人の感情とはとても厄介だ。
別に悲しくなりたくて悲しくなるわけでも、寂しくなりたくて寂しくなるわけでもない。わざわざ怒りたいと思う人もなかなかいないだろう。悲しみも寂しさも怒りだって、自分ではどうにも出来ない外部的要因によってもたらされる感情だ。……まあ、情緒不安定な時は何をしてなくても悲しくなったり寂しくなったりすることも、ないわけじゃないけど。
自分の機嫌は自分で取れ、とは誰が言った言葉だっただろう。赤ちゃんの頃は泣くのが仕事と言うけど、成長すればそういうわけにもいかない。悲しくても辛くても、それをぐっと堪えなけばならないことを成長とともに知っていくのである。故に、自分の機嫌をコントロールするのもまた自分なのだ。

「で、寂しいからってここへ?別に構わないけど、小学生に頼るのもどうかと思うわよ」
「哀ちゃんってば冷たい……」

ソファーのクッションをぎゅうと抱きしめながら呻くように呟けば、私と哀ちゃんの様子を見ていた阿笠博士が苦笑を浮かべながらこちらに歩み寄ってくる。目の前に置いてくれたのは湯気が立ち上る温かいココアだ。優しく甘い匂いにほうと息を吐く。

「まぁまぁ、哀くんもそう邪険にせんと。ミナさんもせっかく来たんじゃ、ゆっくりしていくといい」
「うう……すみません……。ありがとうございます、いただきます……」

手を伸ばしてココアのマグカップを口に運ぶ。
ミルクとお砂糖たっぷりなのは博士の好みなのかな。ちょっと甘すぎる気もしたけど、今の私にはこれくらい甘ったるいのが丁度いいかもしれない。じんわりと胸の辺りが温かくなるのを感じながら目を細めれば、私の正面に座っていた哀ちゃんがやれやれと言わんばかりに溜息を吐いた。
博士はお仕事があるとのことで、私にココアを出したら地下にあるらしい研究室に行ってしまった。こうして哀ちゃんと二人きりでじっくり話をする機会なんて、今までにはなかった気がするな。

「……あなたの話をまとめると。最近安室さんが探偵のお仕事で忙しくて、それのクライアントが女性で、ストーカー被害の依頼らしくて、二人で過ごす時間が減る一方で安室さんとそのクライアントが一緒に過ごす時間が増えていて、それに寂しくなったって?」
「そんなにはっきり事実を言わなくたっていいじゃん!」

私の支離滅裂な話を上手いこと綺麗にまとめてくれたのはありがたいけど、全てがグサグサと胸に突き刺さって痛いったらない。でも、まぁ、その通りだ。
透さんは最近とっても忙しそうにしている。というのも、探偵業の方で立て込んでいるようなのだ。守秘義務というものがあるので当然ながらお仕事や依頼の内容は教えて貰えないし私も聞くことはしないけど、最近あまりに一緒に過ごす時間がない上に「安室さんが綺麗な女の人と一緒にいた!」だの「綺麗な人と腕を組んで歩いていて……」だの「何かストーカー被害っぽいぞ?」だの、そんな情報が耳に入ってしまえばさすがに不安になる。ちなみに情報源は帝丹高校の女子高生三人組である。
透さんは何事も完璧な人だ。女性と腕を組んで歩いていたと言うのなら、きっとそれは周知させる必要があるということなんだと思う。何をって言うのは、まぁその、その女性と透さんが付き合っているように見せなくてはならないとか、多分、そういう感じの。意図があってやっていることだとわかっているし、ストーカーの怖さは私もよく知っている。それに文句だとかワガママだなんて絶対に口が裂けたって言えないけど、でも。

「……あんまりに一緒に過ごす時間がなくて、……寂しい、」

クライアントとのことがあるからだろう。あまりポアロにも顔を出さないように言われていた。探偵業と本業で透さんはとってもとっても忙しくて、家で顔を合わせてもろくな会話さえしない。今まで透さんが女性と話したり女性と過ごしていても何も思わなかったのに、今の私はとても心が狭くなってしまっていてクライアントの女性を羨ましいと思ってしまう。最初は小さかった引っかかりが、徐々に徐々に大きくなって今では私の胸いっぱいに広がるモヤモヤに育ってしまった。
私だって透さんと一緒に過ごしたい。腕を絡めて歩きたい。彼に触れたいし、触れて欲しい。だって私は、透さんの……彼女なのに。

