「……申し訳ないが、人選ミスじゃないか」

私の目の前に座る赤井さんは、呻くようにそう言った。大体いつでも涼しい顔をしている赤井さんがこんな難しい顔をするのはなんだかちょっと珍しい気がする。とは言っても、私は赤井さんとそこまでまだ仲が良いわけじゃないんだけども。でもなんだか付き合いが浅い気もしないので。

「そこを何とか……頼れる人って赤井さんしかいなくって」
「新一は?彼の方がこういった相談事には向いていると思うが」
「その新一くんからの推薦ですよ、赤井さん」

正直真っ先に頼ったのは新一くんだった。けど、私の話を一通り聞いた彼は「そういうことなら赤井さんに聞いてみたらいいと思いますよ。あの人、今降谷さんの一番近くで仕事してるし何か知ってるかも」と宣ったのである。
新一くんの提案を受けて、お忙しいのは重々承知の上だが相談したいことがあるから少しお時間いただけないかと赤井さんに連絡を取ってみたところ、会うこと自体には快くOKしてくれた。米花駅前のコーヒーショップで待ち合わせをして話を切り出したのだが、私の相談事を聞いた赤井さんは難しい顔で考え込んでしまったのである。そんな難しいことを相談したつもりはないんだけど。

私の相談事と言うのは、恋人である零さんに誕生日のプレゼントを贈りたい、というもの。透さんから零さんへと呼び方が変わったのはつい先日のこと。零さんが抱えていた大きな案件に片がついたようで、彼の本来の職業や名前に関して教えてもらった。零さんはお巡りさんの中でも少し特殊な部署にいるらしく、警察官だということは教えてもらったけどその内情に関しては話せないとのことだった。
以前にも増して忙しく過ごしている彼の誕生日を知ったのも、丁度その時。ずっと聞いてみたいと思っていたから思い切ってみたのだが、あっさり教えて貰えてほっとした。……まぁ、誕生日自体は一ヶ月くらい過ぎてしまっていたのだけど。
でも、せっかく教えてもらった誕生日だ。昔の友人が「誕生日プレゼントは前後半年受け付けてるから!」と言っていたのを思い出し、一ヶ月遅れくらいなら構わないだろうと思い立ったのである。零さんに誕生日プレゼントを渡したい。日頃のお礼だとか、日頃お疲れ様の気持ちを込めて、何か少し良いものを。
だがそこで問題が発生。零さんが何を貰ったら喜ぶか、私には一切予想が出来なかったのである。というか、何を渡しても平等に喜んでくれるだろうことがわかるからこそ困ったのである。初めて渡す誕生日プレゼントだ。どうせなら記憶に残るものというか、彼が欲しがっているものだとか……そういうものをプレゼントしたいじゃないか。
かと言って、前もって欲しいものを聞くというのも面白みに欠けるというか、どうせならびっくりさせたい。でも私には零さんから欲しいものを聞き出せるような手腕はないし、困り果てた私が新一くんを頼った結果、赤井さんに白羽の矢が立ったということなのである。

「君や新一は何か勘違いをしているようだが、俺と降谷くんは今は一緒に仕事をしているというだけで仲は良くないぞ。俺は未だに彼に嫌われているしな」
「……え、お二人の仲の悪さって、お互いを良く知っているが故とかそういうわけじゃないんですか」
「当たらずとも遠からずだが。降谷くんのことは良く知っているよ。だが俺は彼に隠し事をしているし、そのことに彼自身気が付いている。そう簡単に埋められるような溝ではないんだよ」

