私は、透さんと喧嘩したことがない。そりゃそうだ、お互いに良い大人だもの。透さんは意味もなく怒ったりする人じゃないし、意見が食い違うことも無い。何かちょっと考えが違ったりしても話し合いで解決するし、互いに納得して妥協することも知っている。喧嘩って言うと互いに譲れないものが食い違った時に起こったりするものだろうし、絶対に折れることは出来ない!だとか絶対に自分は悪くない!みたいな強い思いがないと出来ないものだと思う。
喧嘩するほど仲が良いと言うけど、喧嘩しなくたって仲良くしていたいと思うし…喧嘩はしないけど、私と透さんは仲良しである。と、思いたい。

「私なんて新一と喧嘩してばっかりですよ」
「そりゃー、あんたの旦那は推理オタクだから。蘭そっちのけってことも少なくないしねー」

休日の昼下がり。蘭ちゃんと園子ちゃんに呼び出され、ランチの後に最近出来たばかりだというカフェへとやってきた。本当は世良ちゃんも誘ったらしいけど、今日は先約があって来られなかったそうだ。残念である。

「蘭ちゃんが喧嘩なんてちょっと意外だなぁ。ラブラブだと思ってた」
「全然ですよ。デートよりも事件に突っ走って行っちゃうような奴なんで」
「言ってるだけよ。喧嘩するほど仲が良いって奴。馬に蹴られるから人の恋路は邪魔出来ないわぁ」
「ちょっと園子!」

園子ちゃんがひらひらと手を振りながらホットサンドを頬張った。さっきランチでオムライスを食べたばかりだと言うのに、その細い体のどこに吸収されていくのだろうと心配になる。確か園子ちゃんはテニス部だと言うし、きっとすぐに食べたカロリーも消費されていくんだろうなぁ。
私はなんとはなしにミルクティーのストローをくるりと掻き回した。からん、と氷の音がする。
今話題に上がっているのは彼氏との喧嘩の話。蘭ちゃんと工藤くんは幼なじみで小さな頃からずっと一緒に育ってきたらしいけど、カップルになったのはつい最近のことだそうだ。お互いに素直じゃないからぶつかるのよね、なんてからかう園子ちゃんの言葉になるほどと頷いた。

「い、今は前ほど喧嘩してるわけじゃないもん」
「くっついた瞬間にコレなんだから。あんた達は素直になるのが遅すぎなのよ」
「そう言う園子だって、こないだ京極さんと喧嘩してたじゃない」
「もしかしてシンガポールでのこと言ってる?バカね、あの喧嘩によって私と真さんの愛は更に深まったのよ!」

シンガポールで何やらあったらしい。そう言えばこないだ毛利さんと蘭ちゃん、園子ちゃんと新一くんでシンガポールに行ってきたと言っていたなぁ。シンガポールで空手の大会があって、それに京極さんが出場したとか何とか。同じくシンガポールに行っていた怪盗キッドこと快斗くんから「どえらい目に遭った」と聞いた。どえらい何かがあったらしい。詳しいことは話してくれなかったし、私も無理に聞こうとはしなかったからわからないけれど。

「やっぱり喧嘩すると仲良くなるのかなぁ」

ぽつりと呟けば、蘭ちゃんと園子ちゃんが動きを止めて振り向いた。彼女達はその大きな目をぱちぱちと瞬かせている。

「ミナさん、安室さんと喧嘩とかしないの?」
「しないなぁ」
「でも確かに、安室さんって何でも笑って許してくれそうですよね。喧嘩する前にお互いに納得しちゃうっていうか」
「あ、そんな感じ。私も喧嘩とかするタイプじゃないし、透さんが良いならいっかって思っちゃったりする」

透さんと喧嘩なんて考えたこともなかったな。日々穏やかに過ごさせていただいてるし彼に不満なんてあるはずもない。顔良し頭良しスタイル良し性格良し、そんな透さんと喧嘩をするなんて、想像してみようと思ったけど上手くいかなかった。喧嘩のきっかけがそもそも見つからない。
うーんと唸っていたら、ホットサンドを食べ終えた園子ちゃんが腕組みをして眉を寄せた。

「確かに…安室さんとミナさんが喧嘩って想像つかないわ。でも、だからこそちょっと怖くない?」
「怖いって?」
「喧嘩をしたことないカップルが突然喧嘩したら、喧嘩慣れしてないからお互いに引き際とかわからなくなって修羅場と化しそうっていうか」

なんとなく園子ちゃんの言っている意味は理解出来た。喧嘩慣れしているから良いというわけではないけど、喧嘩をすることでお互いの譲れるライン譲れないラインを把握出来るということなんだろう。確かに園子ちゃんの言う通り、私は透さんと喧嘩なんてしないし…もしもいざ喧嘩になった時に、謝るタイミングとか納得できる落とし所とかわからなくなって、売り言葉に買い言葉…みたいな展開になってもおかしくないかも。

「…喧嘩をしなければ問題はないよね」
「いつどこで何がどうやって喧嘩に発展するかなんてわからないもんよ、ミナさん。私だって真さんと喧嘩なんて絶対にないと思ってたしなぁ。ま、必要な喧嘩だったし更にラブラブになれたから良いんだけどね!」

