「私、両親に会ったことないの」

きっかけは、私のそんな何気ない一言だった。

仕事も用事もない日曜日のことだった。そう言えば最近ポアロに行っていないなぁなんて思って、一度思い出してしまえば無性にポアロのカフェラテが飲みたくなるのもまぁ必然のことで。
今日の透さんはスーツ姿で出ていったから探偵のお仕事か、恐らくは私のよく知らない本職の方。彼がポアロにいないのはわかっていたけど、透さんがいるいないに関係なくポアロは私のお気に入りの喫茶店。思い立ったことだし天気も良いし、せっかくだから出かけようなんて考えて、向かったポアロには先客が一組いた。
今日はポアロでモーニングなんですなんて笑う蘭ちゃんと、まだ少し眠そうな毛利さんと、笑顔で挨拶を返してくれるコナンくん。三人に促されるような形で同じテーブルにお邪魔させてもらったのだが、話の流れで私の家族の話題になったのである。

「いやぁそれにしても本当にミナさんは素敵なお嬢さんだ。ご両親も鼻高々でしょう!」
「そんなことないですよ。……でも、そう思ってくれているといいなと思います」

孝行も何も出来なかったのが心残りだけど、今はきちんと生きていくことが最大の孝行になるんじゃないかと思えるようになった。そんな考え方が出来るようになったのは、透さんと出会ってこの世界に来て、たくさんの優しさに触れたから。この世界が無かったら、今の私も無かっただろうと思う。
そんなことを考えていたら、オレンジジュースを飲みながら私と毛利さんのやり取りを見つめていたコナンくんが口を開いた。

「ミナさんのお父さんとかお母さんってどんな人?」

そんな問い掛けを受けて、冒頭の一言を口にした瞬間その場の空気が凍った。毛利さんも蘭ちゃんも、問い掛けをしたコナンくんまでもがぽかんと口を開けて、何処か気まずそうな様子で言葉を失っているのである。
私としては気にしていないことなのだが、以前透さんに話した時も気を遣わせてしまったし、もう少し考えて発言するべきだった。
慌てて首を横に振って言葉を繋げる。

「私、祖父母に育てられたんです。父母の概念も幼い頃は無くて……」
「……そ、っか……なんか、ごめんね」
「私にとっては祖父母が両親だから。お父さんもお母さんもいなかったけど、私は他の子に負けないくらい幸せだったし自慢の家族だって言えるよ。ごめんね、気を遣わせちゃって。私自身、父母のことは本当に一切気にしてないの」

また変な気を遣わせてしまわないように、祖父母が既に他界していることも話した。そりゃどちらも亡くなってしばらくは悲しかったり寂しくて泣く日もあったけど、今は日々が賑やかで楽しい。子供から大人まで様々な年代の友達がいて、仕事も楽しいし何より透さんが傍にいてくれる。満たされた毎日の中で、私はたくさん笑いながら生きている。それが事実だ。
私の家庭事情で毛利さんや蘭ちゃん、コナンくんに気まずい思いをさせたくはない。
……と思ったのだが、私の話を聞いた毛利さんは涙ぐみながらこう言ったのである。

「……ッ、く、っ……ミナさん、辛い思いをしてきたんだなぁ……!」
「つ、辛いと思った頃も確かにありましたけど、でも今は幸せですよ。米花町で知り合った皆さんは、私の家族みたいなものですから」
「よぉし!!他でもないミナさんのためだ!!今後、この毛利小五郎のことをお父さんと思ってくれて構わん!!」
「えっ、……えっ?」

毛利さんの突然の言葉に、上手く返事も出来ずに目を瞬かせた。私はもちろん驚いたのだけど、蘭ちゃんとコナンくんはもっと驚いたようで目を見開いて固まっている。
どん、と胸を叩いた毛利さんと、それをぽかんと見つめる蘭ちゃんとコナンくんと私。カウンター奥の梓さんはちらりとこちらを見たけど、すぐに我関せずといった様子で食器を洗い始めた。まぁ、私が梓さんの立場だったとしても関わろうとは思わないだろうな。
一番最初に我に返ったのは蘭ちゃんだった。

「ちょ、ちょっとお父さん……!何言ってるの、もう!」
「おじさん……」
「蘭だってミナさんみたいな姉がいたらとか思ったことが無いわけじゃないだろう!」
「そっ……れは、そうだけど……!」