溝を埋めたいとは、ずっと思っているのだがね。赤井さんはそう言ってコーヒーを啜った。
その表情は変わらなかったけど、少し下げられた緑の瞳は何かを耐えるような、それでいて寂しげな色を湛えている。……赤井さんの言葉を疑うわけじゃないけど、赤井さんと零さんの間に深い溝があるというのはどうやら本当のようだ。
赤井さんは零さんに言えない何かがあって、零さんはそのことに気付いていて、お互いには譲れない何かがあって。私は零さんのことはもちろん大好きだし、でも赤井さんのこともやっぱり知り合いとして……烏滸がましいと言われてしまうかもしれないけど、友人として好きだし、少しでも二人の溝を埋める手伝いが出来たらいいのにと思う。
だから。だったら、やっぱり。

「……尚更、協力してください。赤井さん」
「君も強情だな。人選ミスだと言ったはずだが」
「人選ミスなんかじゃないです。新一くんの判断は正しい。私、男性にプレゼントをする経験なんてあまりなくて……本当に好きな人だからこそ、絶対に失敗したくないんです」

零さんは酒や煙草といった嗜好品がない。ネクタイは以前プレゼントしたし、好きなのは料理というのは聞いたことがあるけど、かといってキッチン用品をプレゼントというのも何か違うし、そもそもキッチン用品に関しては彼の方が詳しくこだわりも強いと思う。ひとつ思い付いたのは万年筆、だけど……零さんなら万年筆くらい当然持っているだろうし、何本も持っていたとしたら邪魔になるだけだと思うし……。考えれば考えるほど埒が明かない。
私が俯いていたら、赤井さんが溜息を吐くのが聞こえた。

「……ここのところ降谷くんが腕時計をしていなくてな。気になったから風見くんに聞いてみたんだが、つい先日作戦中に壊れてしまったそうだ。腕時計ならば、喜んでもらえるプレゼントになるんじゃないかな」

ぱっと顔を上げると、頬杖をついた赤井さんがこちらを見つめていた。眦は少しだけ下がっていて、先程よりも柔らかい表情をしている。

「腕時計」
「ああ。腕時計のブランドならいくつか心当たりがある」
「もしかして、付き合ってくださるんですか?」
「君の熱意に負けたよ」

ほっとした気持ちと嬉しい気持ちが胸に湧き上がって思わず笑顔になる。コーヒーを飲み干した赤井さんはそのまま伝票を持って立ち上がると、苦笑を浮かべながら肩を竦めた。

「君というきっかけが、俺にも必要なのかもしれん」
「きっかけ、ですか」
「あぁ。さぁ、買うなら急ごう」

先にレジに向かってしまう赤井さんをぽかんと見送ったものの、すぐに我に返って慌てて私もコーヒーを飲み干した。すっかり会計を終えてしまっていた赤井さんにお礼を言いながら頭を下げたけど、彼は気にした様子も一切見せなかった。


***


その後赤井さんに連れられて腕時計のお店を数店舗周り、結局米花百貨店の中で理想のものに出会うことが出来た。
夜空を思わせる濃紺のベルトと同色の文字盤。時計の縁と文字、針は全て美しいシルバーだ。控えめに文字盤に埋め込まれたスカイブルーの石が彼の瞳を思わせる。
目に入った瞬間に絶対これしかないと思った。彼のグレーのスーツにきっとよく似合うと思う。
お値段は以前プレゼントしたネクタイを軽く上回ったけど、今までの彼への恩や、何より零さんが喜んでくれたらと思えばちっとも痛くなかった。
赤井さんの手首をお借りしてベルトの調節をしてもらい、満足してそれを購入。一緒に色々考えてお店に連れて行ってくれた赤井さんには足を向けて寝られない。

「赤井さん、本当にありがとうございました」
「いいや、気に入るものがあって良かった。……君みたいな女性が降谷くんの傍にいると思えば安心だな」
「え?」
「こちらの話だ。君の姿勢に俺も背中を押されたということだよ。これから先何があっても、君の存在があれば降谷くんは大丈夫だろう」

