「こんにちは、ミナちゃん。注文していた本、入っているかしら?」
「こんにちは!昨日の夕方入荷しましたよ」

そのおばあさんは、私嶺書房で働き始める前からの常連さんだった。
日本人離れした顔立ちと落ち着いたグレイヘア。そのグレイヘアと同じ瞳の色。日本語があまりにお上手だからわからなかったけど、聞いてみたらロシアの方らしい。綺麗なおばあさんだなぁと思っていたが、きっと若い頃はそれこそ絶世の美女というやつだったのではないだろうか。
おばあさんはお店に来る度に私と数十分話をしてのんびりと帰っていく。買っていくものは様々だったけど、最近では海外から取り寄せた絵本を多く購入されていると思う。海外の絵本は日本のものとは色使いや絵の雰囲気も違うし、日本のものよりも鮮やかな気がする。おばあさんが取り寄せる絵本を見る度、額縁に入れて飾りたくなるなぁなんて思った。
絵本は恐らく、お孫さんに読んであげるんだろう。いつもは一人でお店にやってくるおばあさんが、小さな女の子を連れて来店した日に、なるほどなと思った。

「ほらアンナ、ご挨拶しなさい」
「こんにちわぁ」
「ふふ、こんにちは。挨拶出来て偉いね、何歳?」
「さんさい!」

おばあさんと同じグレーの瞳に薄茶色でさらさらな髪。おばあさんがロシア人ということは、アンナちゃんはクォーターということになるのだろう。間違いなく将来は美人さんである。
おばあさんはアンナちゃんと一緒に何度もお店を訪れた。そのうちに私は必然的にアンナちゃんと仲良くなり、おばあさんに読んでもらった絵本の内容を聞かせてもらったりした。三歳ながらに絵本の内容を説明するのが上手くて、私自身ふむふむと聞き入ってしまったくらいだ。利発な子である。
アンナちゃんはいつだってにこにこしていて、そんな彼女を見るおばあさんもにこにこしていて、私はそんな二人を見て胸が暖かくなった。こないだ買った絵本はどんな内容だったんだろうとか、次はどんな本を買うんだろうとか、そんなことを考えては二人が来店するのを楽しみにするようになっていた。

終わりは、突然訪れた。
それは、冷たい雨の降りしきる日の夕方だった。
そろそろ閉店の準備をしなければと思っていた時のことだ。からん、とドアのベルが鳴って、こんな時間に来客なんて珍しいなと顔を上げ、そうして私は目を見開いた。
アンナちゃんが、ずぶ濡れになった姿でそこに立っていた。真っ黒なワンピースを着ているが、水を吸ったワンピースは本来の色を失って台無しになってしまっている。綺麗な薄茶色の髪もすっかりくすんでしまっていた。
慌ててタオルを手にアンナちゃんへと駆け寄る。

「アンナちゃん?どうしたの!?一人でここまで来たの?おばあちゃんは、」
「おばあちゃんね、いなくなっちゃった」

とても冷えた声だった。
昨日の夜の、もうひとつ昨日の夜。おばあちゃんに絵本を読んでもらおうと思っておばあちゃんのお部屋に行ったら、おばあちゃんがすごく冷たくなっていたの。ママもパパもなんだかすごく悲しそうな顔をして、でも私には何も話してくれなかったのよ。細く消え入りそうな声でアンナちゃんが言った。彼女の言葉を噛み砕いて、飲み込む。
あのおばあさんが、亡くなったのだ。昨日の夜の、もうひとつ昨日の夜。それはきっと一昨日のことで、それから周りの大人たちはずっとバタバタとしてアンナちゃんにまともな説明が出来なかったのだろう。真っ黒い服を着ているのは、お葬式に行ってきたから。
死という概念が三歳のアンナちゃんにあるかどうかはわからない。けど、動かなくなったおばあさんと対面して…これが最後の対面だと、もう二度と会えないのだということを、きっとアンナちゃんは理解したのだ。

「そう、だったんだ」

アンナちゃんの濡れた髪を優しくタオルで拭う。彼女は俯いて私にされるがまま大人しくしていた。
気の利いた言葉ひとつ、かけてあげられない。ただ彼女の髪を拭ってあげた後、彼女をそっと抱きしめて、二人で泣いた。アンナちゃんは声を上げて、私は声を出さずに。雨が降りしきる外の音を聞きながら、泣いた。


