安室さんが、ポアロを辞めるのだと言う。今日は梓さんはお休みみたいで、お昼の時間も過ぎた今店内の客は私だけだ。安室さんと私しかいない空間で、彼は少し寂しそうな顔で「辞めることになりまして」と言った。
彼が実は警察官だということはなんとなく気付いていたし、警察官である以上ポアロのお仕事が本業ではないこともわかっていた。安室透という名前も当然ながら偽名だろうし、そんな偽名を使ってポアロで働かなくてはならない理由があったんだと思う。何にせよ彼のお仕事の深い部分に関わることだ。私なんかが首を突っ込んでいいことではない。

「寂しくなります」
「ポアロは辞めますが会えなくなるわけじゃないですし、ミナさんの為ならいつだって力になります」
「安室さんと出会ってから、私は安室さんに支えられて助けられてばっかりですよ。…でも、それじゃあ有難く時々は連絡させてくださいね」
「ええ、もちろん。僕としては毎日の連絡だって構わないんですけど」

引き継ぎなんかもあるから今すぐ辞めるわけじゃないけど、一ヶ月後くらいには退職するとのことだ。安室さんお手製のケーキやハムサンドが食べられるのもあと何回だろう。会えなくなるわけじゃないと当然わかっている。連絡してくれていいと言っているし、きっとお誘いすれば友人としてご飯もご一緒してくれるだろう。だけどいつでも会えると思っていた場所から彼がいなくなってしまう事実は、やはりどうしても物悲しい気分になっちゃうな。温かいカフェラテを口に運んで、カウンター奥で働く彼の背中を見つめながら目を細めた。

その時、チリリンとポアロの入口のドアベルが鳴った。いらっしゃいませ、と言いかけた安室さんの表情が強張り、笑顔が不自然に引き攣っていく。なかなか見ない珍しい表情だな、と思っていたら私の隣の椅子が引かれ、そこに誰かが腰を下ろした。ふわりと鼻先を掠めるタバコの香りにゆっくりと目を瞬かせて視線を向ける。

「やぁ、俺もご一緒させていただいても良いかな」
「赤井さん」
「君の姿が見えたものでね。今日は仕事はお休みかな」

テーブルに頬杖をつきながらゆるりと微笑んでいたのは、赤井秀一さんだった。ネイビーのシャツに黒いスラックスとライダース。トレードマークのニット帽。全身真っ黒なのにかっこよく着こなしてしまうのは赤井さんの顔がハンサ厶でスタイルが良いから…なんて単純な理由ではない気がする。安室さんもそうだけど、赤井さんも自然を人を惹き付ける魅力があるんだよなぁ。
今まで安室さんと過ごしていた時間が少しづつ少なくなり、代わりに赤井さんと過ごす時間が少しづつ増えた。赤井さんと知り合ったのは東都水族館での一件の時だったけど、その後阿笠博士の家に遊びに行った時に再会してそれからちょこちょこ連絡を取り合う仲になった。阿笠博士と赤井さんがどういう関係なのかと言うと、FBIである赤井さんに阿笠博士が協力することがあり、博士の発明品にえらく助けられたそうだ。
赤井さんは現在大きな事件の事後処理で日本に残っているらしい。当然ながら詳しいことは教えてもらえないけど、本国に帰れるのはまだしばらく先になりそうだと言っていた。

「今日はお仕事はお休みなんです。赤井さんこそ、今日はお休みですか?」
「いや、阿笠博士に用があって少し出てきたんだ。用も済んだから、コーヒーを飲んだら仕事に戻る」
「相変わらず、お忙しそうですね…」
「忙しいわけがあるか。白昼堂々とサボりとは…いい度胸をしているな」

トゲトゲしい言葉を赤井さんに言うのはカウンター越しの安室さんである。
安室さんは濡れていた手をタオルで拭うと、ものすごく嫌そうな顔をしながらコップに水を注いで赤井さんの前へと置いた。