よくわからないけど、褒められているということだけは何となくわかった。何だか恥ずかしくなってしまって「恐縮です」と返すに留める。
「この先何があっても」なんて、ちょっと不穏な言い方だな。もちろん零さんみたいな職業の人が危険と隣合わせの日々を送っていることはわかっているけど、それでも出来る限り安全に平穏に過ごして欲しいと願ってしまうのは私のワガママだ。……私の存在に大層な力があるとは思わないけど、赤井さんの言う通りだといいな。

赤井さんと並んで米花百貨店を出た直後のことだった。

「ミナ!」

呼び止められて驚いて振り返る。かつかつと音を立てながらこちらに歩み寄ってくるのは、グレースーツ姿の零さんだ。思いがけないところで彼に会えたことに笑みが浮かびかけるが、彼の表情を見て小さく息を飲む。
零さんは鋭く目を細め、少し睨むように眉を吊り上げている。理由は分からないが、何だかとても怒っているみたい。普段ほとんど見ることの無い彼のその顔に、歩み寄りかけた足が止まった。

「何をしていた?」
「な、何って……零さんこそ、どうしてここに……」
「質問をしているのは俺の方だ。俺がどうしてここにいるかなんてどうでもいい。答えろ、そこの男と二人で何をしていたのかと聞いているんだ」

こんな零さんの怖い声、初めて聞いた。
彼は間違いなく怒っている。それも、今までにない程にすごく。どきどきと胸が嫌な音を立てるのを感じながら、私は無意識に息を飲んだ。

「降谷くん、少し落ち着いたらどうだ。君は何か勘違いしている。俺と彼女は、」
「貴様には聞いていない。口を閉じろ赤井秀一」
「あ、あの、零さん、赤井さんは私の買い物に付き合ってくださっただけで」
「買い物?……へぇ、そう。わざわざ赤井と?どんな買い物に付き合わせたのか、是非ともお聞かせ願いたいな」

理想のプレゼントを買えて満足していた。零さんが喜んでくれるのを想像して笑みも零れた。そんな浮かれた気持ちも、あっという間に萎んで冷えていく。
腕に持った腕時計の袋が、急にずしりと重くなったような気がした。まさかこんな空気の中、「あなたの誕生日プレゼントを買う相談に乗ってもらいました」だなんて言えるはずもない。こんな状態で渡したとしても、絶対に喜んでなんて貰えない。せっかく買ったのに喜んでもらえないのは嫌だ。それだけはどうしても避けたかった。

「降谷くん、彼女の言うことは本当だ。俺達は買い物に来ただけで」
「はっきり言ったらどうなんだ。男女が二人きりで出かけるなんて、答えはひとつしかないだろ」

零さんのその言葉に、まるで冷たい氷を飲まされたようだった。喉元から胸を伝い、お腹の辺りまでがすーっと冷えていく。心臓が凍り付いたかのような錯覚を覚えながら、私は零さんから目が離せなかった。
零さんがどうして怒っているのか、彼が何を言わんとしているのかを少しずつ理解して呼吸が浅くなる。

「なかなか家に帰れない俺に愛想でも尽かしたか? 裏切られた気分だよ、とんだ笑い話だ」

鼻で笑ったようなその言葉と言い方に、凍りついた心がぱきんとひび割れる。それが限界だった。
目の奥が強く痛み、瞼が熱くなる。目の前が滲んで咄嗟に俯いた。
腕時計の入った袋を無理矢理零さんに押し付けて、そのまま赤井さんに頭を下げる。