蘭ちゃんは毛利さんの言葉に言い返せずぐぅと黙り込んだ。そこ黙り込んじゃうんだ。コナンくんは呆れたような顔でオレンジジュースのストローで遊んでいるし、口を挟むつもりは無さそうだ。

「困ったことがあったらなんでも相談に乗ってくれていいし、遠慮せずにぶつかってきてくれていいからな!ミナさんは……いや、ミナは俺の娘みたいなもんだ!」

毛利さんの申し出には驚いたけれど、そんなふうに思ってもらえること自体はとても嬉しかった。おじいちゃんとおばあちゃんを両親として生きてきた私にはそれが全てだったけど、本来の父母の存在に焦がれたことがないわけではない。
そうか。私はこの世界に来て、この街で過ごして……本当に、家族のような存在に出会えているんだな。そのことに密かに感動を覚えながら、私は毛利さんを見つめて笑顔で頷いたのだった。


***


その日、透さんは毛利探偵事務所に用事があり顔を出すのだと言った。ポアロでの業務とはまた別件のようで、何でも毛利さんの請け負った案件のお手伝いをしているそう。新しく入手した情報があるから、それの資料を渡しに行くんだって。

「せっかくですし、一緒に行きますか?」
「え、いいんですか?でも、お仕事の邪魔になっちゃうんじゃ」
「見ます?」

そう言いながら透さんが毛利さんに渡す用の封筒を開けて中から写真を取り出す。え、部外者の私が勝手に見るのはまずいんじゃ。思わずおろおろとしてしまったけど、透さんはくすくすと笑いながらそれを私に手渡した。恐る恐るその写真に視線を落としてみると……そこに写っていたのは、青い目をした涼しげな表情の美人さん。……ただし、猫である。

「……ねこ?」
「えぇ。迷い猫の捜索依頼です。マロンちゃん三歳。行動範囲が米花町だけでなく杯戸町の方までに渡る広範囲だそうで、一人で探すには骨が折れると嘆いておられたので手伝いを申し出たんですよ」
「……な、なるほど」
「真っ白で美しい猫なので目撃情報はそれなりに。売り飛ばされている可能性も考慮して調べてみましたが、その線は薄そうです。どこかに潜んで無事でいるのは、恐らく間違いないでしょう」
「良かった……!早く見つけて保護してあげたいですね」

探偵の依頼、それも毛利さんみたいな超有名な探偵さんのところに舞い込む依頼と言えば、どうしても少しお堅い感じの依頼を想像してしまったけど……迷い猫の捜索なんて依頼も受けたりするんだな。なんだかそういうところに毛利さんの人柄が滲み出ているような気がして思わず小さく笑った。そういう依頼なら、私が同行しても問題はなさそうだ。透さんの言う通り、せっかくなので一緒させてもらうことにする。
透さんと一緒に毛利探偵事務所にお邪魔すると、学校がお休みらしい蘭ちゃんが出迎えてくれた。
中に入ると、応接用のソファーとテーブル。その更に奥が毛利さんの席のようで、デスクと椅子が置いてある。ふふ、日当たりが良さそう。毛利さんは私と透さんに気付くと軽く手を上げてくれた。
ソファーの上にコナンくんの姿もある。

「安室さん、ミナさん、こんにちは。二人が一緒に来るなんて珍しいね」
「えへへ、毛利さんと透さんのお仕事に興味があって……お邪魔させてもらうことにしたんだ」

コナンくんは休みの日は少年探偵団の方に行っているのかと思っていたけど、毎回が毎回そういうわけではないらしい。読んでいた漫画雑誌を脇に置いたコナンくんが少しずれてソファーを空けてくれたので、透さんと並んでそこに腰を下ろした。
そういえばこんな風に毛利探偵事務所に来てまじまじと中を見ることなんてなかったな。なんだかちょっとドキドキするというか、そわそわするというか。楽しくなってきょろきょろとしていたら、コナンくんにやや呆れたような顔で見つめられてしまった。
はしゃいでいるのがバレてしまったのか、蘭ちゃんは私と透さんの前にお茶を置きながらくすくすと笑った。

