自分がこんなに嫉妬深い人間だなんて、思ったことはなかった。
そりゃ、俺も人間だ。幼い頃の初恋、大好きだったエレーナ先生に子供らしい嫉妬心を覚えたことくらいはある。エレーナ先生は人気だったし誰にでも優しい人だったから(当然だ)、自分だけを見て欲しい、なんてことを思わなかったわけじゃない。わざと怪我をしてエレーナ先生のところに行ったのも、彼女の気を引きたい一心だった。子供の頃の話だ。
大人になってからは誰かに嫉妬をするような余裕も時間も無かったし、我武者羅に自分の職務を全うするために駆け抜けてきた。少なくとものんびりとした人生とは無縁だったし、神経を擦り減らすような日々も珍しいことじゃない。今は日本で落ち着いているが、ライやスコッチとチームを組んでいた時は世界中あらゆるところを飛び回ったものだ。日々生き抜くのに必死だった俺に、嫉妬のような感情を持つ余裕などなかった。
だが俺には、以前とは違うことが一つある。

「ハロ〜、おすわり」
「アンッ」

彼女の存在だ。
佐山ミナ。俺が爆発事件に巻き込まれた際、奇しくも世界を越えた先で巡り会った女性。良くも悪くも、普通の女性であった。例えば工藤有希子のような万人が惹かれるような容姿をしているわけじゃない。毛利蘭のように体術に秀でているわけでも、妃英理のようにずば抜けた頭脳を持つわけでもない。一見して、本当にごく普通の可愛らしい女性。
本来なら交わることすらなかっただろう彼女に惹かれ、結果として俺は彼女と恋に落ちた。彼女の気持ちが自分に向いていることに気付いてはいたが、なかなか彼女は頑固者で思いを伝え合うまでに時間がかかったのも、今となっては良い思い出だと思う。

「おかわり。待て……待て、」
「アウウ」
「そんな物欲しそうにしてもまだダメ、待て」

ハロと戯れている彼女の真剣な顔を見ながら、無意識のうちに口角が小さく上がっていたことに気付く。いつもそうだ。気付くと彼女を目で追い、癒されている自分がいる。なんとも格好のつかない情けない話ではあるが、俺は今の自分が嫌いでは無いのだ。
ミナと話をすると楽しくて、彼女の笑顔を見ると嬉しいと感じる。彼女を喜ばせてあげたいと思うし、彼女が悲しむ時は傍にいて慰めたいと思う。
ミナと過ごす時間が大切だ。ミナという大切な存在が出来て、その存在が自分の強さになることを知った。
けれども近頃、そんな彼女が俺の頭を悩ませている。とは言え、ミナはそんな俺には気付いてさえいないのだろうが。


***


「こんにちは」
「やぁこんにちはミナちゃん。今日もハロくんのお散歩かい?」
「はい、今日は天気が良いので……」

これである。
ハロの散歩にミナと出かけ、いつもの堤無津川の河川敷を歩いていると見知らぬ男に声をかけられた。年齢は俺と同じくらいか…少し上だろうか。三十代半ばがいいところだろう。ジャージ姿で、肩にはスポーツタオル。が、汗は少しもかいていない。
すぐ傍にいる俺など眼中になく、ミナのことしか見ていない。あからさますぎる態度に胸がざらつくのを感じた。

「今日もランニングですか?」
「ああ、ひとっ走りってとこだよ。気分も乗らなかったんだけど、ミナちゃんに会えたなら来てよかったなぁ」

くそ、わざとらしい。デレデレと鼻の下を伸ばす男を見て内心舌打ちした。
ミナは、人を惹きつける不思議な魅力がある。それは陽だまりのようであり、傍にいると安心させてくれるような…傍にいたいと思うような。どうしても放っておけない、自然と引き寄せられてしまう、そういう言葉で言い表すのは少し難しい魅力である。
俺だけでなく少年探偵団の子供達や、蘭さん始め女子高生の三人、敢えて言葉にはしないものの毛利先生もそんなことを思っているのは見ていればわかる。皆、ミナに惹かれる。恋人の贔屓目もあるかもしれないが、今一番彼女の傍にいる俺だからこそそう断言出来る。彼女は無意識に人を惹きつけるのだ。
だから正直、この男の気持ちはわかる。ミナと話すのは心地良いだろう、ミナと話していると不思議と気分が落ち着くだろう、そう思えるのは俺にも心当たりがあるからだ。だから本来であるなら俺はここで黙って話が終わるのを待つべきなのだろうと思うのだが。