「あ、あの、今日は、ありがとうございました。お礼は、また今度……あ、……改めて、させてください。ごめんなさい」

喉の閉塞感を堪えながら何とかそう絞り出して、私はそのまま二人の顔も見ないまま駆け出した。後ろから赤井さんが私を呼び止める声が聞こえたけど、足を止めることなんて出来なかった。
ただただ悲しかった。胸が痛んで胸が震えて、ひゅうと息を吸い込んだ途端にぼろぼろと涙が零れた。
でも、もしかしたらこの悲しみもお門違いなのかもしれない。私が勝手なことをしなければ零さんは怒ることもなかったし、赤井さんに嫌な思いをさせてしまうこともなかった。全部私のせいだ。
愛想を尽かしただなんて、裏切っただなんて、思われたくなかった。でもそう思わせてしまったのは私で、きっと私も零さんのことを傷付けたんだろう。どうして私はいつもこうなんだろう。肝心な時に失敗して誰かを怒らせたり傷付けたり。情けなさに反吐が出る。でも、そう考えても強い悲しみは私の心を覆い隠したまま少しも晴れてくれない。
ああ。喜んで欲しかった、だけなのになぁ。


***


気付いたら、私は米花公園までやって来てしまっていた。
いつも子供達で賑わっているイメージがあるけど、今は誰もいないし人気もない。しんと静まり返った公園の中は少し寂しげだけど、今の私には心を落ち着ける最適な場所に思えた。
とぼとぼと歩いて、ブランコへと腰かける。昔はちょうど良かったブランコの高さも、今座ってみるとものすごく低くて座りづらい。それはそうだよね、子供と大人じゃ身長も全然違うんだから。ほんの少しだけ揺らしてみたが、キィキィと軋む金属の音が虚しくてやめた。
涙は、止まっていた。悲しみはほんの少しだけ薄くなったものの変わりに残ったのは虚無感だ。ブランコの鎖を握りながら、ぼんやりと地面に視線を落とす。
これから、どうしよう。帰らないわけにいかないけど、どんな顔で零さんと顔を合わせたらいいのかわからない。私と赤井さんにそんなつもりは一切なかったけど、零さんからしてみたら浮気現場を目撃したということなんだろうしどうしようもない。弁解も受け入れて貰えなかった。改めて説明をしたところで、彼が聞き入れてくれるとは少なくとも今は思えなかった。
でもそこまで考えて、そういえば最近零さんはあまり家に帰って来れていなかったなと苦笑した。今日会ったのも数日ぶりで、だから本当は嬉しかったのにな。最悪な結果になってしまった。

「あれ?ミナお姉さんだ!」

幼い声がしてのろのろと顔を上げれば、公園の入口に立っていたのは歩美ちゃんだった。ぶんぶんと手を振っているので少しだけ手を振り返すと、にこにこと笑いながらこちらに駆け寄ってくる。手に持った買い物袋は少し重そうだ。お使いの帰りかな。
歩美ちゃんは途中まではにこにことしていたけど、近付いて私の泣き腫らした顔に気付いたのかぎょっと目を見開いた。一度足を止めて、すぐに慌てたように傍へと来てくれる。

「ミナお姉さん?!どうしたの?泣いてたの?」
「ぅ、うん。……ちょっと、ね。……歩美ちゃんは、お使い?」
「うん!お醤油買ってきたんだ。ママから頼まれたの。それより、ミナお姉さんは?……目、真っ赤になっちゃってる」

歩美ちゃんはお醤油の入った買い物袋を傍に置くと、私の目の前にしゃがみ込んで覗き込んできた。

「お姉さん、すごく悲しそう。大丈夫?」
「……だいじょうぶ、じゃ、……ないかも、」

言葉にすると、止まったはずの涙は再び零れ落ちてきた。
歩美ちゃんはポケットからハンカチを出すと、それで私の涙を優しく拭ってくれる。
本当に優しい子だなぁ。こんな優しい子に心配をさせてしまっているのが申し訳なくなる。情けない大人の相手なんか、させるべきじゃないのに。けれど差し出された小さくて温かい優しい手を、突っ撥ねることは私には出来そうにない。