返す言葉もない。

「でも、喧嘩ってやっぱりしんどいですよ。私もよく新一と喧嘩するし素直になれないばっかりだけど…でも、一緒にいるなら楽しく過ごしたいじゃないですか」
「そもそも一緒にいられるだけで楽しいからそれ以上は何か望めない…」
「いいじゃん!一度くらい喧嘩してみなさいよ。安室さんが怒るところとかちょっと見てみたいし」
「園子!!」

喧嘩してみなさいよ、と言われても。私には、透さんと喧嘩をする術がないんだよなぁ。
お行儀悪くも頬杖をつきながら、私は溶けた氷で薄くなったミルクティーをストローで吸った。


***


「喧嘩がしたいんです」
「はい?」

夕食時に直球で透さんに言ってみたけど、案の定ぽかんとされてしまった。そりゃそうだ。私だって突然「喧嘩がしたい」なんて言われたら透さんと同じ反応を返すに決まっている。でも他に言いようがないというか…喧嘩ってどうやってやるものなのかもわからないし。
透さんはしばしぽかんとしたまま私を見つめていたが、やがて難しそうに眉を寄せた後に開けていた口を閉じた。

「…すみません、最初から説明してもらっても?」
「…えぇっと…何というかその、喧嘩するほど仲が良いってよく言うじゃないですか。でも、私透さんと喧嘩したことないなぁって…」
「なるほど、それで喧嘩をしてみたいと?」
「…えっと、そんな感じです」

なんだかとっても間の抜ける光景かもしれないけど、私は案外真剣なのだ。察して欲しい。
でもまぁ、こんなことを言ったところで透さんなら苦笑するか笑い飛ばすんだろうなあなんて思った。喧嘩したい、なんて支離滅裂にも程がある。何を言ってるんですか、なんて言われて終わりだろうなって思いながら小さく息を吐いたら、私以上に深い溜息が聞こえて顔を上げる。
透さんは難しい顔をしたまま食器を置くと、鋭い目で私を見据えた。今まで見た事ないようなその表情に思わず息が詰まる。だってその表情は、まるで睨んでいるかのようだったから。

「つまりミナさんは、喧嘩をしないと安心出来ないってことですよね」
「えっ?そ、そういうわけじゃなくて」
「僕が信用出来ないんですね」
「違います!」

なんだかよくわからないけど、透さんがとても怒っているということはわかった。私は何か彼を怒らせるようなことを言ったのだろうか?焦る私を他所に、食事を終えた透さんは私と目を合わせることなく空いた食器をシンクへと運ぶ。そしてそのままハロを呼ぶと、首輪にリードを取り付けた。

「あっ、で、出かけるんですか」
「見てわかりませんか?」

なんで私はどうしようもないことしか言えないのか。ハロを呼んでリードをつけたのなら、散歩に行く他にないのは当然見ればわかる。慌てて私も食事を終えると空いた食器をシンクに運んだ。

「ま、待ってください、私も一緒に、」
「結構です。ハロ、行くよ」
「アンッ」

私と透さんの様子に少し不思議そうな顔をしたが、大好きな透さんと大好きな散歩に行くのに意識はすぐそちらに向いたようだった。どうすることも出来ず中途半端に立ち尽くす私を置いて、透さんとハロが出ていく。音を立てながらドアが閉まるのを見つめ、足は床に縫い止められたように動かなかった。
体の節々が突然錆び付いてしまったかのようだった。ぎしぎしと音を立てているかのような錯覚さえ覚えながら私はのろのろとシンクに向き直り、のろのろとした動きで食器を洗い始める。頭は上手く動いていなかった。

怒らせた。いつもあんなに優しい零さんを、私のつまらない一言で怒らせてしまったのだ。
どうして彼があんなにも怒ったのかはわからない。でも、透さんの言った「僕が信用出来ないんですね」という言葉が脳裏にこびりついていた。
信用出来ないだなんて。そんなこと、あるわけない。ただちょっとした興味だった。
蘭ちゃんも園子ちゃんも彼氏さんと喧嘩をするという。喧嘩して愛が深まったとか、喧嘩するほど仲が良いとか、そういった話を聞いてほんの少し羨ましく思ったのは否めない。でも、私は蘭ちゃんでも園子ちゃんでもないのだ。蘭ちゃんと新一くん、園子ちゃんと京極さんにそれぞれの恋愛の仕方があるように、私と透さんにも私達なりの恋愛の仕方があった。
他に左右される必要なんてなかったんだ。

いつどこで何がどうやって喧嘩に発展するかなんてわからないもんよ、ミナさん

園子ちゃんの言う通りだった。まさかこんなすぐに、こんな突然、透さんと喧嘩することになってしまうだなんて想像もしていなかった。喧嘩がしたいだなんて、どうしてほんの少しでも思ってしまったんだろう。
私が悪い。透さんの気持ちを考えずに、後先考えずに軽く喧嘩したいなんて口にしてしまった。本当にちょっとした軽い気持ちだった。それが、透さんを信用していないだなんて思わせる結果になるなんて。