「ミナさん、こちらは?」

つい、口を挟んでしまうのである。反省はあれど後悔はない。

「あ、ハロのお散歩をする時によくお会いするんです」
「へぇ、そうなんですか」

ミナの口から男の名前が告げられることは無い。それはつまり、ミナはこの男の名前を知らないということだ。知っているなら当然紹介してくれるはずが、それをせずに彼女はただ事実を口にしてにこにこと笑みを浮かべている。
名も知らない男が、ミナの名前を軽く口にしているということに強い苛立ちを覚えた。というか、お前は一体どこの誰だ。
ミナの一歩後ろに立ちながらにこりと笑って男を見つめると、彼はびくりと肩を震わせた。ようやく俺の存在に気付いたようだが、全てが遅い。

「いつもミナがお世話になってます。それで、あなたは?」

にこりと笑って問いかければ、ほんのりと青ざめた男は額に浮いた冷や汗を肩にかけたタオルで拭った。そのタオルがただの飾りじゃなくなって良かったじゃないか、そんなことを思いながら笑みを深めれば、男は今度こそ小さな悲鳴を上げた。

「そ、っそれじゃあミナちゃん!また!」
「えっ?あ、はい!また……」

河川敷を駆け抜けていく男をミナと一緒に見送る。突然話を打ち切って去って行ってしまった男を見てミナは不思議そうに首を傾げていたが、すぐにハロに視線を向けて「どうしたんだろうねぇ」などと呟いている。当然あの男の下心にも一切気付いていないのだろう。
これだから、目が離せない。


***


そして何より、俺が目を離せないのは。

「わぁ!すごい、今のどうやってやったの?!」
「へっへっへ、マジシャンとして種明かしは出来ねぇなぁ。どう?新作のマジック楽しんでもらえた?」
「とっても!」

この男の存在。
黒羽快斗。ミナが働く嶺書房のアルバイト。父親はかの有名なマジシャン、黒羽盗一氏であるらしく、息子である彼もマジックに精通しているようだ。江古田高校に通う十七歳。破天荒で問題児だと噂だが、頭は良く成績は優秀。俺自身何度か彼と接触はしており、悪い人間ではないことは確認済みだ。
だが、悪い人間ではないということと、ミナに近付く輩だということはこの場では関係がない。
河川敷での散歩の後そのまま米花駅までやってきたのだが、卵が無かったことを思い出してハロとミナを置いて俺だけスーパーに入った。買い物を終えてスーパーを出たら、黒羽快斗とミナが話している現場に出くわしたとそういうわけだ。
随分と仲睦まじい様子で無意識のうちに目が細まる。……仲が良いのは当然だ、それくらいは俺にもわかっている。
ともかくとして、黒羽快斗がこの場にいるというのは偶然だったとしても、だ。

「ミナさんのその笑顔、やっぱ好きだなぁ」
「もう、何言ってるの」

無意識なのか意識的になのかは知らないが、こうやってミナを口説くというのはどうあっても見過ごすことは出来ない。本人は友情のつもりだろうと、その友情が恋情に変わらないという保証などどこにもない。今は友情、それで済むだろう。だがそれがいつしか恋へと変わったら?愛に育ったら?そんな可能性は、ミナが黒羽快斗を意識するしないに関わらず排除すべき点なのだ。

「ミナさん」
「あ、透さん!お帰りなさい」

声をかければ、黒羽快斗がぎょっとしたように顔を上げた。……俺が一緒だということを知らなかったのか。

「卵買えました?」
「ええ、ばっちりです。……ところで、そちらは……黒羽くん、だよね。こんなところで何を?」

にこりと笑って問うが、やはりというか先程の男と同じというわけにはいかない。黒羽快斗は一瞬ぽかんとしたような表情を浮かべたが、すぐに目を細めてポケットに手を入れで目を細めた。

「偶然ミナさんと会ったからちょっと話してただけですよ」
「新作のマジックを見せてもらっていたんです」
「ホォー、それはそれは」

笑顔の牽制も黒羽快斗には効かないらしい。こちらの意図は察しているだろうに何処吹く風だ。彼はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて軽く肩を竦めるとミナさんに視線を戻して小さな笑みを浮かべた。