「貴様には水道水で充分だ。それを飲んだら仕事に戻れ」
「随分だな、安室くん。昼休みを返上して仕事をしていたんだ、コーヒーの一杯くらい許されてもいいだろう」
「ふざけるな」
「アメリカンを頼むよ」

安室さんの盛大な舌打ちが響いた。
…なんというか、最初からわかってはいたけど…この二人は仲が良くない、ようなのだ。と言っても噛み付くのは安室さん一方で、赤井さんは飄々として受け流しているように見える。少なくとも赤井さんに安室さんに対する敵意はないように見えた。
注文されてしまった以上それを突っ撥ねるわけにもいかないのか、安室さんはとっても嫌そうな表情をしたまま赤井さんのアメリカンを淹れ始める。とても律儀である。

「赤井さん、こないだお会いした時より少し疲れた顔してる気がするんですけど…大丈夫ですか?ちゃんと休めてます?」

赤井さんと最後に会ったのは一週間くらい前のことだ。夕食に誘われたので、日本酒が美味しいお店に連れていってもらった。赤井さんと言えばタバコとウィスキー、なんてイメージが強かったけど、基本的にお酒はなんでもイけるタイプらしくて彼のオススメをたらふく飲ませていただいたのである。とても美味しかった。
赤井さんと過ごす時間は穏やかで楽しくて、彼と出かけるのをいつしか心待ちにするようになっている自分がいる。お仕事も忙しいだろうに、こまめに飲みのお誘いもくれるし、優しい人だなあと思う。なんというか、長男だけあってやっぱりお兄ちゃん気質だなというか。
でも、赤井さんはFBIの捜査官だ。今は日本で仕事しているけど、元々彼の居場所はアメリカである。そう遠くない未来に彼はアメリカへと帰る。気軽に会えるような距離じゃない。海を超えた遠い地へ彼が帰ってしまったら、その後は…そう考えかけては首を振ることも多くなった。本気で赤井さんが帰ってしまった後のことを考えたら、寂しさに溺れてしまいそうだったから。

「確かに今週に入ってから少しバタバタしているな。基本的に事務処理をするのが向いてないんだ」
「あはは、赤井さんは現場向きですもんね。でも、何だかんだ事務処理だって完璧にこなしちゃうんでしょう?」
「そんなことはないさ。いつも怒られてばかりだよ」
「怒られる」

赤井さんともあろう人が、怒られる。全く想像出来なくて思わずぽかんと口を開けてしまったら、赤井さんは小さく吹き出してくすくすと肩を揺らして笑った。そんな赤井さんの目の前にアメリカンコーヒーを置きながら、安室さんが眉を顰める。

「赤井」
「おっと。ほらな、怒られた」
「いい加減にしろよ」

安室さんは本気で怒っているようだったけど、赤井さんはどこ吹く風だ。
そっか。二人とも国は違えど国を守るお巡りさんなんだし、警視庁の庁舎で会ったりしていてもおかしくないよね。二人の仲は悪いけどやたらと扱いとかに慣れてる感じがするし、意外と同じ仕事に携わっていたりして。というのは私の想像だけど。東都水族館での一件の時も、仲は悪くても二人の息はぴったりだったしなぁ。

「それより、安室くんは何をそんなに怒っているのかな」
「貴様が平然と俺の前にいること自体が不愉快だ」
「それだけが理由じゃないんだろう」
「さすが、趣味が悪いなFBI」

ぽんぽんと行われている会話のキャッチボールだけど、その内容は微笑ましいものではない。彼らの仲が悪いということは理解しているけど、私は安室さんのことも赤井さんのことも好きだ。好きな二人が言い争うのは、正直見ていてあまり気分の良いものではない。仲良くして欲しい…というのは私のわがままだから、二人に強要することが出来ないのはわかっているんだけど。
そんな思いが顔に出ていたのだろう。赤井さんはちらりと私を見ると、すぐに視線を安室さんに戻す。

「彼女の前だ。お互い、止めにしようじゃないか」
「………」

赤井さんの言葉で私の様子に気付いた安室さんは、もう一度じろりと赤井さんを睨んだもののそれ以上何かを言うことはなかった。どうやら喧嘩は止めてくれるみたいでほっとする。

