黒の組織、瓦解。インカムマイクから流れてくるその知らせを、私は最終決戦の地となった埠頭で聞いていた。
組織のトップは自殺。ナンバーツーであるラム以下幹部数名捕獲。ベルモットは行方不明とのことだが、ジンを生きたまま捕らえられたのは大きいと思う。組織の全体から考えれば残党の処理もまだまだこれからといったところだが、核となる人物がいなくなった今組織を立て直すのはほぼ不可能だろう。公安とFBI、CIAの共同戦線。たくさんの人が関わった今日の作戦は、ひとまずこれでおしまいだ。
とても長い戦いだった。上司である降谷さんが組織に潜入してから何年だろう。彼は組織潜入後に幹部までのし上がりコードネームを得て、組織を内側から崩壊させるために常に水面下で動き回っていた。歳は大して変わらないのに、本当に恐ろしくすごい人だ。それと同時に、信頼出来る上司でもあるのだけど。

「ふー…」

倉庫の壁に寄りかかりながらずるずるとその場に腰を下ろす。いやぁ、最終決戦というだけあってすごい戦いだった。私も公安の端くれだけど、こんな銃撃戦の最中に飛び込んだのは人生初めてだ。銃で撃たれるとこんなに痛いんだということを知った。すっかり日も沈んで辺りは真っ暗。見えないから確認できないけど、多分撃たれた太ももの血は止まっていないだろうな。手にしていた拳銃をホルダーに戻してそっと太ももに触れれば、ぬるりとした感触がした。

「痛いなぁ」

多分弾は抜けているけど血が止まらないのはちょっとまずいなぁ。と言っても止血できそうな物なんて持っていないし、じゃあ早いところ病院にと思わないわけじゃないけど、さっきまでガンガンに出ていたアドレナリンも落ち着いてきたのか感じていなかった痛みがじわじわと襲ってくる。これ立って歩けない。気力があればなんとかなるのかもしれないけど今の私は戦い終わってすっかり気が抜けてしまっている。

『佐山、応答しろ!』

インカムマイクから聞こえてきたのは降谷さんの声だ。重たい腕を持ち上げてマイクのスイッチを入れる。

「…こちら佐山。お疲れ様です降谷さん」
『お前、何を呑気な…どこにいる?』

降谷さんは既に公安の皆と合流しているのだろう。インカムから聞こえてくる降谷さんの声に混じって、ざわざわとした喧騒が聞こえてくる。
ここはどの辺りだろうと辺りを見回すけど、組織員と銃撃戦を繰り広げながら埠頭を駆け回っていたから自分がどのあたりにいるのか把握出来ていない。少なくとも物音はしないから、降谷さんがいる所からは離れているようだ。

「申し訳ありません、把握出来ていません」
『なんだって?』
「組織員との混戦になった為入り組んだところに入りました。倉庫と海が見えます」
『お前、それでよく公安が務まるな』
「すみません」

思わず小さく苦笑すれば、降谷さんはそこで一瞬黙り込んだ。それから、少し声を潜めて言う。

『お前、怪我してるのか』

いずれはバレることだから今知られても別に構わないことなんだけど、でも正直今は知られたくなかったなぁ。でもまぁ、自分のいる場所が把握出来ていないということは把握出来る状況にないこととイコールだ。頭の良いこの人が、そこに気付かないわけがなかった。でも嘘を言うわけにもいかないしなぁ。
変に気をかけさせたくなかった。降谷さんは今は私一人に気をかけている場合ではないのだ。作戦が終わったと言ってもこれから皆に指示を出さなければならないし、私一人に割くような時間はない。だというのに私はそんな彼の足を引っ張っている。情けなくて思わず呻き声が零れた。

「あー…致命傷ではないです、多分」
『多分って』

あぁ、今顔をしかめたな。彼の声のトーンからそんなことを想像して思わず小さな笑みが零れた。笑ってる状況じゃないってことは百も承知だが、痛すぎると笑えてくることもあるってことを是非とも知って頂きたい。いや、知らなくてもいいか。こんな痛み知らずに済むならその方がいい。

「…少し休んだら、戻ります。大丈夫です、土手っ腹に穴が空いたとかそういう状態ではないので」
『生憎、お前の大丈夫≠ヘ信用しないようにしているんだ』

いいからもっと詳しい状況を話せ。降谷さんのそんな言葉を聞いていたら、ふとこちらへと近付いてくる足音が耳についた。
残党か。思わず口を閉ざして息を潜めたが、やがて止まった足音にゆっくりと顔を上げて視線を向ける。私が座り込んだ路地を覗き込む長身の体躯は、シルエットだけでも見覚えがあった。

