「ところで、安室さんの第二の性って何なんですか?」

自宅マンションの前で安室透という男性と出会い、私が強要した部分はあれど成り行きで一晩うちで過ごすことにしてもらった夜。お互いにお風呂も入り終わって、まだもう少しいろいろと調べたいという安室さんに寝室へ促されたものの、ふと聞いておかなければと思って足を止めた。
それは私からしてみれば何の変哲もない問いかけだった。世の中には男女の性別に加えて、第二の性が存在する。アルファ、ベータ、オメガの三つから成る第二の性は、男女の性別以上に重要で対人関係にも深く関わってくる。あらかじめ聞いておくのが良いだろうと思い問いかけたのだが、安室さんは私の問いに顔を上げると不思議そうに首を傾げた。

「……第二の性、ですか」

その顔は一瞬きょとんとした色を浮かべていたが、すぐに顎に手を添えて何やら考え込むように少し俯いて目を細めている。
もしかして、触れられたくない話題だったかな。あまり詮索はしたくないが、普通に考えればベータか……整った容姿や人を惹き付けるような雰囲気は、もしかしたらアルファに該当するのかもしれない。
何にせよ、もし答えたくないのなら下手に追求するのもなと思った時、安室さんは再度顔を上げて私を見つめた。

「すみません。第二の性、とは何でしょう? 初めて聞く言葉なので」
「……えっ」

今度ぽかんとしたのは私の方だった。
第二の性を知らない? この世の中で生きていて、第二の性を知らないなんて有り得ない。小学校に入ったら必ず学ぶことだし、男女の性と第二の性は同列である常識だ。
知らないなんてそんなことがあるのだろうか、と考えて、思わず心配になって安室さんの前に膝をついた。

「も、もしかして頭とか強く打ちました? 痛みはないですか? やっぱり病院に行くべきじゃ……」

まさか記憶喪失なんじゃ。記憶の一部分が欠落してしまったのではないかと考えたら急に怖くなった。咄嗟に彼の頭に手を伸ばそうとしたが、安室さんは少し驚いた顔をした後ににこりと笑って私の手を制した。

「すみません、特に頭部に痛みはないのですが……そうですね、もしかしたら少し混乱しているのかもしれません。心配はいりませんよ、一晩休めば落ち着きます」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。なのであなたは気にせずお休みになってください」

先程も救急車を呼ぼうとしたら拒否をされた。……事情はわからないけど、病院に行けない、もしくは行きたくない、行ってはいけない理由があるのだろう。心配は拭えないが、今は引き下がるしかない。
その日は、安室さんの言葉に従ってそのまま休むことにした。


***


「僕は恐らく、この世界の人間じゃない」

安室さんの口から彼の見解について語られたのは、翌日の夜のこと。その日は安室さんに付き合い、彼の知り合いがいるという警視庁まで足を伸ばした。結論として彼の知り合いには会えなかったが、安室さんにとっては大きな収穫があったようだ。
その収穫を得た上で、最終的な結論を出した夜。いろいろと調べてわかったのは、安室さんがこの世界の人間ではないということだった。私の住む日本と似て非なる日本からやって来たのだと語る安室さんの表情は、決して嘘を言っているようには見えなかった。これが演技だったとしたらハリウッド映画賞を受賞できると思う……なんて、私の目で見た感想だからチョロいという自覚はあるが、それでも嘘とは思えなかったのである。
私に嘘を吐く理由が、安室さんにはない。そもそも嘘だと思われる可能性が大きい話を真剣に話してくれた時点で、私には彼を信じるという選択肢以外残っていなかった。
だから、そこでようやく理解する。安室さんが第二の性について知らなかった理由。

「佐山さんから聞いた第二の性について、僕もいろいろと調べました。ここが別世界だと確信したのは、その性の存在がある意味決定打だったと言ってもいい」
「アルファ、ベータ、オメガの三つから成る性別のことです。男女の性別以上に重要で、人との関係性にも深く関わってくる」
「ほとんどの人間がベータであり、アルファはかなり数が少ない。オメガに至っては、アルファ以上に希少。ヒート、ラット……本当に、途方もない話だ。動物のような発情期が、人間にあるだなんて」

そう言う安室さんの表情は固い。私はこの世界で生まれ育ってこの常識に身を置いて生きてきたが、安室さんはそうじゃない。正直、第二の性が存在しない世界というのが私には上手く想像出来ない。でもそれは、きっと私の世界よりも生きやすい世界なんじゃないかと思った。

「……まぁ、考えても仕方がありません。元々この世界の人間ではない僕に第二の性が存在するとは思えませんが……」
「もしも、ということもあります。明日検査薬を買ってきて、調べてみましょう」