「君は何も聞かないんだな」

肩の力を抜いてようやく安心した心持ちでカフェラテを口に運べば、赤井さんがそう言った。
何も聞かないんだな、というのは…多分、安室さんとの仲の悪さのことを指しているのかなと思う。確かにどうしてこんなに仲が悪いのかとか、仲良くする方法はないのかとか思わないわけじゃないけど、そこは私が踏み込んでいい領域の話ではないと思っている。

「仲良くしてくれたら嬉しいですし、これから仲良くなるといいなって思いますけど…でも、それって私がお二人に言う話じゃないし、ましてや強要なんて出来ないと思うんです」
「ホォー。それは何故かな」
「だって、お二人って私なんかよりもずっとお互いのことをよくわかっていて、よく知ってるじゃないですか」

聞いたところ付き合いも長いようだし。
相手への関心がなければこんな言い合いだってすることはない。好きの反対は嫌いではなく無だということを、私はよく知っている。赤井さんは安室さんとの応酬をどことなく楽しんでいるような気がするし、安室さんがそのことに気付いていないはずもないのだ。つまり、二人の喧嘩というのは二人がしようと思ってやっている…ということになるような気がする。
ならば尚更私が口出しをする話じゃない。今すぐには無理でも、いずれ仲良くする日が来るんだと思う。

「だからお二人は、私がお二人に「仲良くして欲しいなぁ」って思ってるってことだけ覚えておいてもらえたら良いです」

言うと、赤井さんと安室さんは動きを止めてじっと私を凝視した。なんだか驚いたような、少し息を飲んでいるような、なんかそんな表情。緑と青の瞳に見つめられて思わず身を竦ませる。
え、何か変なこと言ったかな。やや不安になった次の瞬間、赤井さんは大声で笑い出して安室さんはカウンターへと突っ伏した。
どうしてそんな反応。

「…ほんと、ミナさんには敵わないなぁ」
「え、私何か変なこと言いましたか」
「変なことと言えば変なことかもしれんが、俺は嫌いじゃない」

楽しそうな赤井さんと、少し呆れたように苦笑する安室さんが私を見つめている。先程までの二人の剣呑な空気はなりを潜め、どちらもその表情は穏やかだ。

「…ミナさんの言う通り、あなたが僕達に仲良くして欲しいと思っていることは覚えておきますよ」

安室さんは苦笑したままそう言った。その後すぐにお客さんが来てしまって彼はそちらの接客に向かってしまったが、私が言った言葉は無駄じゃなかったのかもしれない。
いつか赤井さんと安室さんが仲良くしてるところを見られたらいいな。そんなことを考えていたら、じっとこちらを見つめていた赤井さんに気が付いた。綺麗な顔でじっと見つめられると緊張するし恥ずかしくなってしまう。

「…あ、あの、なんでしょう」
「いいや?…ずっと聞いてみようと思ったんだが、君は恋人はいないのかな」
「こっ」

恋人、ですか。
あまりにストレートな言い方に頬がかぁっと熱くなった。ふるふると首を振り、冷静になろうと努めることにする。

「…以前はいましたけど、振られちゃったので」
「振られた?君が?」
「えっと、はい。私つまらない人間だし、振られるのもなんとなくわかるなぁって思って…」
「つまらない?元恋人にそう言われたのか?」
「はっきりとそう言われたわけじゃないですけど、それが原因だろうな…とは」

彼に、私への愛情があったかどうかと聞かれたら正直分からない。無かっただろうと思うし、でも無かったと言い切りたくない自分がいる。私はそれなりに彼のことが好きだったし、都合よく使われていた部分もあったとは思うけどそれでも楽しい時間もあった。
全てが全て、良い思い出ではないけれど。

