『安室さん、大変なんだ!!』

コナンくんからそんな電話を貰ったのは、久々に登庁して溜まった書類を片付けている時だった。
黒の組織を事実上の壊滅へと追い込み、今は残党処理と書類整理に追われる毎日。コナンくんが実はかの工藤新一≠セと知ったのは、組織が壊滅してからのことだった。
組織が開発していた毒薬、APTX4869の試作品を飲み、体が縮んでしまったとの事。今は組織から手に入れた薬品データにより、元の体に戻るための解毒剤を灰原哀…エレーナ先生の娘御である宮野志保が開発中だという。データはしっかり残っていた為解毒剤の開発は至って順調で、あと数日もあれば完成するだろうという話は聞いていた。
俺自身今は忙しくしている身だし、次に会う時はコナンくんじゃなくて新一くんかもしれないなんて思ったのが数日前のこと。まさか彼から連絡が来るとも思っておらず、俺は書類を捌いていた手を止めて彼の話を聞くことにした。

「やぁ、コナンくん。どうしたんだい、そんな慌てて」
『ごめん、なんて言ったらいいのか…オレが全部悪いんだけど』
「話が見えないよ。君らしくないな、何があったんだ?」

問いかけると、電話の向こうで彼はあーとかうーとか唸っている。本当に何があったんだ。

『安室さん、今日ミナさんに会った?』
「ミナさん?」

どうしてそこで彼女が出てくるんだろうと首を傾げたが、そう言えば最近は家には寝に帰ってるようなもので起きてるミナさんに会ったのはしばらく前だと考える。なんとか彼女に少しでも会いたいが為に、仕事に区切りが着けば僅かな時間でも一時帰宅するようにしているのだが…まぁ、基本的に日付は越える。そして日が昇る前には家を出ている。当然ながら俺が家に帰宅する時も、朝出る時も、彼女はまだ眠っているのだ。

「仕事があるから寝に帰ってるだけなんだ。話をしたのは随分前だけど、今朝も顔は見てきたよ」
『あ、うーん…そっか、じゃあミナさんの様子まではわからないよね』
「何かあった?」
『今日、駅前でミナさんに会ったんだけど…風邪気味だって言ってたんだ。だから、灰原がよく効く風邪薬を持ってるから博士の家まで来てもらったんだけど…その、オレ、渡す薬を間違えちゃって、それで、』

コナンくんの声が少しずつ尻すぼみになっていく。
状況はわかったが、依然として彼が何を言いたいのか釈然としない。言いにくい事だということは伝わってくるけど。

「うん、それで?」
『APTX4869の試験薬を飲ませちゃったんだ』
「ごめん、なんて?」

咄嗟に聞き返してしまったのは仕方がないことだと思う。一瞬混乱するくらいには、コナンくんの言葉はあまりに衝撃的だった。
何を飲ませたって?APTX4869?あの致死性の毒薬を?

『あっ、灰原が作った試験薬だから毒性はないよ!だから命に別状はないんだけど』

コナンくんの声からして命に関わるような状況じゃないことはわかっていた。そして、APTX4869から毒性を除いた場合の効能も…俺には、察しが着いてしまったのだ。APTX4869の毒薬として以外の効能は、コナンくんや志保さんが体現している。

「まさか」
『うん…小さくなっちゃったんだ、ミナさん。体だけじゃなくて、意識も退行してるみたいでしばらく泣いてて…今日博士が学会出席で留守にしてるんだ。それで、』

今は赤井さんが宥めて、赤井さんの膝で寝てる。
コナンくんのその言葉を聞いて、俺は残っていた仕事を風見に託して車のキーを引っ掴み、庁舎を飛び出していた。


***


気が付いたら、知らない場所で座ってた。
目の前にいるのは、知らない男の子と、知らない女の子。二人とも、私と同じくらいの子だったけど、なんだか私を見てすごくびっくりしてた。
おばあちゃんもおじいちゃんもいない。知らない場所で、知らない子達がいて、すごくすごく怖くなった。怖くなって、悲しくなって、しくしく泣いてしまった。
なんで私、こんなところにいるんだろ。なんで、大人の服を着てるんだろ。ぶかぶかで動きにくいし、わけがわからないし、男の子も女の子もよくわからないことを話してる。
くすりが、とか、アポ…なんとか、とか。私だけよくわかってないみたいで、ますます悲しくなる。
おばあちゃん、おじいちゃん、どこにいるの。