私の人生の中で、一人だけオメガの友人がいた。昔に比べてマシになったとは言っても、未だにオメガを冷遇する社会性というのは失われていない。オメガがヒート時に放つフェロモンは非常に強い。その友人も、レイプされかけた回数は数えきれないほどだと話していた。
けれど、一概にどちらが悪いとも言えないのがこの世界の常識だ。オメガのフェロモンには逆らえない。オメガのフェロモンに当てられれば理性は失われ、酷い時には言語障害さえ起こる。自分が何をしているのかも理解出来ないままレイプに及んでしまうということも珍しくない。抑制剤の技術がここ数年で急激に発達し、比較的手に入れやすくなったのが幸いか。
何にせよ、私は漠然と「安室さんはベータかアルファだろう」と思っていた。安室さんが調べた通り、アルファは世界の全人口の内約5%、オメガは更に少なく1%未満だとも言われている。確率的に考えてベータ。有り得たとしてアルファだろうと考えるのが普通である。
翌日検査薬を使い、安室さんと結果を見て言葉を失った。

「……僕が、オメガだなんて」


***


安室さんがオメガだとわかってから、私達の行動は早かった。市販の抑制剤を買い、いつ来るかわからないヒートに備えようとしたのである。
基本オメガのヒートは三ヶ月周期で起こるが、安室さんの場合はヒートの前例がない。いつどのタイミングでヒートが起こるかわからないのなら、それに出来る限り備えるしかないのである。
そして安室さんのヒートは、思っていたよりも早くやって来た。そしていずれは知られてしまうことだとわかってはいたけれど、私の第二の性についても安室さんの知るところとなる。

「……安室さん、大丈夫ですか……?」

そっと寝室のドアを開けて中をそっと覗き込む。私の部屋には、安室さんのフェロモンの甘い香りがいっぱいに溢れている。その香りに脳髄がじんと痺れるような感覚を味わいながら、私はそっとベッドへと歩み寄った。

「……あ、」
「う、あの、一応いろいろと持ってきてはみたんです、けど……」

ベッドに横になったままの安室さんは涙で潤んだ瞳をゆっくりと動かして私を見上げた。ベッドには私のお気に入りのブランケットを始め、私が普段よく着ているコートとかよく使うハンカチとか、抱いて寝ているぬいぐるみなんかが散乱している。
オメガがアルファの私物を寝床に持ち込む行為……通称、巣作りである。巣作りという習性がオメガにあることは知っていたけど、何分オメガの数が極端に少ないため私も目にするのは初めてだった。
私が手に持っていた洗いたてのバスタオルとかシャツを差し出すと、安室さんがそれを手に取って手繰り寄せる。

「……ミナさん、……アルファ、だったんですね」
「……隠していたつもりは、なかったんですけど……ごめんなさい」

そう。私はアルファだ。けれどアルファだと気付かれることなどほとんどない欠陥品のようなアルファ。出来損ないのアルファ。実際、私の知り合いは皆私のことをベータだと思っている。
何故なら私はアルファが持つようなカリスマ性もなく、生まれついてのエリートだなんてわけでもない。アルファは大体見ればすぐわかるような整いすぎた容姿をしていたりするけど、私は至って平々凡々な見た目だし飛び抜けた才能なんてものもない。
アルファ特有のフェロモンだって薄いし、他人のフェロモンにも鈍感だ。

「……いえ……、謝る必要なんてないですよ」

安室さんは横になったままそう言うと、そのままゆるりと手を伸ばして私の着ているパーカーの裾を摘んだ。くい、と引っ張られて目を瞬かせる。

「……でも、もっとミナさんの匂いがするものが欲しいので……これ、貸してくれませんか」
「えっ、……え、で、でもこれは」

今着てるものを渡すというのはやっぱり気恥ずかしくて戸惑いを覚える。けれど安室さんはそんな私を見て、拗ねたように眉を寄せた。

「あなたが持ってきてくれるの、全部洗濯してあるものばかりじゃないですか。コートとぬいぐるみは確かに他のものよりは匂いが強いけど、コートはあなたの匂いよりも外の匂いがする。ねぇ、お願い。あなたが今着てるものが欲しい」
「うぅ、」

ふわ、と安室さんの放つ甘い香りに目眩を覚えた。
他人のフェロモンに鈍い。私は今まで自分のことをそう思ってきたが、安室さんを前にすると彼の放つ香になんだかそわそわした気持ちになる。これが、オメガのフェロモンってやつなのかな。でも友人のフェロモンには反応しなかったのに、どうして安室さんのフェロモンにはこんなに強く反応するんだろうと不思議に思う。
安室さんは私のパーカーを掴んだまま離そうとしない。じっと私を見上げるブルーグレーの瞳はヒートの影響からかほんの少し潤んでいるように見えた。それがなんというか、たまらなく扇情的でドキドキする。
仕方なくパーカーを脱いで安室さんに手渡せば、彼は満足そうに笑みを浮かべて私のパーカーに顔を埋めた。さらりと流れる彼の髪が彼の目元を覆い隠す。私のパーカーに顔を埋めたまま深く呼吸を繰り返す安室さんは何故だかとても美しい。ああ、頭がぼんやりとしてきた気がする。
ベッドの傍に膝をついて座れば、彼との距離が縮まって花の蜜のような濃厚で甘い香りに包まれた。

