なんだか見られているような気がする、と思ったのは最近のことだ。それは決まってポアロに行った日に感じる。更には、透さんがいる日に限って感じる。透さんが私の頼んだメニューをオーダーしてくれたり、オーダーしたものを運んできてくれたり、カウンター越しにお話ししたりする時に鋭く感じる。上手く表現が伝わるかわからないけど、視線が刺さるというかそういう感じなのである。
私が気付くことに、私よりも鋭い透さんが気付かないはずもない。そして私もそんな殺気に近い視線を向けられて理由を理解しないほどぼんやりとしているつもりはない。
つまりは、ポアロのイケメン店員さんである安室透さんのファンの子だろう。透さんも当然それはわかっているようで、ポアロでの彼との接触は最低限に抑えられるようになった。ファンの子がいる時はテーブル席に案内してもらったり、オーダーやサーブは梓さんがしてくれたり。ポアロで透さんとのおしゃべりがあまり出来なくなったのは少し残念だったけど、透さんには家に帰れば会えるし、私の元々の目当てはポアロのカフェラテであるから別に構わない。
それで一旦は刺さるような視線も殺気も感じなくなった為、私はほとぼりが冷めるのを待とうかなぁなんて呑気に考えていたのである。

「ちょっといいですか」

嶺書房からの帰り道。米花駅のバスターミナルで帰りのバスを待っていたら、ふと声をかけられて振り向いた。
振り向いた先にいたのは、可愛らしい容姿をした女の子。多分大学生くらい、だろうか。髪も肌も指先まで丁寧に手入れされていて、すごく美容に気をつけているんだろうなということが窺える。はっきりとした見覚えというものはないけど、どこかで会ったことがあるような気がしないでもない。

「…えっと、私に何か…?」

声をかけられる心当たりもなく首を傾げていたら、その女の子はじっと私を見つめたまま私の手首を掴んだ。思わずぎょっとしたが、そのまま強く腕を引かれて彼女についていく他なくなる、バスの列から外れて少し離れたところに連れていかれたかと思えば、彼女はそこでようやく私の腕を離して真正面から私を見据えた。きゅっと引き結んだ唇とつり上がった眉、鋭い目。穏やかな話ではなさそうで小さくたじろいだ。

「あの」
「あっ、えっと、はい」
「あなた、安室さんの何なんですか」
「えっ?」

思ってもみなかった問いかけに一瞬きょとんとしてしまったが、それと同時に先程彼女に感じた既視感のようなものがはっきりしてくる。そうか、この子ポアロで何度か見かけたことがあるんだ。すれ違ったりちらっと見るくらいだからはっきりと覚えていなくて当然だ。透さんの話を出してきたということは十中八九彼のファンなのだろう。
そこまでは辛うじて理解出来たものの、安室さんの何なんですかと問われて私には上手く答える術がない。正直に本当のことを言うのは、この場では間違いなく悪手だろう。私の余計な一言で透さんに迷惑を掛け兼ねない。

「前から見てたんですけど。あなた、ちょっと調子に乗ってるんじゃないですか。安室さんは誰にでも優しいけど、その優しさに甘えすぎてると思います」
「…あ、えっと、…はい、私もそう思います」
「はぁ?馬鹿にしてんの?」

思ったまま答えたのだけど、彼女にとって納得の行く答えではなかったらしい。
透さんの優しさに甘えてるなんて、きっと誰より私が一番理解していると思う。透さんは優しくて、あたたかくて、とろけるくらいに私のことを甘やかしてくれるから。そのことにいつも申し訳なさや感謝を感じているし、だからこそ私に出来ることはなんでもやろうと思っているけど…彼に甘えてしまっている自覚は、十二分にある。