「それじゃあミナさん、また嶺書房で」
「うん、またね」
「あーっと、それから……安室サン、でしたよね」

ふと、立ち去りかけた黒羽快斗が足を止める。それから振り返ると、口角をきゅっと上げて笑った。

「男の嫉妬は見苦しいぜ」

生意気なその表情に、得意げなその声に、鋭く突き刺すようなその言葉に。情けないことに俺は、小さく息を飲んだまま動くことが出来なかった。
そう、嫉妬。嫉妬だ。あまりに自分に馴染まない不慣れな感情。慣れない感情に振り回されるというそんな経験を、三十を目前にした今体験している。
ミナを取られたくない。ミナには俺だけを見ていて欲しい。その気持ちはかつて幼い頃にエレーナ先生に抱いていた気持ちと全く同じもの。体や心が成長しても、今まで抱く機会のなかった感情は成長してくれなかったらしい。幼いままの嫉妬心は俺の胸の内で燻り、胸をざらつかせている。
言いたいことを言って満足したらしい黒羽快斗は、そのままひらりと手を振って今度こそ去って行った。その背中を見つめながら強く拳を握り締める。

「嫉妬……?なんのこと……?」

きょとんと首を傾げるミナの言葉で、いつしか詰めていた息を吐き出した。視線を下に下げれば、心配そうにこちらを見つめるハロもいる。

「……帰りましょうか」

そう呟けば、今度はミナが心配そうに俺を見た。俺の様子がいつもと違うことにはこんなにすぐに気付くのに、自分に向けられた下心や好意には気付きやしない。鋭いんだか鈍いんだかわかったもんじゃないが、俺は彼女のそういうところも好ましく思っている。

「……黒羽くんの言った通りですよ、僕は嫉妬したんです」
「……ヤキモチ、ですか?透さんが?」

そんな「誰に?」みたいな顔をしないで欲しい。これから先、俺がこんな感情を抱くのはたった一人で充分だ。
帰り道を歩きながら思わず苦笑した。

「ええ、そうです。ヤキモチ。あなたが他所の男に靡くんじゃないかと気が気じゃないんですよ」
「他所の男に、って……え、えぇ……?!」

卵の入った袋を持ち替えて、空いた方の手でミナの手をそっと握る。ぴくりと震えた指先は、けれども振り払われることはなくそのままだ。抵抗されないのを良いことに指を絡めて握り直した。

「僕は、嫉妬という感情に慣れていません。慣れないこの感情とどう向き合えば良いのかわからず、持て余しています。お恥ずかしい話ですが」
「……えっと、意外です」
「ふふ、僕もそう思います」

意外だった。
赤井に対する怒りとも違う、国を守ると決めた時の激情とも違う、胸を掻き立てるようなこの感情。こんな気持ちが、俺にまだあっただなんて。

「あなたを疑っているわけじゃないんです。ただこの嫉妬という感情がよくわからなくて、……そうですね……自信が、ないのかもしれない」
「透さんが自信ないなんて……すごく、意外です」
「僕は何事にも自信を持てるだけの土台を作ってきたつもりでいます。けれど嫉妬心に関しては……ミナさんのような存在が、僕には今までいなかったので。土台を作る材料もなかったんですね」

嫉妬心は俺の余裕を削っていく。なるほど、とても新鮮な気分だ。同時に情けなくもなるが、苦笑する俺の隣でミナが小さく笑った。

「……でも、その……ちょっと、嬉しいです。透さんがヤキモチ妬いてくれるなんて」

嫉妬心を向けられることには慣れていても、嫉妬心を抱くことに関して俺は初心者だ。醜い嫉妬心、なんてよく言うものだが、俺の嫉妬心も醜いものなのだろうか?そうでないことを祈る。
ほんのり照れたように頬を染めるミナを見て、小さく息を吐いた俺は一度目を閉じてから顔を上げた。

「この嫉妬心にも慣れてみせますよ。土台を作って自信を持って、僕の恋人は世界一可愛いでしょう、なんて笑えるように」
「そ、それは恥ずかしいです!」
「覚悟しておいてくださいね」

家に帰ったら、今日一日モヤモヤさせられた分たくさん抱き締めよう。腕の中に閉じ込めて、俺にしか目を向けさせないように。
いずれ慣れると豪語した嫉妬心だが、たまには小さな嫉妬の欠片も落としてみよう。
彼女はきっと、ほんのり頬を染めて小さく笑うだろうから。