「っ、ご、……ごめん……ごめんね、歩美ちゃん……」
「ミナお姉さん」
「わ、……私が、悪いの。全部私のせいなの、……でも、悲しくて、仕方ないの……!」

零さんが私に向けた鋭い瞳を思い出すと苦しくてたまらない。すごく怒っていた。まるで敵を見るような瞳だった。鋭い視線に射竦められて、怖くて、悲しくて。

「ごめん、迷惑だよね、……すぐ、すぐに、泣き止むから、……情けない大人で、ごめんね」

こういう時、私は謝ることしか出来なくなる。謝れば済むと思ってるわけじゃない。謝罪を軽く見てるわけじゃない。ただ、本当に申し訳ないと思っていて、言わずにはいられないのだ。謝罪を祈りの代わりとして口にしているという自覚はある。これは私の弱い部分で逃げなのだとわかってはいるけど、謝罪に縋ることをやめられない。

「あのね、ミナお姉さん。こないだ、クラスでね、大人になったら泣いちゃダメだ!って言ってる男の子がいたの」

歩美ちゃんの言葉に顔を上げる。また零れた涙を歩美ちゃんが拭ってくれて、すっかり湿ってしまったハンカチを手に彼女はじっと私を見た。

「でも歩美はそうは思わないよ。大人になったら泣いちゃいけないなんて、誰が決めたの? 大人にだって泣きたくなる時はあると思うの。だって、子供が悲しいって思うのと同じように、大人だって悲しいって思うことがあるでしょ? 今のミナお姉さんみたいに」

小さな手が私の手をそっと握る。その手は温かくて、縋るようにぎゅうと握り返す。歩美ちゃんは優しく笑った。

「歩美も悲しい時はたくさん泣くの。だから、ミナお姉さんもたくさん泣いていいよ。情けなくなんてないよ。他の人が泣いちゃダメって言っても、歩美が泣いていいよって言ってあげる」

小さな体を抱きしめて、他に誰もいないのを良いことに声を上げて泣いた。
私が泣いている間も、歩美ちゃんは私の頭や背中を優しく撫でてくれて、この子の人に寄り添う姿にますます涙が零れた。
泣いていいよと言われて、泣かずにいられるはずなんてない。思い切り泣ける場所が欲しかった。それを、歩美ちゃんは私に与えてくれたのだ。
私は多分、泣き虫なんだと思う。前の世界で過ごしていた時は泣くなんてことほとんどなかったけど、それは多分泣き方を忘れていただけで。泣ける場所が、なかっただけで。
この世界は、この世界の人達は、私に甘くとても優しい。だから、泣くことを許されているような気がしてしまう。自分が泣き虫だったなんて、この世界に来なければ自覚もしなかったかもしれない。

「……き、……傷付け、ちゃったんだぁ……」
「傷付けた?……ミナお姉さんが? 誰を?」
「……よ、喜んで、欲しかった、だけなの。でも、私、……いつも、肝心な時に、失敗しちゃう」

しゃくり上げる私の声は酷いもので、きっと歩美ちゃんは支離滅裂な私の言葉に困惑していることだろう。それでも彼女は、少し戸惑ったように手の動きを止めただけですぐにまた私の背中を優しく叩いてくれた。あまり深くは話せないけど、それでも誰かに弱音を聞いて欲しかった。

「ど、……どうしよう、歩美ちゃん……私、これから、どうしたらいいのか……わからないの、」

零さんともう一度きちんと話をする。そうしなければいけないのはわかっていた。少なくとも零さんは私と赤井さんのことを誤解しているし、そこをちゃんと解消しなければ何も進まないのは理解している。だけど今の私はちっぽけで弱っちくて、零さんと対峙する勇気さえない。
私はこの世界で零さんと共にいることを選んだ。零さんがいるこの世界を選んだ。零さんに見放されたら、これから先どうしたら良いのかわからない。