「安室さんに軽率に近付かないで。見ていてすごく不愉快だし、安室さんだってあなたみたいなのに付き纏われて迷惑してる」

私は、透さんに恋をした時には既に彼のすぐ傍にいた。彼への想いに悩んだこともあったけど、それでも最初から彼の部屋で生活し、彼の手料理を食べて、彼に程近い距離にいることが出来た。
だから、想像してみようと思った。
ある日喫茶店に入ったら、見たこともないかっこいい店員さんがいて、その人に一目惚れをして。当然彼の家や連絡先なんて教えて貰えるはずもなく、ならば彼との接点を持つためにはどうするか。喫茶店に通い詰めるしかないのである。
この女の子も、透さんに恋をしている。一生懸命に自分磨きを頑張って、足繁くポアロに通っているのだと思う。今日は一言話せた。今日は彼がオーダーを取ってくれた。そんな小さなひとつひとつに喜びを覚える中で、私みたいな存在がいたらどう思う? その答えは、先程彼女自身が言っていた。不愉快になるだろう。
私は、透さんが好きだ。恋人として彼の隣に胸を張って立てるような自信はないけど、彼への想いなら誰にも負けないと信じられる。でも、先程彼女に言われた「安室さんも迷惑してる」という言葉を聞いた時、「そうかもしれないな」と一瞬考えてしまった。そう考えた直接的な理由はない。ただ、自分に自信がないというだけで。

その時、鞄の中に入れていたスマホが震えた。ちら、と女の子を見るけど、まだ解放してくれるような気配はない。今まで積もり積もった鬱憤が発散し切れていないんだろう。
けどこの震え方はメールじゃなくて電話の着信だし…電話に出ても良いかだけ小さく尋ね、彼女の了承を得てから鞄の中へと手を入れた。しまったな、一番奥底の方へ入れてしまったみたい。
スマホを取り出すのに邪魔な財布を一度出したら、瞬間彼女の目の色が変わった。

「っ、なにそれ」
「えっ、」
「なんであんたがこれを持ってるのよ!」

あ、と思う間もなく彼女の手がこちらに伸ばされる。その勢いのままに彼女が掴んだのは、私の財布にぶら下がっていたピンクのイルカのストラップだった。

「これ、これ、安室さんと同じやつ…東都水族館の限定品で、もう今は売ってないやつなのに、どうして」

財布に付けたイルカのストラップは私が東都水族館で買ったものだ。透さんとおそろいのものが欲しいなんて下心と共にプレゼントして、透さんと一緒に財布に付けたもの。私のはピンクで、透さんのは黄色のイルカ。スマホに付けているわけじゃないからそうそう目に触れることもないだろうと思っていたけど、彼女は透さんの財布に付けられたそのストラップを目にしたことがあったのだろう。

「すごく探したのよ、どこのストラップなんだろうって。東都水族館が一度休業する前に売ってた、開業当初の記念デザインだから今はもう手に入らないって。すごく探して見つからなくて、なのにどうしてあなたがこれを持ってるの!?」

彼女の目は驚きに見開かれ、瞳には絶望の色が浮かんでいた。
同じものを手に入れたくてたくさん探して、それでも見つからなくて、そんなものを不愉快な相手である私が持っていた。彼女の悔しさと、絶望と、怒りがじりじりと伝わってくる。
鞄の底から拾い上げたスマホは鳴り止まない。誰からの着信なのかを確認することも出来ないまま、私はじっと彼女を見つめ返していた。

「…あの、ごめんなさい。離して、」
「答えてよ!!」

悲痛な声で叫んだ彼女は、そのまま強くストラップを引っ張った。イルカと根付の間にあった金具がひしゃげ、ぶち、という音と共にストラップが壊れる。彼女の手のひらから落ちたピンクのイルカが、地面に転がっていく。

人から向けられる負の言葉や感情というのはとても強い。小さな言葉でも棘のように鋭く刺さることを私は知っている。彼女の言葉はとても強く、私を硬直させるだけの充分な力を持っていた。
電話の着信は止まっていた。
私はただ転がるイルカを見つめたまま、どうしてだかぼうっとしていて、上手く声を出すことも出来ないままその場に佇んでいた。



「アン!アンッ!ウゥウウ…」
「えっ、」

突然響いた犬の鳴き声にはっとすれば、見覚えのある真っ白な子犬が私と女の子の間に立って吠えていた。遠ざかっていた感覚が一気に戻ってくる。見覚えがあるというよりは、見覚えがありすぎるこの子は。