***


「はい」
「…あ、ありがとうございます」

いつの間にかぼんやりとしてしまっていたらしい。目の前に差し出されたマグカップにはっとして顔を上げれば、透さんが柔らかく微笑んで私のことを見つめていた。マグカップを受け取って中を覗き込めば、ミルクをたっぷり溶かした温かいカフェオレが揺れている。そっと口に運ぶと優しい甘さが舌に広がって、思わずほっと息を吐いた。

「心ここに在らず、って感じですね」
「…そう見えますか」

透さんが私の隣に腰を下ろしながら言う。彼のベッドに隣同士で並んで寄りかかりながら、私は視線をカップの中へと落とした。
心ここに在らず。確かに、透さんの言う通りなんだろう。なんだかいろいろと考えてしまっている気がするけど、その割に頭はぼんやりと霞んでしまってはっきりとしない。

「死って、何なんでしょう」

私がぽつりと呟けば、透さんがこちらに視線を向けるのがわかった。
自分で聞いておきながら随分と変な質問をしてしまったものだと思う。子供みたいな問いかけだ。けど、私に今引っかかっている疑問はその一点以外になかったと思う。そう問うしかなかった。

「そうですね。死とは生命活動が止まること…命がなくなること。全ての生物に最終的に起こる生命作用の停止。完全なる命の終わり。…でもあなたが知りたいのは、そういうことではありませんよね」

透さんの言葉に小さく頷く。
死とは生命の終わり。命≠ニいう概念の終わり。意味は、わかっているつもりだ。理解しているつもりだ。死すれば再び会うことも、触れることも、声を聞くことも、話をすることも出来ない。永遠の喪失。死者は何も語らない。
でも私の胸の中に残るしこりは、そういうことではなかった。私以上に、透さんの方が私のことを理解しているようだ。

「死とは、最終的に生きるもの全てに起こることです。命がある以上、その先の死は決して避けられない。そして死とは、いつ何時にでも起こり得る」
「いつ何時にでも起こり得る…」
「そう。僕だって、いつ死んだっておかしくない」

透さんが言ったその一言に、多分深い意味はなかったんだろうと思う。だって透さんの言う通りだ。透さんも私も、いつ死ぬかなんてわからない。事故、天災、テロ、事件…死に繋がる要因なんて、案外すぐ近くに転がっているものだ。自分達が、気付いていないだけで。
でも、透さんがいつ死んだっておかしくないだなんて、今の私には完全に容量オーバーだった。ただでさえさっきアンナちゃんと一緒に泣いて、私の涙腺はかなり緩んでしまっていたというのに。
私が知らないふりを続けなければならない、彼が私に話すことが出来ないお仕事のこと。彼が危険なお仕事をしているというのは理解している。その身を捨ててでも守るべきものがあるだろうこともわかっている。でも、いつ死んだっておかしくないだなんて、今彼の口からは聞きたくなかった。

「…、ミナさん?」

ぽた、とマグカップを持つ手に雫が落ちた。一度零れてしまえば止められない。後から後から押し出すように溢れ出して、私の手元と頬を濡らしていく。
急に、思い出してしまったのだ。おじいちゃんがいなくなった日。おばあちゃんがいなくなった日。今まで住んでいた家から温もりが消えて、一人きりで思い出の整理をした日のことを。私が動かなければ、喋らなければ、寂しい静けさに満ちていた部屋。
独りになった日のことを。

「いや、です」

透さんの顔は見られなかった。だから私は手元のマグカップに視線を落としたまま、小さく頭を振る。

「いつ死んだっておかしくない、とか、わかってるけど、それでも、透さんの口から今は聞きたくない。だって私、透さんしかいないから。透さんがいなくなったら…また、ひとりぼっち」

ああ、アンナちゃんもこんな気持ちだったんだろうか。とても仲の良い祖母と孫だった。おばあちゃんのことを心の拠り所にしている部分も、多かれ少なかれあったに違いない。それが突然失われて、突然暗闇の中に一人放り出されてしまったような気がして。忙しそうな大人達に何かを言うことも出来ず、不安で仕方なくなって、だから私のところにやってきたのだろうか。たった一人で。

「あのっ、いつ死んでもおかしくないっていうのはその、ものの例えで…僕はそんな簡単に死んだりなんてしませんよ、大丈夫です。ミナさん、泣かないでください」

珍しく慌てた様子の透さんが私の頬を優しく拭ってくれる。彼の手の温かさを感じながら、あぁ、生きてるんだなあなんて当たり前のことを実感して胸がきゅうと痛くなった。
この温もりが失われるだなんて考えたくもない。この温もりを知った私は、これを失くして果たして生きていけるのだろうか。
透さんはそっと私の手からマグカップを抜き取ると、自分のものと合わせてローテーブルの上に置いた。それから私の背中に腕を回して優しく抱きしめてくれる。自然と彼に寄り掛かりながら、優しく温かい私だけの場所で目を閉じる。
透さんの腕の中は、私にとって世界一安心出来る場所だ。彼の胸に顔を埋めながら、私は不安が去るのを待つ。