「……、……あ」

ふと、私の腕の中の歩美ちゃんが小さく身動ぎした。何かに気付いたような動きに、私も彼女の肩口に埋めていた顔をゆっくりと上げる。
私と歩美ちゃんから数歩離れたところに、零さんが立っていた。少しだけ息を切らせていて、その手には私が押し付けた腕時計ブランドの紙袋が握られている。彼の目を見るのが怖くて、咄嗟に視線を地面に落とした。
零さんは、何も言わない。私も口を開けない。そんな状況に挟まれた歩美ちゃんは私と零さんを見比べていたけど、やがて覚悟を決めたように私から腕を離して零さんの方へと向き直った。

「安室さんが、ミナお姉さんを泣かせたの?」
「……どうして、そう思うんだい?」
「安室さんのことが大好きなはずのミナお姉さんが、安室さんの方を見ようとしないから。それに、ミナさんが泣いていたら安室さんだってびっくりして絶対に声をかけるでしょう? 安室さんちっともびっくりしてないし、声をかけないでじっと見つめてるだけなんておかしいもん」
「……なるほど、名推理だね歩美ちゃん」
「歩美だって少年探偵団の一員だもん」

歩美ちゃんの言葉に、零さんが小さく笑う気配がした。
口を挟めないまま手のひらに爪を立てて拳を握る。

「ミナお姉さんは、誰かを傷付けちゃったって泣いてたの。でも歩美はミナお姉さんの方がたくさん傷付いてると思う。安室さんは、どう思う?」
「歩美ちゃんの言う通りだよ。僕がミナさんを傷付けて、泣かせたんだ」
「安室さんサイテー!」
「耳が痛いな」

そっと顔を上げると、零さんは少しだけこちらに歩を進めて歩美ちゃんの前にしゃがみ込んだ。それから一瞬私の方を見て、再度歩美ちゃんに視線を合わせる。その様子からは、先程のような怒った様子とか怖い表情は窺えない。いつも零さん、のように見える。

「またミナお姉さんを傷付けて泣かせるの?」
「泣かせてしまうかも。でも、傷付けたりはしないよ」
「本当? 絶対、傷付けたりしない?」
「約束する」
「……わかった。それじゃあ、どいてあげる」

くるりと振り向いた歩美ちゃんがそっと私の手を握った。温かくて優しい、小さなそれをそっと握り返す。
零さんと対峙するのも、話をするのも、本当はまだ怖い。でも、歩美ちゃんが泣ける場所をくれたから、萎んでいた勇気がほんの少しだけ湧いてくるような気がする。本当に、ほんの少しだけど。
ぐいっと涙を拭って鼻を啜り、じっとこちらを見つめる歩美ちゃんに頷いて見せる。弱音も吐いた。たくさん泣いた。ちゃんと、話をしなくちゃ。

「……ありがと、歩美ちゃん」
「ううん。歩美は何もしてないもん。それじゃ、歩美帰るね」
「一人で大丈夫?」
「うん、まだ明るいから!何かあったらすぐに探偵バッジで連絡するよ!」
「わかった。……気を付けてね」

さっきまでたくさん撫でてもらったお礼に、今度は私が歩美ちゃんの頭を撫でる。彼女は少し照れくさそうに笑って肩を竦めると買い物袋を持ち直して頭を下げる。

「それじゃ、ミナお姉さん、安室さん、さようなら!」

大きく手を振って走っていく歩美ちゃんの背中が、公園から出て路地を曲がるまでを見送って小さく息を吐く。


相変わらず、公園にも公園の周りにも人気はない。
歩美ちゃんがいなくなれば、自然とその場には静寂が満ちた。時折吹く風が木々を揺らしたり、少し離れた通りを走る車の音が聞こえてくるけど、それらもどこか遠い世界のようで。
いつしかぼんやりとしていて、視線は下がり自分の膝に向けられていた。ブランコの鎖を握って、どう切り出したら良いのか模索する。
卑屈な自分を自覚しながら、それでも前向きに考えたり前向きな言葉を口にすることが出来ない弱い自分。言いたいことも、謝りたいこともあるのに、沈黙の末に私の口から零れたのは掠れた情けない声だった。