「驚いたな、まだこんなところに残っていたのか」

低く沁みるような声。私からは逆光で彼の表情まで見えないが、声の様子から本当に驚いているのだということが窺えた。
彼は長い足を進めてこちらへと歩み寄ってきて、私のすぐ傍に膝をついた。

「鉄臭いな。怪我をしているのか?」
「あ、赤井捜査官」

赤井秀一。降谷さんと同じく黒の組織に潜入していたFBIで、途中で組織から離脱したとは言えライというコードネームを持っていた程の切れ者スナイパー。彼の狙撃を実際に見たことはないが、降谷さんが背中を預けられると判断するくらいだからどれほどの腕前かは想像に難くない。

『赤井?赤井がそこにいるのか』
「あ、えっと」

突然目の前に現れた赤井捜査官にも、インカムから聞こえてきた降谷さんの声にも驚いて言葉を詰まらせる。そんな私を見た赤井捜査官は私の耳からインカムマイクを抜き取り、慌てる私に構わず自分の耳に装着した。

「やあ、降谷くん」
『赤井!』
「君の部下を見つけたんだが、どうやら怪我をしているようだ。立てない様子だから恐らく足だろう」
『………傷の状態は。それから、どの辺にいるんだ』
「ここは…地点Jの辺りだ。彼女の傷は今確認する、少し待ってくれ。…失礼するよ」

赤井捜査官はそう言うと、胸元からスマートフォンを取り出してライトを付ける。スマホの強めのライトで照らされてわかったが、思っていたよりも出血してしまっていたらしい。ネイビーのスラックスが血によってどす黒く染まっていた。想像以上に痛々しい。

「撃たれたか。弾は?」
「…多分、抜けてます」
「よし」

赤井さんは頷くと、再びインカムへと手を添える。

「降谷くん。彼女の傷は右大腿。出血は多いが弾も抜けているようだ。致命傷ではないが放置出来るような軽傷ではない。医療班の手配を頼めるか」
『貴様に言われなくとも』
「では、このまま彼女は俺が保護してそちらまで連れていく。それでいいかな」
『…くそ。いいか、佐山に変な真似はするなよ。地点Jとなると結構離れているがどれくらいかかる』
「怪我人に手は出さないさ。十五分後には合流出来るだろう」

降谷さんの声は聞こえないから二人がどんな会話をしているのかはわからないけど、インカムでの通信を切ったらしい赤井捜査官はインカムを私の耳へと戻し、片肩にかけていたライフルケースをしっかりと両肩に背負い直した。

「医療班の手配は降谷くんがしてくれるそうだ。君をそこまで連れていく。立てるか?」
「…ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

差し出された赤井捜査官の手を握って足に力を込めるけど、貫くような鋭い痛みに思わず歯を食いしばる。怪我をしていない左足はなんとか動かせそうだけど、右足はどうしたって痛みが勝つ。腰が抜けそうになって、それでもその場に座り込まずにいたのは私の公安としてのプライドだった。
赤井捜査官は恐らく、唯一降谷さんと肩を並べて立つことが出来る人。降谷さんに対してもそうだけど、赤井捜査官に対してもこれ以上情けないところを見せたくはなかった。
足に力を込めたことで、傷口から再び血が流れるのがわかった。それでも、骨はやられていない。

「っ…ぅ、…ッ…」
「大丈夫か」

半ば縋り付くような形になりながら赤井捜査官の腕を借りて時間をかけて立ち上がる。膝から力が抜けそうになって、瞬間赤井捜査官の腕が私の胴をしっかり支えてくれた。自分の血の匂いに混ざって、彼の硝煙と煙草の匂いがする。

「寄りかかってくれて構わない、無理はするな」
「……平気、です」

平気じゃないことは誰よりも私が一番よくわかってるけど、それでも虚勢を張らずにはいられなかった。プライドなんて言い方をしたところで、私はただ意地を張ってるに過ぎない。けどこの意地を捨ててしまったら、なんだかぽっきり折れてしまいそうな気がした。
痛みから体が震える。強く唇を噛み締めながら自分の足で地面を踏み締めて顔を上げたところで、貧血でくるりと視界が回った。

「うぁ、」
「おっと」

前のめりに倒れそうになった体を、赤井捜査官の腕がしっかりと支えてくれる。彼の腕を掴みながら、私はもうほとんど自分で立つことさえ出来ていない。情けなさに細い溜息が零れた。