「な、なによこの犬…!」
「アンッ!ウウウ!!」
「…ハロ?」

低く喉を鳴らしながら女の子を威嚇しているのは、間違いなくハロだ。リードも付けているし、けれどもそれを握っている人がいない。突然私と女の子の間に飛び込み、彼女のことを吠え立てている。
ハロは基本的に人懐こいし、理由もなく誰かにいきなり吠えかかるような事はない。敵対心剥き出しのハロを見るのは初めてだ。思わず口を半開きにしてハロを見つめていたら、後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえた。目の前の彼女がその足音に気づいて顔を上げ、はっと息を飲む。

「すみません、うちの子が」
「あ、安室さん…!!」

振り向けば、少しだけ焦った様子でこちらに向かってくる透さんの姿があった。ラフな格好をしているから今日はポアロだったのだろう。彼はすぐ傍まで来ると、未だに女の子に向かって吠え続けるハロを抱き上げた。大好きな透さんに抱き上げられて少し落ち着きを取り戻したものの、ハロはまだ小さく唸りながら女の子を睨んでいる。

「おや?あなたはポアロによく来て下さる方ですよね」
「あっ、は、はいっ。覚えていてくれたんですね!」
「もちろん、大切なお客様ですから」

透さんの言葉に頬を赤く染めた彼女は、先程まで私に向けていた表情を引っ込めてにっこりと微笑んでいる。
これは、私は下手に二人の間に入らない方がいいな。かといってこのままこの場から去るのもおかしいし、口を閉ざしたまま一歩下がるに留めた。

「それより、何か揉めていたようでしたが…何かありましたか?」
「いいえ!いいえ、何も!そんなことより、安室さんはワンちゃんのお散歩ですか?この子、安室さんのワンちゃんだったんですね、可愛い〜!」

彼女がそう言いながらハロに手を伸ばそうとするけど、その瞬間噛みつかん勢いでハロが吠える。咄嗟に手を引っ込めた彼女は少し引き攣った表情をしていたけど、それでもにこりと微笑んでみせた。

「すみません。慣れない人には吠えてしまうみたいで…ミナさん、少しハロをお願いできますか?」
「あっ、えっ、はい」

ぼーっとしていたところに声をかけられて慌てて返事を返した。
にっこりと笑った透さんにハロを渡されたので落とさないように抱き直せば、目を丸くした女の子と目が合う。どうして安室さんの飼い犬があなたに懐いてる?どうして安室さんはあなたの名前を知っている?多分そう言いたいんだろう。
いたたまれなくなって視線を落とす。嬉しそうに尻尾を振るハロに頬を舐められた。くすぐったい。

「よいしょ、と」

その場にしゃがみこんだ透さんは、地面に転がったままだったイルカをそっと拾い上げた。透さんとハロの登場ですっかり忘れかけていたけど、イルカのストラップが壊れてしまったのを思い出す。金具が外れてしまっただけだと思うから恐らく直せるだろうが、それでも少し汚れてしまったイルカを見ると気分が沈む。
大切に、してたのにな。

「人のものを壊すのは、感心しませんね」

いつもの明るい声のトーンで透さんが言った。瞬間、目の前の女の子がびくりと身を竦ませる。

「僕が誰とどう接しようが、ミナさんが誰とどう接しようが、それはあなたには関係の無いこと、ですよね」
「…あ、安室さん、見てたんですか…?いつから、」
「あなたがミナさんの腕を掴んだ辺りから、ですかね」
「そ、」

そんなの、完全に最初からじゃないか。言葉が出ない私と彼女をそのままに、透さんは柔らかい笑みを浮かべたまま続ける。

「あなたがミナさんに言ったことは、例えば僕があなたにもうポアロに来ないでください≠ニ言うのと同じような事だと思いませんか?」
「それは、」
「僕がいつ迷惑してる≠ネんて言ったんでしょう。教えて貰えませんか」