「その男は見る目がないな」
「えっ?」
「大魚を逸す、ということだ」

赤井さんはたまに難しいことを言うからよくわからない。私が首を傾げると、彼は小さく笑って私の頭をくしゃりと撫でた。大きな手だ。

「私、赤井さんの手好きなんです」
「手?」
「安心するって言うか」

私は、赤井さんがどんな人生を歩んできたのかほとんど何も知らない。かつて恋人だった女性を亡くしたということだけ、ほんのり噂程度に知っているくらいだ。彼がたくさんの人を守って、たくさんたくさん戦ってきたことを想像することしか出来ない。
FBIのスナイパーだということから、世界の裏側も知っているのかもしれない。闇の部分をたくさん見てきたのかもしれない。血もたくさん見ただろうし、綺麗事じゃ済まない世界を歩んできたのだろうと思う。
でも私にとっては、優しくて大きく、あたたかい手だから。

「ヒーローの手、って感じなんです」

へらりと笑って顔を上げれば、赤井さんは目を丸くして私を見つめていた。ぽかん、といった感じの表情に目を瞬かせる。

「……なんというか、君は」
「…えっ、私、何かまた変なことを言いましたでしょうか」
「……いや、いい」

赤井さんはぽんぽんと私の頭を撫でてから手を離した。それから口元を覆い、何やら少し考えた後に口を開く。

「…子供達が」
「子供達?」
「少年探偵団の子供達だ。彼らが、君といるとぽかぽかすると言っていたことがあった」

眦を下げて言う赤井さんの表情は柔らかい。赤井さんはコーヒーカップを持ち上げて口に運ぶと、こくりと味わうように飲み込む。

「その通りだなと思ったんだ」
「…えっと、」
「君は、陽だまりのような女性だな」

今度は、ぽかんとするのは私の番だった。赤井さんは残り少なくなっていたコーヒーを飲み干すと、私の分の伝票まで手にして立ち上がる。慌てて追いかけようとしたらやんわりと制されて、赤井さんは軽く振り返りながら笑みを浮かべた。

「ミナさん、明日の夜は空いているかな」
「えっ?あ、空いてます…けど」
「では、午後七時に米花駅前で。飲みに行こう」

あ、と言う間もなく赤井さんはレジの方へと向かってしまう。安室さんがレジ対応をして、そのままこちらを振り返ることなくお店を出ていってしまった。
きっとこれからお仕事に戻るんだろう。火照った頬を両手で押さえれば、レジから戻ってきた安室さんが溜息を吐きながらカウンターに頬杖をついた。

「ミナさん、あいつに何か言われました?」
「………」

ぷるぷると首を振れば、安室さんは更に大きな溜息を吐く。その様子は、まるで赤井さんと私の会話を全て聞いていたようでますます顔が赤くなる。
安室さんはしばらく私をじっと見つめていたが、やがて小さく肩を竦めた。

「赤井はいちいち言うことが大袈裟だしいつも一人で抱え込もうとするし相談も何もほとんどしないしたまに日本語通じないし嫌味な奴だし仕事はサボるしそれ以上の速さで仕事を終わらせるし、かといって欠点らしい欠点がないところが欠点って感じのどうしようもない男ですけど」

突然の安室さんの言葉に意味がわからずに顔を上げる。ぱちぱちと目を瞬かせて首を傾げたら、安室さんはそんな私と同じ方向に首を傾げて苦笑を浮かべた。

「でもね、いい男ですよ。優しい奴です」

あんなに赤井さんと口喧嘩をしていたのに。安室さんの言葉はじわりと私の胸に染み込んでいくようだった。とくんと胸が高鳴って、切なくも甘い痛みにきゅうと唇を噛み締める。

「ミナさんに対して、奴はきっと誠実であるでしょう。…僕はミナさんの味方です。何かあれば、相談に乗りますよ」

あぁ、安室さんはきっと気付いたんだろう。私の胸に芽生えたこの感情のことを。
どうしよう。今まで何度も赤井さんと連絡を取って、一緒にご飯を食べに行ったりして、どうして今の今まで芽生えてくれなかったのか。
明日、赤井さんにどんな顔をして会えばいいのか。火照った頬の熱は冷めそうにない。
私の心は、ピンクのチューリップの形をしていた。