「ミナさんはちゃんと事務所に入るのは初めてでしたっけ」
「そうなの。仕事場って感じ。すごいね」

ここで数々の難事件を解決しているのかぁ。ちょっとした感動を覚えていたら、毛利さんは私と透さんの向かい側のソファーへと腰を下ろした。それを見た透さんが持ってきた封筒をテーブルの上に置き、わかりやすく資料を広げていく。
マロンちゃんの写真、目撃情報の資料に地図の資料。マロンちゃんが目撃された場所なんだろう、地図にはたくさんの印が付けてあった。迷い猫の捜索とは言っても、毛利さんと透さんの表情は真剣だ。すごいなと思っていたら、後ろから蘭ちゃんに耳打ちされた。

「父、ミナさんがいるからものすごく気合い入れてるんですよ。普段なら迷い猫の依頼なんて面倒くさがるのに」
「えっ、そうなの?」
「おじさんも安室さんに負けてられないって思ってるんじゃないかな。きっとミナさんに良いとこ見せたいんだ」

蘭ちゃん、コナンくんとこそこそと話してから改めて透さんと毛利さんに視線を向ける。毛利さんの質問に透さんが答え、二人で資料を見直してすり合わせをする。マロンちゃんが水嫌いだとか、なら川辺には近付かないだろうとか、ここ数日雨は降ってないだとか、なんかそういう話をしている。話している内容は普通のことなんだけど、この二人が話してるとものすごく難しい話のように聞こえるな……。
時間にしたら三十分もないくらいだったと思う。大体の話し合いが終わったのか、透さんが資料を丁寧にまとめて封筒に入れ直し、毛利さんへと手渡した。毛利さんは封筒を受け取り、凝り固まった肩を軽く回して伸びをしている。

「では、僕の方でも引き続き探してみます。マロンちゃんが立ち寄りそうなところに餌のカゴを仕掛けてあるので、夕方に見に行ってみますよ」
「あぁ、頼んだ」

いやぁ、やっぱりすごいなぁ。探偵さんのお仕事を間近で見るなんてなかなかない機会だ。コナンくんに小さな声で「二人ともかっこいいね」と言うと、コナンくんはきょとんとしてから苦笑を浮かべた。ミーハーだと思われてしまったかな。

「ところで安室くん」
「?はい」

毛利さんが不意に透さんに声をかける。唐突な声掛けだったので、私とコナンくん、それから給湯室で洗い物をしていたらしい蘭ちゃんも顔を出して毛利さんの方を注視している。妙な沈黙の後、毛利さんはこう言った。

「君はミナと男女の付き合いというものをしているんだったな」

お茶を口に含んでいなくて良かったと思う。私は盛大に噎せて咳き込んだが、お茶を飲んでいたら吹き出していたに違いない。私の隣でぎょっとしていたコナンくんも、私の様子を見ると優しく背中をさすってくれる。
というか毛利さん、一体突然何を。

「お、お父さんっ……!」
「蘭は黙ってろ!もちろんコナンとミナもだ」

鋭い視線を向けられて言葉に詰まる。「おっちゃん、変なスイッチ入ったな」とコナンくんが呟いたのが聞こえたけど、恐らく私以外には聞こえていないだろう。
驚く私達とは違って、透さんは毛利さんの言葉にも動じずに小首を傾げた。

「はい。ミナさんとはお付き合いをさせていただいていますが……それが、何か?」

さらりと言葉にしないでほしい。頬に熱が上がるのを感じて顔を両手で挟んだ。手のひらに感じる自分の体温が熱い。
毛利さんが何を言わんとしているのか私には全く予想がつかないけど、透さんは相変わらず冷静なようで静かな笑みを湛えている。毛利さんは透さんをじっと見つめていて、どういう状況なのか頭が追いついてこない。

「……安室くん、お前は確かにとても優秀だ。頭の回転も早いし見目も良い。……まあ、俺ほどじゃねぇが」
「ありがとうございます」
「だからこそ言わせてもらうぞ。ミナはもはや俺にとって実の娘みたいなもんだ。そんな大切なミナを、適当な男のところへはやれん」
「ひぇ、あ、あの毛利さん……!」
「お前に、ミナの一生を背負う覚悟はあるか!!」