「嶺書房の、」
「うん?」
「常連さんが…いたんです。優しいおばあさん」

春の陽射しを思わせるような、温かい人だった。優しい目と声をしていて、私はどこか…あのおばあさんを、私のおばあちゃんに重ねていたのかもしれない。

「ある時から、孫娘のアンナちゃんを連れてくるようになって…絵本を買うようになった後からでした。ああ、お孫さんに読んであげてるんだなって納得して…アンナちゃんに絵本の感想を聞いたりして、仲良くなって」

透さんの手のひらが私の背中を撫でてくれる。それと一緒に、彼の胸に耳を当てて鼓動の音を聞く。じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じながらゆっくりと息を吐いた。

「今日、夕方にアンナちゃんがお店に来たんです。雨の中傘も差さずに走ってきたみたいで、びしょ濡れで、一人で。…真っ黒いワンピースを着ていました。…昨日の夜の、もうひとつ昨日の夜に…おばあちゃんに絵本を読んでもらおうと思ったら、おばあちゃんが冷たくなっていたって。一昨日、亡くなったそうなんです。アンナちゃんと一緒に、二人で泣きました」

アンナちゃんには間違いなく初めての出来事だっただろう。彼女は亡くなったおばあさんの第一発見者だったんだろうし、近しい人の死に触れるにはあまりに幼すぎたと言わざるを得ない。
それでもアンナちゃんは賢い子供だから。だから、死を理解して泣いたのだ。

「…お店を閉めた後は、アンナちゃんをお家まで送り届けたんです。アンナちゃんのお母さんが出てきてくださって…おばあさんに最後に御挨拶が出来たらと思ったんですけど、中に入れては貰えませんでした。…アンナちゃん、どこか遠くへ引っ越すみたいです」

アンナちゃんのお母さんは、アンナちゃんを送り届けたことへの感謝の言葉と、近いうちに引っ越すということだけを口にしてそのまま中へと戻ってしまった。アンナちゃんに別れ際に言われたのは、絵本大事にするから、という言葉だった。生きていてももう会えないかもしれないという予感を、彼女も感じ取っていたのかもしれない。

「大切な人を亡くすというのは、とても辛いことです。ミナさんはその辛さをよく知っている」

こめかみの辺りに柔らかいキスをされて、少しだけ顔を上げる。優しく私を見つめる透さんの瞳と目が合って、彼は眦を下げると私の目尻の涙を指先で拭ってくれた。

「…でも、アンナちゃんに気の利いた言葉ひとつかけてあげられなかったんです」
「あなたは本当に優しい人ですね。アンナちゃんにとって、一緒に泣いてくれるミナさんの存在はとても大きかったと思いますよ」

そう、なのだろうか。

「…先程言った僕だっていつ死んでもおかしくない≠ニいうのは、正直嘘じゃない」
「透さん」
「でも、」

透さんは私の声を遮り、開きかけた私の唇にそっと自分の指を押し当てる。咄嗟に口を噤めば、彼はくすりと小さく笑った。

「僕にはそれと同時に絶対に生きなければならない理由≠ェあります。それが、あなただ」
「…私、」
「大切な人を亡くす辛さは、僕もよく知っています。その辛さを、あなたにもう一度させるわけにはいきませんから」

自惚れでなければいいのですが、なんて言われて私はふるりと首を横に振った。自惚れなんかじゃない。透さんは私にとって大切な人。透さんの与えてくれる温もりの中で、私は息をしている。万が一、もし透さんを失ってしまったら、私はどうなるだろう。考えたくもない。考えられない。
そうなったら私はきっと、生きていけない。

「いつ死んでもおかしくないっていうのは、わかってるんです。…それは透さんだけに限った話じゃない。その可能性は私にも充分あるものだって、わかってます」
「うん」
「でも、お願いします。私を絶対に生きなければならない理由≠ノしてくださるなら、私がその理由として生き続ける限り」
「ええ。…あなたと生き続けると誓います」

胸に広がっていた不安が消えていくのを感じながら、優しく落とされるキスを受け入れる。
透さんは私を生きる理由と言ってくれるけど、それは私にとっても同じだ。