷くと、赤井さんはニヤリと笑ってその長い足を組んだ。そうしてタバコを持っていない右手で頬杖をつき、私の顔をじいと覗き込む。

「本当に?」
「…え、」
「本当に、知りたいのか?」
「……えっと、」
「生半可な気持ちで聞くものじゃないが、君はそれでも知りたいと」
「…え、…えぇっと…」
「良いんだな?知ったら後戻りは出来ない」
「…あ、あの、」
「俺と沖矢昴は、」
「やっぱりいいです!!」

何となく知ったらいけないような気がして慌てて遮った。知らないフリは得意である。でも知らなくていいことなら、知る必要は無いことを私はよく知っている。
私がふるふると頭を振ると、何故か赤井さんはクスクスと笑って肩を竦めた。

「そうか。残念だ」
「なにが…?」

赤井さんは、とってもスタイルが良くてとってもかっこよくて…だけど、少し不思議な人だ。赤井さんはポケットから取り出した携帯灰皿にタバコを入れると、さて、と肩を竦めた。

「状況を整理しよう。俺も、君も、目が覚めたらここにいた。出入口はおろか窓すらない。今のところここから脱出する手がかりは…その、紙にある一文だけだ」

赤井さんが指差すのは、私の手にある白い紙。「キスしないと出られない部屋」と書かれた紙である。

「…もしかしなくてもこれ、夢ですかね」
「何故そう思う?」
「だって、こんな、有り得ない状況だなって思って…」

何しろ、シャーロック・ホームズもびっくりな密室だ。密室も密室、だって出入口がないんだもの。出入口がないなら私達はどうやってここに連れてこられたのか。普通に考えれば、私と赤井さんをここに連れてきてから壁や天井を作って密室にした。…もちろんどう考えても現実的じゃない。

「壁をなんとか壊すこととか、出来ないんでしょうか」
「念の為調べて見たが、簡単に壊せるような壁厚ではなさそうだぞ」

赤井さんはやれやれと肩を竦めると立ち上がり、先程はちらりと見せただけだった拳銃を抜いて左手に持ち、壁に向けて構えた。

「無駄だとは思うが、試してみるか?」
「えぇと、…お願いします」
「了解」

短く答えた赤井さんが、一発、二発、三発と壁に向かって銃弾を撃ち込む。ぱん、ぱん、と軽い音が響く中、私は撃ち抜かれる壁をじっと見つめていた。…見つめていたのだが。

「…えっ?」

思わず声を上げて、私はベッドから立ち上がると壁に駆け寄った。…ない。傷一つない。それどころか銃弾さえない。まるで白い壁に吸い込まれて消えてしまったかのような。
壁に触れれば硬い感触がするのに、未知のものに触れているような心許ない気分になる。やっぱりこれ、夢だ。

「赤井さん、やっぱりこれって夢、」

振り返ろうとして、壁の方を向いている私の両側から黒い腕が伸びた。とん、と軽い音がして、私はそのままぴしりと固まる。ふわりと香るのは、先程赤井さんが吸っていたタバコの匂い。
私の真後ろに立った赤井さんが、両手を壁について…その、私を閉じ込めている…というこの状況は、これは、もしかしなくても…壁ドン、ってやつではなかろうか。

「出来ることは全てやった。これで、俺達に残された脱出の手がかりは…キスだけ、ということになるな」

壁の方を向いたまま、ひぇ、と悲鳴が零れた。
当然ながら赤井さんがいる為逃げることも出来ない。いや。赤井さんが悪い人じゃないことはわかる。それはFBIの方だからとかそんな理由じゃなくて、零さんが彼のことを信頼しているからだ。
零さんと赤井さんは仲が悪い。協力関係にあるという今、彼らの関係が良くなったのか悪くなったのかそこは私の与り知るところではないが、間違っても仲良しというわけではない。けれどそれ故に、零さんが赤井さんのことを信頼しているのはなんたなくわかるのだ。東都水族館の一件の時にも感じたし、零さんが赤井さんのことを話す時とか、憎いなりに信頼しているというか…まぁ本当になんとなくなんだけど。
そして私自身、赤井さんは悪い人ではないと感じている。だから赤井さんは、私が本当に嫌がることはしないと思っている。