あああああ毛利さんなんてことを!!
正直、毛利さんの気持ちはとても嬉しい。私のことを実の娘みたいなものだと言って貰えて、実際にその言葉に違わないくらい良くしてもらって、私にとっても毛利さんは父親のような存在だと言っても過言ではない……と思う。だから嬉しいことに変わりはない。でもそれとこれとはちょっと話が違うというか、いろいろとすっ飛ばしている気しかしない。

「も、毛利先生?」
「その覚悟がないのなら、ミナは嫁にはやらん!」

毛利さんいろいろとぶっ飛びすぎではないだろうか。さすがの透さんの声にもほんの少しの戸惑いが透けている。そりゃそうだろう。
恥ずかしいし、透さんにそんな質問を叩きつけるような度胸は私にはないし、そもそも私に自信が無い。私と透さんは確かに、こ、恋人同士ではあるけど、そんな一生を背負うだとか大それた話はまた別の話だ。
透さんには当然ながら透さんの人生があり、確かに私と透さんの人生が交わっていたらいいと願わないわけじゃない。でもそれは高望みというもの。おいそれと口に出来る事じゃない。
けれど、慌てて遮ろうとした私を透さんが静かに制す。思わず口を噤んで見上げた透さんの横顔は、何故だか挑戦的に微笑んでいるように見えた。

「なるほど、そういうことですか」

透さんはくすりと笑うとそう呟く。何がなるほどで、何がそういうことなんだろう。わからない。
動揺しっぱなしの私を宥めるようにぽんぽんと私の背中を叩き、透さんは真っ直ぐに毛利さんを見据えた。

「ミナさんとの出会いにはいろいろありましたが……彼女と出会ってから僕は、他の女性に目を向けたこともありません。とっくに彼女の人生は僕の背にあると思っています」

給湯室の入口に立っていた蘭ちゃんが顔を真っ赤に染め、両手で口元を覆うのが見えた。でもきっと、私の顔も蘭ちゃんに負けず劣らず真っ赤になっていることだろう。
硬直したままだった私の肩を透さんが抱き寄せて、にこりと笑った。

「ミナさんは、僕が必ず幸せにします」

言葉も出ない。こんな羞恥プレイ耐えられない。透さんの腕の中で顔を覆えば、透さんはくすくすと笑う。何で笑ってるんだ。
隣からコナンくんの「うわぁ」という声が聞こえた。どうか引かないで欲しい。恥ずかしさで死ねるなら、きっと私は今頃心臓が止まっているだろう。

「プ、……プロポーズ……!」

蘭ちゃんの絞り出すような声が聞こえた。何も言わないで欲しい。
こんな状況で顔を上げられるはずもなく、透さんの腕の中でただ硬直したままだった私の耳に入ってきたのは、毛利さんの静かな声だった。

「……ふん、まぁ、及第点だな」

おずおずと顔を上げると、毛利さんは向かい側で腕組みをしたまま鼻を鳴らした。その表情は満足そうでもあり、どこかほんの少しだけ不服そうでもある。どういうことだろうと目を瞬かせていたら、透さんが小さく笑った。

「僕では役不足でしたでしょうが、本番前の練習くらいにはなりましたか?」
「馬鹿野郎!ミナのことを娘のように思ってるのは本当だ!安室くんが適当な男だったらミナは渡さねぇぞ!」

本番前の練習、と小さく呟くと、透さんは蘭ちゃんの方を見てから私に視線を移し方目を瞑った。その様子で、彼の言わんとしていることを理解する。

「……あ、」

そうか。将来、蘭ちゃんがお嫁に行く前の練習。
いつかの未来、蘭ちゃんもきっと結婚する。その時、蘭ちゃんの彼氏……今のままいくとすれば、恐らく工藤新一くんが、毛利さんに挨拶に来る日もあるかもしれない。透さんは、その日の練習だと言っているのだろう。
なぁんだそういうことか、と理解してほっと胸を撫で下ろした瞬間、透さんに更にぎゅうと抱き寄せられる。ひぇ、と悲鳴を上げかけた。

「僕だって、ミナさんを必ず幸せにしようと思っているのは本当ですよ。いつか、毛利先生を父と呼ぶこともあるかもしれませんね」

冷めかけていた頬の熱が一気に沸騰する。
それって。それって。

「……安室さん……」

コナンくんが呟いた、ハードル上げてくれてんじゃねぇよ、という言葉の意味を考えられる余裕は、私には無かったのであった。