「こんな気持ちになったの初めてなの。寂しいし、悲しいし、もどかしいし……面白くない。こんな気持ちになること自体、透さんやクライアントの女性に対して失礼だってわかってるのに。……私、嫌な奴だなぁ……」

はぁ、と溜息を吐いてクッションに顎を乗せたら、それまで黙って私の話を聞いてくれていた哀ちゃんが軽く肩を竦めるのが見えた。

「ミナさん、私が言うのも何だけど」
「?」
「恋愛が下手くそね」

がん、と頭に衝撃を受けたような感覚だった。だってまさか哀ちゃんから「恋愛が下手くそ」なんて言われるとは思わないだろう。とうの昔に成人済みの私が、小学生である哀ちゃんにこんな色恋沙汰の話をしているのがそもそもの間違いと言えばそうなんだけど。でも哀ちゃんってなんというか大人っぽくて、良いアドバイスをくれそうだったから……。

「うう……」
「恋愛というより、ヤキモチを妬くのが下手というのかしら」
「ヤキモチ?」
「あなたのその気持ちが嫉妬心でなかったら一体何なの?……ミナさんって、人の感情には敏いのに自分の感情に関してはまるで疎いのね」

う、と言葉に詰まる。……哀ちゃんの言う通りだ。私はそのクライアントの女性に嫉妬してる。透さんと一緒に過ごす時間がたくさんあって、彼に触れることが出来る彼女が羨ましくてたまらない。だからこそ、そんな自分が嫌なのに。

「ヤキモチくらい、誰だって妬くでしょ。そんなに落ち込むようなことかしら」
「……だって、うざいとか思われたくないじゃない?」
「あなたがヤキモチを妬いたくらいで、安室さんがあなたをうざいと思うって?無いわよ、絶対」

ひらひらと手を振りながら呆れたように言う哀ちゃんに、私は小さく口を尖らせる。言い返せない。

「ヤキモチなんていうのはね、身内にだって妬くものよ」
「…身内?」

哀ちゃんの言葉に目を瞬かせる。
私に、身内と呼べるような存在はおばあちゃんとおじいちゃんしかいない。夫婦とっても仲良しだったし、当然二人は私のことも大切にして愛してくれていた。私には、身内に嫉妬するというのがあまりよくわからない。
首を傾げる私を見て、哀ちゃんはやれやれと言わんばかりに小さく息を吐いた。

「私のお姉ちゃんにね、彼氏が出来たことがあったのよ。顔色も目付きも悪い男だったわ」
「……えぇと」
「すごく嫌だった。その男の隣で幸せそうに笑うお姉ちゃんを見る度、嬉しい気持ちと悔しい気持ちが綯い交ぜになって……喜んであげたいのに、悲しくて、寂しくて。お姉ちゃんを取らないで、なんて言いたくて仕方がなかった」

哀ちゃん、お姉ちゃんがいるんだ。そう言えば哀ちゃんの御家族についての話を聞いたことはないけど、一体どんな家族なんだろう。話をしてくれている割に何故だか踏み込むことは拒否されているような気がして、私から何かを問いかけることはしない。でも、きっと仲の良い姉妹なんだろうな。

「血という家族の繋がりがあってさえ不安になるものよ。あなたと安室さんは恋人同士。明確な繋がりがない以上、不安になるのも仕方の無いことだと思うけど」
「……そう、なのかな」
「えぇ。だってそうでしょう?血というのは切っても切れないけれど、縁は切れるものだもの。……でもだから、切れないように絆というものがあるのかもしれないわね」

切れないように、絆というものがあるのかもしれない。私と透さんの間にも絆はあると思いたいけど……それがどれほど強いものなのかは、正直私には自信がない。絶対に切れないような強い絆があればいいと思う。でも、それの測り方なんてわからないのだ。
話す哀ちゃんの表情は穏やかだった。哀ちゃんのお姉さんに対する嫉妬心がどうなったのかは聞けないけど、哀ちゃんはもしかしたら確かな絆というものを手にしたのかもしれない。