笑みを浮かべる透さんとは対照的に、女の子の表情はみるみるうちに青ざめていく。彼女は透さんの言葉にしばし沈黙し、そのまま力なく俯いた。それを反省と取ったのだろう、透さんが静かな声で続ける。

「個人的な身勝手な思いから、誰かの行動を制することは出来ません。あなたが正義と思ってやったことは、決して正義ではない。わかりますよね」

彼女も、透さんの言葉をきちんと理解しているんだと思う。他人に自分の勝手な思いを押し付けてはいけない…透さんが言いたいのは、きっとそういう事だ。
女の子は俯いたまま黙っていたが、やがて沈黙の後に小さくこくりと頷いた。

「…ポアロに来るなと言うのは冗談ですよ。あなたの好きなショートケーキを用意して、またお待ちしてますから」
「…私がいつも頼むメニューも、覚えてくださってるんですか」
「もちろん。大切なお客様ですから」

先程と同じ言葉を繰り返し、透さんはにっこりと笑って「それでは」と締めた。
ぼんやりとした私の背中を押すようにして促し歩き始めるので、私もハロを腕に抱いたまま足を動かして彼について行く。バスターミナルを素通りして、そうか歩いて帰るのかと思い至った。

住宅地への道へと入り、喧騒から離れたところでぽつりと口を開く。

「…なんか、すみませんでした」
「どうしてミナさんが謝るんですか?謝るのは僕の方ですよ。あの子がここ最近あなたに対して鋭い目を向けていたことに気付いていたにも関わらず、上手く対処できなかった僕のミスです」

巻き込んでしまってすみませんでした、なんて言われて慌てて首を振った。別に巻き込まれただなんて思っていない。

「電話を鳴らせば有耶無耶になるかと思ったんですが、結果として火に油を注いでしまいましたし」
「…あ、さっきの電話、透さんだったんですね」
「ええ。ポアロが早めに終わったので、たまにはハロと駅前の方まで散歩に出ようかと思って…そうしたら何やら揉めてる様子のミナさん達が見えたものですから。ちょっとハロをけしかけてみました。ハロもあなたが心配だったんですね、あんなに吠えるとは思わなかった」

そっと透さんを見上げると、彼は少し悪戯っぽく笑っていた。じっと見つめていたら目が合って、今度は柔らかく微笑まれる。そしたらまるで見透かすように言われた。

「あの子もきっとこれで考えを改めるでしょうし、あなたが周りに引け目を感じる必要なんて少しもありませんよ」
「…でも」
「あなたは僕のなんですか?」

問われ、言葉に詰まる。
同じ内容の問いをさっきの女の子にも投げかけられたけど、それとこれとでは持つ意味合いも違う。柔らかい透さんの声がじわりと染みて、頬が赤く染まるのがわかった。
自分に自信なんかない。だけど私は、彼の隣にいたいから。

「……こいびと、です」
「よく言えました」

抱いたままのハロに顔を埋めれば、髪に優しくキスされたのを感じた。おずおずと顔を上げると、同じ優しいキスが額にも降ってくる。
透さんにキスされたら、ぐるぐる悩んでいたこともどうでも良くなってしまう。透さんはきっと、私より私のことを知っている。

「さ、帰って夕食にしましょう。イルカのストラップも直さないと」
「直りますか?」
「金具を付け替えれば問題ありませんよ。任せてください」

ハロを地面に下ろしたら、リードは透さんが持ってくれた。空いた方の手は自然と繋いで、透さんとハロと私、三人で家路に着く。

あの女の子のことを可哀想だと思った。そして、彼女を可哀想だと思った自分を恥じた。彼女のことを可哀想と思うのは、彼女に対する侮辱だ。
彼女は精一杯努力していた。身だしなみに気をつけて、透さんの視界に入れるように一生懸命で。透さんに向けて微笑んだ顔は、同性の私から見ても可愛いと思った。
彼女にも素敵な男性が現れたら良いと思う。私みたいに、あまりに奇想天外な出会いを果たすことだって、あるかもしれないから。