「誰かに頼ることもまた勇気だ。俺に君の尊厳を傷付けるつもりはない。俺に任せてくれるかな」

まるで子供に言い聞かせるような言い方に視線を上げる。このままここで私が意地を張り続けても、降谷さんどころか赤井捜査官の足まで引っ張ってしまう。誰かに頼ることもまた勇気。その言葉に促されるように体から力を抜けば、赤井捜査官は小さく笑って私の体を横抱きにした。揺れたことで傷に痛みが走ったが、せめて泣き言は言うまい。

「…ご迷惑を」
「迷惑と思っていたらわざわざ君に声などかけんよ」

赤井捜査官は私を抱き上げたままのんびりとした足取りで歩き始めた。鼻先を掠めるのは硝煙と煙草、そしてほんの少しの汗の匂い。この人だって私と同じで先程まで作戦の最中駆け回っていたというのに、重たいライフルケースを背負ったまま私を抱き上げるなんてどういう体の作りをしているのだろう。

「…重くないですか」

この場にそぐわない話題だなとは思ったけど、どうしても気になってしまった。弛緩した人間の体は重い。死にかけの仲間に肩を貸したりしていたからよく知っている。恐る恐る視線を上げれば、赤井捜査官は目を瞬かせた後にくすりと笑った。

「重いな」
「失礼じゃないですか!?」
「はは、それだけの元気があるなら大丈夫そうだな」

毎日トレーニングしてるし筋肉量もあるから別に軽いとは思わないけど、でもはっきり重いと言われるとちょっとむっとする。いや、彼に運んでもらっておいて言えたことじゃないのはわかっているけども。唇を尖らせて彼を少し睨めば、そんな視線に気付いた赤井捜査官は柔らかく目を細めた。

「重いとも。俺の腕にかかるこの重さは、君の命の重みだ」

命。思っていたのと違う話の流れに目を瞬かせる。

「君の命を軽んずる気はない。君と俺で持ち場は離れていたが、スコープから見える君は全力で戦っていた。美しいと思ったよ」
「は、」
「さすが、降谷くんが認めた女だな」

ちゅ、という小さな音とともに私の額に彼の唇が触れた。
ぽかん、と口を開けて赤井捜査官を見上げる。その表情は凪いでいて、穏やかな笑みが浮かんでいた。


***


私はかつて、上司である降谷さんと恋人関係にあった。かつて。つまり、過去の話である。
私が彼の下に配属された時には、既に彼は黒の組織の一員として暗躍していた。風見さんと一緒に降谷さんのサポートをするようになり、有難くも彼から頼られるようになり、時々一緒に食事に行ったりして、付き合うようになったのは自然な流れだったような気がする。降谷さんは私のことを大切にしてくれたし、私も降谷さんのことを大切に思っていた。彼が安室透として米花町に身を置くようになる少し前にその関係は解消されたが、それも別に喧嘩別れだとか振った振られたということでもない。
お互いにお互いを思う気持ちは本当だった。それが、恋じゃなかっただけで。
降谷さんは私を恋人としてというよりも妹のような存在として見ている部分が大きいようだったし、私も彼を兄や父のように尊敬する部分が大きかった。歳もさほど離れていないから、父なんて言ったら怒られるだろうし本人に言ったことはないけど。
だから恋人関係を解消した今でも私と降谷さんの関係は良好だ。むしろ恋人だった時よりもお互いに信頼し合えているような気さえする。

「やぁ、ミナくん。今晩一緒に食事でもどうかな」
「お断りします。持ち場へ戻れFBI」

赤井さんの言葉に否を唱えたのは私ではない。私の傍にいた降谷さんだ。
黒の組織を壊滅させた後、私達に待っていたのは想像を遥かに超える量の後処理だった。死亡も逮捕も確認出来ない組織の人間がまだ何人も残っている。報告書もまだまだ山積み。それらを処理し終えるまで、この案件を完全にクローズすることは出来ない。そんな訳でFBIの方々も何人かは日本に残っているのだけど、赤井さんもそのうちの一人だった。まぁ、組織に深く関わってた人物の一人だから当然と言えば当然なんだけど。
休憩室で午後の会議資料の話を降谷さんとしていたら、丁度喫煙室から出てきた赤井さんに声をかけられた。降谷さんの冷たい言葉に怯んだ様子も見せず、赤井さんは軽く肩を竦めてみせる。

「俺はミナくんに聞いたんだがな」
「ご安心ください、今晩佐山は僕と食事をする予定ですので。お引き取りください赤井捜査官」
「ならば明日はどうだ。気になる店があるんだ」
「今日はおろか明日も明後日も貴様の為に割く時間はない」
「降谷くん、少しはミナくんと話をさせてくれないか」
「必要ない。それよりもいつからミナくんなんて馴れ馴れしく呼ぶようになった?」