「……別れましょうか、」

ぽつりと呟いて、思っていたよりもダメージがないことに驚く。
別れたいわけじゃない。別れたいだなんて思うわけがない。だけど、私も零さんもお互いに一番傷付かなくて済むのは、別れることなんじゃないかと思ったのも事実だ。
そもそも私はいつだって零さんにおんぶに抱っこで、ここまでずっと彼に甘えてきてしまった。……もしかしたら、いい機会なんじゃないか。幸いこの世界にも慣れたし、一人暮らしでなんとか生きていけるくらいの収入もある。一人暮らしをするなら仕事も少し増やさないといけないけど、以前の生活に比べたら天と地ほどの差がある。
私はもう、この世界で一人で生きていくことだって出来るのだ。

「それが、君の願い?」

返ってきたのは、拒否でも承諾でもない問いかけ。その問いかけは、別れを受け入れられるよりも何故だか辛いことのように感じた。
願い、と言われたらきっとそうじゃない。ただ、願うことが最善だとは限らないことも私は知っているから。上手く返事することも出来ずに、口を閉ざしたまま身を固くした。
逃げてばかりの私。立ち向かうことの出来ない私。きゅっと唇を噛んで眉を寄せれば、零さんが深い溜息を吐くのが聞こえた。

「わかった。なら、君との恋人関係は今この瞬間を以て解消だ」

なんてあっさり。なんて呆気ない。
おかしいな。私は一体どこで何を間違えたんだろう。本当なら今頃、零さんへの誕生日プレゼントをどうやって渡そうかと胸を躍らせながら考えていたはずなのに。
でも、私は選択を間違えたりなんかしていないと今でも思っているのだ。新一くんに相談したこと、新一くんから赤井さんを推薦してもらったこと…そして、赤井さんにプレゼントを選ぶのを手伝ってもらったこと。赤井さんだからこそお願いしたいと思ったし、それは零さんと赤井さんの間にある溝のこともあった。
でも、やっぱり間違っていたのかな。全部私の身勝手な行動で、罰が当たったんだろうか。あれこれ考えたところで、終わってしまったことはもうどうしようもない。
まだ彼の顔を見ることは出来ないけど、せめてきちんと今までの感謝を伝えないとと息を吸い込む。

「……あの、……今まで、ありが」
「だからただの降谷零として、もう一度言う」

言葉を遮られて反射的に顔を上げる。零さんは私の目の前までやって来て私の前に膝を着いた。零さんはブランコに座っている私よりもほんの少しだけ視線が下で、新鮮な視界に息を飲む。
零さんの表情が、珍しく少し緊張しているように見えるのは気の所為だろうか。彼の手が優しく私の手を包み込み、そっと握り締める。

「君が好きだ。どうか俺の、恋人になって欲しい」

とくん、と胸が高鳴る。
何を言われたのかよくわからなくて、上手く言葉にならない。口から零れるのは、声になり損ねた吐息だけ。
そんな私を見て、零さんは私の手を握る自分のそれにぎゅうと力を込めた。

「ミナ、君を愛してる。……悪かったと言って許してもらえるとは思っていない。君に酷いことを言って傷付けた。すまない」
「……零さんが謝る必要なんて、何も」
「赤井に一発殴られて頭が冷えた。…癪だけど、赤井から全部聞いたよ。俺は君に八つ当たりをしただけだ。つまらない八つ当たりで、ミナの気持ちを踏み躙った」

殴られたって。……そう言えば、よく見ると零さんの唇の端がほんのり切れている。血は出ていないようだけど、もしかしたら舐めたのかもしれない。
本当にごめん。そう言うと、零さんは一度私の手を離して紙袋から腕時計の入った箱を取り出した。
赤井さんに協力はしてもらったけど、私が選んだ零さんに似合うと思った腕時計。喜んでもらいたいと思いながら一生懸命に選んだプレゼント。開けても良いかと聞かれたので頷くと、零さんは丁寧に包装紙を剥がして箱を開けた。