食器を洗い終わっても透さんとハロは帰ってこなかった。
シンクの水を止めて、のろのろとタオルで手を拭いて、のろのろと寝室へと足を向ける。ぼんやりとしたまま寝室の入口に佇んで、いつも透さんと一緒に眠るベッドを見下ろした。
悲しかった。後悔していた。ベッドに歩み寄ってそこにうつ伏せに倒れ込んで、枕をぎゅうと抱え込む。大好きな透さんの匂い。じわりと涙が浮かんで胸が震えた。


「ただいまー…、…ミナさん?」

玄関のドアが開く音がする。透さんとハロが帰ってきたのだ。
顔を埋めていた枕を少し話して頭をもたげれば、寝室の入口からひょいとこちらを覗き込む透さんと目が合った。きょとんとした顔の彼を見て、じわりと滲んでいただけの涙が一気に溢れ出す。

「と、とおるさぁん…」
「えっ?!ちょ、ミナさん、泣いてるんですか?!」
「う、ッご、ごめんなさ…ごめんなさい、喧嘩したいなんて言ってごめんなさい…!と、とおるさんのこと大好きだから、う、うぇ、」

まともな日本語も話せないのか私は。ちゃんと思いを言葉で伝えたいのに、押し出すように溢れる涙が邪魔をする。枕を抱きしめたまま子供のように泣きじゃくる私のなんと情けないことか。
喉の閉塞感が苦しくて小さくしゃくり上げれば、透さんは慌てたようにこちらに近寄ってきた。

「参ったな、まさか本気にしたんですか?」
「へ、」
「あなたが喧嘩をしてみたいって言うから、それに乗ってみただけだったんですが…すみません、僕も悪ふざけが過ぎましたね」

透さんが困ったように笑う。彼の言っている内容はわかるのに意味がよくわからずに目を瞬かせた。乗ってみただけ?悪ふざけ?どういうことだ。

「喧嘩するほど仲が良いから喧嘩をしてみたい≠ネんて可愛らしいお願いに、僕が本気で怒るとでも思ったんですか?心外だなぁ」
「う、ぇ、だ、だって、透さん、すごく怒って、」
「そう見えたのなら、僕の演技力も捨てたもんじゃないですね」

柔らかく微笑まれて、たまらなくなってそのまま透さんに抱き着いた。ぐすぐすと鼻を鳴らす私を優しく抱き留めながら、透さんが私の頭を撫でてくれる。不安で仕方なかった気持ちがゆるゆると溶かされていくのを感じながら、腕に力を込めた。

「不安にさせてすみません。怒ってなんかいませんよ。どうせ喧嘩するならそれっぽくって思ったんですけど」
「ぅ、…ッか、帰って来なかったら、どうしようって、思ってました」
「そんなことあるわけないじゃないですか。こんなにもあなたのことが大切なのに」

透さんが怒ったわけじゃなかったという事実に心底安堵している。
彼の首筋に顔を埋めれば、透さんは小さく笑って私の耳たぶに甘く噛み付いた。痺れるような刺激にぴくりと体が震える。

「っ、ん、…透さん、」
「あんまりに可愛いものですから」

知ってますか?ミナさん。喧嘩の後には、仲直りセックス≠ニいうものがあるらしいですよ。透さんの言葉にゆるりと顔を上げる。

「仲直りのきっかけとして使うには、話し合いもなく有耶無耶になるからNGとの声も多いようですが…仲直りした後ならどうでしょうね。大切な相手に触れたいと強く思うのは、当然のことなのかもしれません」

私の髪を撫でながら透さんが小さく笑った。その表情は私の大好きな優しい笑顔だったが、彼の瞳にゆらりとした熱を感じて息を飲む。
あぁ、透さんに触れたい。触れて欲しい。まだほんの少し残る不安な気持ちを、甘く塗り潰して欲しい。

「…、…透さんは、私に触れたい…ん、ですか?」
「ええ、あなたが許してくれるのなら」
「…恥ずかしいんですけど…泣いたばっかりで不細工だし」
「どうして?可愛いですよ」
「だからそういうのが恥ずかしいって、」
「ミナさん」
「う、」

ゆるりと頬を撫でられて、とくんと胸が高鳴った。
きっと私は期待した表情をしているんだろう。透さんから見た私の目は、とろりと揺らいでいるのかもしれない。

「…あの、…ほんとは、私も…触れて欲しいです、」

言うなり、透さんに深く甘く口付けられた。

喧嘩なんて、やっぱり私はしたくない。透さんに嫌われてしまうかも、とか、透さんがいなくなってしまうかも、みたいなプレッシャーに私は耐えられない。彼を傷付けたくないし、やっぱり彼と一緒にいるなら穏やかな時間を過ごしたい。
喧嘩するほど仲が良いというのもわかる。お互いに意識が向き合わないと、喧嘩なんてしないからだ。時には喧嘩が必要なこともあるかもしれない。避けて通れない喧嘩というものもあるだろう。
でも私と透さんには、少なくとも今はきっと必要のないものだと思う。
喧嘩なんて、しようと思ってするものじゃないな。今回のことで身に染みてわかった教訓である。