「そもそも、安室さんならあなたのことなんて全部お見通しなんじゃない?」
「お見通し」
「それ飲んだら早く帰って、安室さんとちゃんと話しなさい。……きっと喜ぶわよ、彼」
「……喜ぶ……?」
「忙しそうにしてるんでしょ?疲れた彼を癒すのは、恋人であるあなたの役目じゃない?」

かっと顔に熱が上がるのがわかった。
……なんというか、やっぱり私と透さんの関係を恋人と称されるのはどうしても慣れない。恥ずかしい。だって私が透さんの恋人とか、烏滸がましいというか……そもそもお付き合いさせていただいていることが奇跡的なことのような気がするし。
哀ちゃんの話はとてもわかりやすいし、変に気を遣わないで話してくれるのがとても心地良い。大人として、歳の離れた彼女に頼るのはちょっと情けないなと思うけど……子供とか大人とか関係なく、哀ちゃんは私の素敵な友人なんだと改めて思う。
ココアを飲んで小さく息を吐いて顔を上げると、にっこりと笑った哀ちゃんが軽く肩を竦めた。

「幸せならいいのよ。……あなたの恋路を、私も応援してるんだから」


***


家に戻ると、まだ夕方だというのに部屋の電気は点いていたしドアの鍵は開いていた。

「……た、ただいま……」
「お帰りなさい。寒かったでしょう」

別にこそこそする必要はないんだけど何だか堂々と入る気にならずにそっと中を覗く。ドアを開けるとふわりと柔らかくいい匂いがした。夕御飯の匂いだ。
ドアから顔を出してちらりとキッチンの方に視線を向けると、エプロンを着けた透さんがまさに夕御飯を作っている最中だった。顔にほんの少し疲れは見えるけど、ちょっとすっきりした表情をしている。……もしかして、お仕事終わったのかな。依頼達成?

「?……どうしました?」
「あ、えっと……何でもないです」

きょとんとした顔で不思議そうに首を傾げるのはいつもの透さんである。私だけ身構えてるみたいでなんだか恥ずかしくなって、そそくさとドアを入って鍵を閉めた。透さんの言う通り今日は最高気温も十度を切っている。部屋の中との温度差に小さく身震いして、私は靴を脱いだ。

「ミナさん、手を洗ったらこっちへ」
「あ、えっと、はい」

何だろう。何かお手伝いすることでもあるのかな。洗面所で手洗いとうがいを済ませると、私はキッチンに立つ透さんの傍に歩み寄った。透さんはそんな私を振り向いて小さく笑うと、菜箸でつまんだお肉を私の口元へと差し出してくる。これは、牛肉だろうか。

「はい」
「えっと」
「あーん」

うっ、恥ずかしい。恥ずかしいけど、久々にちゃんと透さんに会えてこうやって構ってくれるのはとっても嬉しい。恥ずかしさに戸惑う私を他所に、透さんはにこにこと笑いながら私が口を開けるのを待っている。どうしても透さんを正面から見つめることは出来なくて、視線を下に落としながらぱくりと差し出された牛肉を口にした。
……しっかり煮込まれていてトロトロだ。味も染み込んでいて噛むほどじわっと旨味が舌に広がる。

「……美味しい……」
「それは良かった。夕飯にしましょう、今日はボルシチを作ってみたんです」

満足気に笑いながらガス台の火を消し取り皿を取り出す透さんを見て、自分でも無意識のうちに手を伸ばしていた。透さんの服の裾をつまんで、彼が少し驚いたようにこちらを振り返ったところで我に返ってはっとする。

「……え、っと……」
「……ミナさん?どうしました?」

手に持っていたお皿を一度置いて、透さんがこちらに向き直る。……こんな咄嗟の私の行動にも、彼はきちんと向き合って話を聞こうとしてくれる。
寂しかった。たくさん、ヤキモチを焼いてしまった。甘えたいけれど、羞恥心としょうもないプライドが邪魔をする。