口を挟む隙さえない。
降谷さんが庇うように私の前に立ち、彼の背中からひょっこり顔を覗かせればそんな私に気付いた赤井さんがひらひらと手を振ってくれた。さすがに手を振り返すのも気まずくて会釈に留めることにする。

赤井さんは、組織壊滅作戦のあの日から私に対する態度を変えた。それ以前から私のことを気にかけてくれていたのは感じていたけど、それよりももっと距離が近づいたというのだろうか。軽く声をかけてくれることが増えて、今みたいに食事に誘われることも増えた。実際何度かは食事もご一緒させていただいているのだが、降谷さんがいる時にお誘いを頂いても私ではなく降谷さんが断ってしまう。今晩だって別に降谷さんと食事に行く予定はないのにな。プライベートな連絡先も交換しているしそっちで連絡をくれればいいのに。降谷さんが一緒にいると断られることを理解しているだろうに、赤井さんは度々こうして声をかけてくる。降谷さんとのやり取りをちょっと楽しんでいるのかもしれない。楽しそうだし。私自身、この二人のやり取りを見るのは実は嫌いではないのだ。

赤井さんはとても優しい。最初に一緒に食事に行った時は何を話せばいいのかと思っていたけど、彼は意外と話し上手でおしゃべり好き。緊張して上手く話せなかった私にいろんな話を聞かせてくれて、気付けば私も自分から彼に話題を振り、自然な会話のキャッチボールが出来るようになっていた。
FBIが誇る超一流スナイパーで、頭脳明晰かつ見目も良い。彼を狙う女性は多いのだけど、彼は私を誘ってくれるのである。当然ながら嬉しくないわけが無い。組織壊滅のあの日、額に落とされたキスの意味を私は今も探しているのだ。アメリカ生活の長い彼にとっては戯れのキスだったのかもしれないけど、額とは言えキスをされて彼を意識しないわけがない。元々赤井さんに対して抱いていた尊敬の念が、恋心へと変わるのはすぐだった。

「降谷くんはミナくんと恋人というわけではないんだろう?」
「だからといって下心が透けて見えるお前をこいつに近付かせるわけにはいかない」

まだ続いている二人のやり取りをよく飽きないなぁと思いながら見つめていたら、休憩室の入口から風見さんが顔を覗かせた。
風見さんは取り込み中の二人に一瞬たじろいだようだったけど、どうやら急用だったらしい。

「降谷さん、例の件でお電話が入っていますが…」
「…すぐ行く」

小さな舌打ちを落としながらもそう答えた降谷さんは、赤井さんを一度強く睨みつけると風見さんと一緒に休憩室を出ていった。が、出ていったと思ったらすぐに戻ってきて赤井さんを指差し、こう言い放った。

「俺の目の黒いうちは佐山に手は出させないからなFBI!」

靴音を響かせながら去っていくのを赤井さんと一緒に見送る。
目の黒いうちって。やっぱり降谷さんって、心配性のお父さんみたいなところがあるんだよなぁなんて思って小さく吹き出した。そんな私を見て、赤井さんは苦笑を浮かべながら歩み寄ってくる。

「笑い事じゃないぞ。あの様子じゃ、あと百年は生きそうだ」
「ふふ、降谷さんには長生きして欲しいので私としては嬉しいです」

するりと頬を撫でられて、顔を上げさせられる。笑うのをやめて彼を見上げれば、その唇が私の額に降ってくるところだった。
温もりが触れる。彼のシャツからは煙草の香りがして、でもいつしかこの匂いが私は好きになっていた。
じわりと頬が熱くなって、私の顔を覗き込んだ赤井さんが小さく笑う。

「なら俺も、彼に負けないように長生きしないといけないな。だが、残念ながら長期戦にするつもりはないんだ」

細められた翡翠の目に射止められる。小さく息を飲むと、赤井さんは囁くように言った。

「帰国までに、君を落としてみせる。覚悟しておいてくれ」

ぽん、と私の頭を撫でた赤井さんは、そのまま休憩室を出ていった。閉じられる休憩室のドアを見つめ、私はそのまま近くの椅子へとすとんと腰を下ろす。
落としてみせる、だなんて。もうとっくに私は、あなたに落ちてしまっているというのに。そんなこと、赤井さんだってとうに理解しているはずなのに。
じんわりと熱くなっていた頬は、いつしか強い熱を持っていた。あぁ、きっと真っ赤になってしまっている。恥ずかしい。恥ずかしいけど、胸を焦がす気持ちは歓喜。降谷さんに突っ込まれないように熱を冷ましてから戻らないと。
冷まし方なんて、わからないけれど。