「えっ、まさかするんですか、その、キ、キス」
「それしか方法がないならな」
「いやでもこれ夢ですし」
「なら尚更好都合だ。夢ならカウントの内に入らんだろう」
「夢でもやっていいことと悪いことがあると思うんです私」

いくら知ってる人とは言え。いくら夢の中とは言え。私は零さん以外の人とキスをするのは御免なのである。というかこれ、私の夢なんだったらどうか私の思い通りになって欲しい。今すぐ出口が出現して欲しい。けれども悲しいかな、部屋には何の変化もない。なんて夢だ。
どうしたものかと壁を向いたまま体を強ばらせていたら、赤井さんに両肩を掴まれてそのままぐいっと振り向かされる。思っていたよりも近くにハンサムなお顔があって心臓が縮み上がった。勘弁して欲しい。

「俺も降谷くんに殺されたくはないからな。このことは、二人の秘密で頼む」
「いえっあのっ、私は了承した覚えは…!」
「キスをする時は、」

じ、と深いグリーンの瞳に見つめられて、動けなくなる。
吸い込まれそうな光を湛えた瞳。その色の深さは、どことなく零さんと似ているなと思う。優しくて強い、美しい光。

「目は、閉じるものだ」

低い声で囁かれて動けなくなる。
赤井さんのことはもちろん嫌いじゃない。むしろ好感を抱いているというか、仲良くしたいと思う。それは事実だ。けれどそれとこれとはまるで別というか、やっぱり。

「や、やっぱり無理です…ッ!」
「そんなことが罷り通ると思っているのか赤井秀一!!!」

どこからともなく零さんの声がして赤井さんと二人で動きを止める。
瞬間、世界が反転した。


***


どさ、という音と衝撃で目が覚めた。
はっと瞼を上げて目に入ってきたのは、中途半端に天井に向かって投げ出された私の足と、零さんの足。布団が私と零さんの体に絡まって、なんだか変なことになっている。
私の体は零さんが抱き締めてくれていて、私も零さんも目を覚ましていたけど、一体何が起こったのかと二人して状況を把握するのに少し時間を要してしまった。

「……嘘だろ」
「…」

零さんの呻くような声に私はゆっくりと目を瞬かせる。
つまりは、私と零さんはベッドから落ちたのである。二人一緒に、なんだかすごい格好で。

「…ごめん、ミナさん。大丈夫?」
「…大丈夫、です。多分」

零さんが先に動き出し、ゆっくりと体を起こしてから私にも手を貸してくれる。彼の手を借りながら起き上がり、よくわからないまま床にぺたりと座り込む。
零さんと一緒に暮らすようになって、零さんと一緒にベッドで眠るようになってそこそこの時間が経つけれど。こんな風に一緒にベッドから転がり落ちるなんて初めての経験で、正直何が起こったのかいまいちピンと来ない。
未だ呆然としている私を見て、零さんはやや難しい顔をすると…そのまま、私の後頭部を引き寄せた。

「え、っん、」

よくわからないままの起き抜けのキスに目を瞬かせる。優しく啄むようなキスをして、零さんは唇を離した。

「…ど、どうしたんですか」
「……なんだか変な夢を見て。こうしなきゃいけない気がしたんだ」

零さんの言葉に、つい先程まで見ていた夢を思い出す。
赤井さんと変な場所に閉じ込められて、キスしなければ脱出出来ない夢。零さんの声がして目が覚めたけど、あの声がなかったらと思うと冷や汗が出てくる。良かった。夢で本当に良かった。

「…私も変な夢を見ました」
「…お揃いだな」
「…顔、洗いに行きましょうか」
「…そうしようか」

なんだかぼーっとして仕方がない。顔を洗って目を覚まそうというのは、零さんも同意見だったようだ。二人で立ち上がって苦笑する。
ほんと、変な夢だったなぁ。


後日赤井さんとお会いした頃には、私はすっかり夢の話など忘れていたのだけど。
「やぁ、実は先日変な夢を見たんだが」と話し始める赤井さんに夢のことを思い出して青ざめたり、そんな現場に零さんが駆け付けたり、二人が殴り合いの喧嘩を始めたりするのは。
また、別のお話だったりする。