「……あ、の」
「はい」
「……探偵のお仕事の方は、……終わったんでしょうか」
「……、はい」

小さく問いかけると、透さんはまるでそう問い掛けられるのがわかっていたかのように柔らかく微笑んだ。それから私の手を取ると、そっと両手で包んでくれる。
彼の手の温かさに目を細めると、透さんは優しく私の手を撫でる。それがぎゅうと萎縮した私の心をゆるゆると解くような気がして、ゆっくりと息を吐いた。

「……あ、の。……私、あんまりこういう気持ちになったことなくて」
「うん」
「お仕事だってわかってるのに、……でも、その、……すごく、寂しくて」
「うん」
「クライアントの女性のこと、……う、羨ましくって……だって、私は透さんと過ごす時間が短くなっていくのに……彼女は、透さんと一緒に過ごす時間が増えてて」
「うん」
「……透さんの恋人は私なのに、って」
「ミナさん」

透さんに名前を呼ばれて口を噤む。いつしか俯いていた顔をそっと上げて透さんを見つめると、彼は何故だか笑っていた。私、こんなワガママみたいなことを言ってるのに。独占欲の塊でしかないような、うざったい感情を見せてるのに、どうして笑っているんだろう。
喜ぶわよ、彼。
笑みを含んだ哀ちゃんの声がリフレインする。

「それって、ヤキモチ。……ですよね」
「あの、」
「嬉しい」

透さんはそう言って、私をぎゅうと抱き締めた。
えっ、どうして。なんで。急に彼の腕の中に閉じ込められて、彼の胸に顔を埋めることになって、まさかこんなこと予想もしていなかった私は半ば軽いパニックに陥っていた。
だって今、透さん嬉しいって言った。嬉しい?どうして。面倒くさいとかうざいとか思われたらどうしようって、私ずっと考えていたのに。

「……あ、あの……嬉しいって、どうして」
「好きな相手がヤキモチを妬いてくれるなんて、嬉しいじゃないですか。それだけ、僕のことを想ってくれている証拠でしょう?」

そんなふうに思いもしなかった。醜い嫉妬心なんて彼の負担になってしまうんじゃないかとか、鬱陶しいとか面倒くさいと思われてしまうんじゃないかとか、これは隠さなきゃいけない感情だとか、私はそんなことばかり考えていた。
嫉妬心という感情のことを私はあまり良く知らなくて、そもそもヤキモチを妬いてこんな気持ちになるのは恐らく人生初めてのことで、これが嫉妬心かぁなんて思わないわけじゃないけど……それでも良い感情だというイメージはどうしても持てなかったから。

「ミナさんって、文句とかワガママを滅多に言わないじゃないですか」
「う、それはそうですよ、……迷惑だって思われたくないですもん」
「あなたはもう少し、僕に対して強欲になっていい」

ヤキモチだって妬かれたいし、文句もワガママも話して欲しい。甘えて欲しいんですよ。だって僕は、あなたの恋人でしょう? そう言って、透さんが私の背中を優しく撫でる。
こんなどろどろに溶かす程に私を甘やかして、透さんは私を一体どうするつもりなんだろう。こうして透さんと正面から向き合ってゆっくり話すのは、随分と久しぶりのような気がした。

「……今日は、透さんのこと、独り占めしていいですか」
「もちろん」
「電話も出ないで欲しいです」
「はい」
「メールも見ないで」
「はい」
「……ハロ……は、見てもいいけど」
「いいんですか?」
「……放ったらかしは可哀想だから、ハロはいいです」
「なるほど」
「でも」
「でも?」

少し体を離して透さんを見上げると、彼は柔らかく微笑んだままことりと首を傾げる。じっと透さんの顔を見つめて、改めて自分がどれほど彼を欲していたのかを自覚する。寂しかった。たくさん構って欲しい。

「……でも、極力、私だけを見てて欲しいです」
「ふふ、わかりました。……僕も、あなたを独り占めしてもいいですか?」

幸せを知ってしまったら知らなかった頃には戻れない。嫉妬心を捨てることも出来ないまま、きっと私は透さんに甘く溶かされていくんだろう。
透さんに返事をする代わりに、抱きついた腕にぎゅうと力を込める。
…ああ、本当に久しぶりな気がする。透さんの体温、透さんの匂い。こんなにも近くに透さんを感じられる。
独占したいし、独占されたい。だって透さんの恋人は、私なんだもん。