「腕時計……」
「何をプレゼントしたら、喜んでもらえるかわからなくて……それで、赤井さんに協力してもらったんです。……最近腕時計が壊れたらしいから、腕時計なら喜んでくれるんじゃないかってアドバイスもらって」
「……」
「……どうしても、何か残るものをプレゼントしたかったんです。……よ、喜んで欲しかった……です。一ヶ月遅れだけど、零さんに贈る初めての、誕生日プレゼントだから」

話しているうちにつんと鼻の奥が痛んで視界が滲んだ。緩んだ涙腺はちょっとつつかれただけでも大ダメージだ。ず、と鼻を啜れば、零さんは箱から腕時計を取り出して私の手に握らせた。

「さっきの返事を聞かせてくれ」
「……へんじ、」
「もう一度、恋人になってくれ。泣かせてごめん。傷付けてごめん。でも俺は、君を手放すなんて出来ない」

握らされた腕時計に視線を落とす。
買ったばかりでまだ硬いベルトも、これから零さんの手首に馴染んでいくのだろうか。同じ穴で留めるようになって、穴が広がって、それを愛おしく見つめる日が来るだろうか。それだけ、長く、大切に使って貰えたら、なんて。

「……手、貸してください」

小さく呟いて、差し出された零さんの左手を取る。腕時計を彼の左手首に着けて、きつ過ぎず緩過ぎないところでベルトを留めた。
この腕時計を買う時、零さんがこれを着けているのを想像して胸が疼いた。やっぱり思った通りだ。すごく、似合ってる。
彼の手を取って、両手でぎゅうと握り締めた。
大丈夫。今度はちゃんと、言葉に出来るから。

「私も、好きです。……別れたくなんてなかった。ちゃんと気持ちを伝える勇気がなくてごめんなさい。あなたを傷付けてしまって、ごめんなさい。……だから……私ともう一度、恋人になってください、」

勢いよく立ち上がった零さんに強く抱きしめられて息が詰まった。
感じるのは、彼の香水と汗の匂い、それから心臓の鼓動の音。呼吸の音。急激に胸が満たされるような心地になって苦しくなった。
私だって、大好きなこの人のことを手放すなんて出来るはずがない。そんなこと、わかり切ってたはずなのに。
一人で生きていくことは出来る。でもきっと、彼のいない人生に意味はない。

「……やっぱり、泣かせてしまったな」

零れる私の涙を指先で拭いながら零さんが言った。先程歩美ちゃんに言ったことだろう。思わずくすりと笑って、緩く首を振る。

「傷付いてないから、いいんです。これは嬉し涙です。……歩美ちゃんに、今度改めて謝罪とお礼をしなきゃいけませんね」
「そうだな」
「赤井さんにも」
「……善処する」

意外な返答に目を瞬かせた。てっきり「赤井はいい」なんて突っぱねた返事が返ってくると思っていたのに。表情はとても苦々しいけど、それでももしかしたら、零さんなりに赤井さんに歩み寄ろうとしているのかもしれない。
二人の溝は、きっと少しずつ無くなっていくだろう。そんな予感に笑みが浮かべば、零さんは笑う私に気付いて罰が悪そうな顔をした。

「帰ろう」

差し出された手に自分の手を重ねる。沈みかけた太陽の光を反射して、彼の腕時計がきらりと光った。

誕生日プレゼント、ありがとう。すごく嬉しいよ、本当に。ずっと大切にする。
零さんが、ぽつりぽつりと噛み締めるように呟いた。繋いだ手を握り返しながら私は笑う。最初から、私の願いはただひとつだった。彼に喜んでもらえたら、それが私の喜びになる。
生まれてきてくれてありがとうございます。照れくさいけどどうしても伝えたかった。零さんは少し驚いたように私を見て、それから、とても綺麗で……ほんの少し泣きそうな顔で、笑った。