「……ねぇ、ミナさん」
「は、……っえ、」

返事をしようとして安室さんに視線を向け、小さく息を飲む。
目元にかかった前髪から覗く瞳は、潤んでいるのに真っ直ぐに私を射て離さない。彼から目が離せない。瞬きさえ忘れそうになっていたら、安室さんはゆるりと目を細めて微笑んだ。

「僕の世界には……第二の性なんて存在しません。アルファも、ベータも、オメガもない。あるのは男女の性別だけ。……だからね、正直すごく戸惑っているんです」
「戸惑ってる、」
「ええ。……自分の体が、自分じゃないみたいで……オメガのヒートが、こんなに辛いものだとは思いませんでしたから」

そうは言うが、安室さんの表情には余裕があるように見えた。余裕というか、瞳に宿る光が理性的だからそう感じるだけかもしれないのだけど。もしくは、抑制剤のおかげだろうか。

「安室さん、」
「透」
「え?」
「透って、呼んでください」

安室さんの声が甘く溶けるように耳に入ってくる。ぞく、と背中が震えるのを感じながら、「透さん」と呟けば彼はうっそりと目を細めて笑った。

「あぁ……いいですね。……脳みそが溶けそうだ」
「と、……透、さん」

甘い匂いが強まったような気がしてくらくらする。本当に私、どうしてしまったんだろう。誰かの匂いをこんなにも強く感じることなんてなかったのに、安室さんの……透さんの甘い匂いが脳の奥まで染み込んでいくような気がする。
は、と小さく息を吐けば、彼は私の方へと手を伸ばした。その指先が私の頬に触れて、びりっと痺れるような痛みを覚えてびくりと体が跳ねる。

「……僕、このままじゃきっと、すごく困るんです」
「困る、」
「そう。この世界にいる限り、僕は定期的に訪れるヒートに悩まされることになる。……今は抑制剤の力もあって軽度で済んでいるけど、これがこの先も続くとは限らない。元の世界に帰れたとして、変質したこの体も元に戻るとは限らない。元の世界に戻って……この体質を抱えて、生きていかないといけないかもしれない」

透さんの指先が私の頬を滑る。擽ったいような、それでもやめて欲しくないような、酷くもどかしくなって唇を噛む。歯が疼いて、唾液をこくりと飲み込んだ。

「ミナさん。……ねぇ、何も感じないんですか……?」

僕、知ってるんですよ。運命の番≠フこと。
囁くような声に息が詰まる。運命の番。アルファとオメガの間にのみ存在するとされる運命の相手。天文学的な確率だが、出逢えば互いに運命だと認識し、互いを求めずにはいられないという。

「ねぇ、ミナさん。……僕は感じてるんですよ。……あなたが、僕の運命≠セって」

透さんがゆったりとした動きで顔を俯け、襟足にかかった髪をさらりとよける。金糸の間から覗く褐色の項に喉が鳴った。

「なるほど、運命の力とは恐ろしい。……僕がこんな急所を他人に晒したいと思うことなんてないと思っていました」

私は出来損ないのアルファ。そんな私が、初めて誰かの匂いに思考さえ奪われそうになっている。歯の根元が熱を持ったようにじりじりと疼き、無意識のうちに呼吸が浅くなる。
こんなところにいたんだ。会いたかった、ずっと会いたかった。会える日をずっと心待ちにしていた。私のオメガ。私だけの愛おしいオメガ。後から後から溢れ出てくる想いに胸が震える。

「……あ、」

恐る恐る彼の方へと手を伸ばす。瞬間、強く手首を掴まれて引き寄せられた。彼に抱き込まれながら、目の前にある彼の項にかっと頭が熱くなる。視界が明滅するほどの歓喜と興奮。体の細胞全てが、喜びに叫んでいる。

「噛んで、ミナさん」
「あぅ、あ、あ、」
「早く」

噎せ返るような甘い香り。震える唇を開いて彼の項に鼻先を寄せれば、透さんがくすりと笑うのがわかった。
歯を立てる。びくりと体を震わせて恍惚と息を吐き出す透さんの様子に、一気に体が熱くなる。

「ぁ、ッ……私のオメガ、」
「ええ」
「私の、……私だけの」
「ええ。あなただけの」

溢れんばかりの多幸感。口の端から零れ落ちた私の唾液を透さんが舐め取る。顔を上げて彼の誘うような瞳を見た瞬間、私の意識は、理性は、ぶつりと途切れた。