「こんにちは、お嬢ちゃん」

低い男の人の声がして、ゆっくり顔を上げたら…真っ黒な人がいた。その人は真っ黒な帽子とお洋服を着ていて、私の前にしゃがみこんでいた。
…ちょっと怖いけど、でも、すごくすごくかっこいいひと。真っ黒なのに、その人の目がきらきらと光っていた。

「…こん、にちは…」
「俺は赤井秀一と言う。君の名前は?」

挨拶をされたら、挨拶をする。お名前を聞かれたら、自分のお名前を言う。

「…ミナ、です」
「そうか。ミナちゃん、きちんと名前を言えて偉いな」

あかいさんが私の頭を撫でる。すごく大きな手。おばあちゃんもおじいちゃんも私の頭を撫でてくれるけど、それよりももっと大きな手。
涙はすっかり引っ込んじゃったみたい。なんだかどきどきする。

「…おめめ、みどり」
「うん?」
「すごく、きれい」
「そうか。ありがとう」

あかいさんは少しだけ笑って、私を抱っこしてくれた。
なんだろう。
私、お母さんもお父さんもいないけど…もしかしたら、お父さんがいたら、こんな感じだったのかな。こんなかっこいいお父さんだったら、学校で自慢できちゃうかも、なんて考えちゃった。



私は気付いたら赤井さんのお膝で寝ちゃっていたみたいで、目が覚めるとまた知らない人の声がした。

「意識も退行…志保さんの見解は?」
「APTX4869の毒性を抜いた試験薬…毒性を抜いたことで何らかの作用があったのかもしれない、としか言えないわ。はっきりしたことは何もわからないもの」
「そう…」
「ほんとごめん、安室さん…オレが勝手なことしたせいで」
「工藤くんが余計なことしなければこんなことにはなっていなかったのにね」
「…ほんとすみません…」
「幸い、効果が切れれば自然に元に戻るわ。解毒剤が必要なくて良かったわね」
「効果はどれくらい続く?」
「さぁ…それもはっきりとは。でもそんな長くはもたないはずよ。二十四時間…長くても二日くらいで元に戻ると思うけど」

また、私にはわからないお話をしてる。この声は、さっきの男の子と女の子の声なのかな。

「そもそも、どうしてあなたがここに?」
「今日は午後休を取っていたんだ。昼からは工藤邸に戻ってきていた。そうしたら、慌てた様子のボウヤが飛び込んできたものでな」
「道理で庁内で見かけないと思った…」

あかいさんの声と、男の人の声。…なんだかちょっと怒ってるみたいで、少し怖い。ぎゅう、とあかいさんの服を掴むと、優しく頭を撫でられて目を開けた。あかいさんと目が合った。

「目が覚めたか?」
「…うん」
「お迎えだ」
「っ、おばあちゃん?おじいちゃん?」

お迎え!おばあちゃんかおじいちゃんだ!ぱっと体を起こして周りをきょろきょろ見たけど、おばあちゃんもおじいちゃんもいない。いるのは、さっきの知らない男の子と女の子…それから、知らないお兄さん。
すごい。髪の毛が金色だ。絵本で読んだ王子様みたい。すごくかっこよくて、あかいさんの時よりももっともっとどきどきする。
私がじっとお兄さんを見つめていたら、お兄さんは私の方に近付いてそっとしゃがみ込んだ。

「…こんにちは」
「…えっと、こ、こんにちは…」

なんだか恥ずかしくなってあかいさんの腕にしがみついたら、お兄さんはあかいさんを睨んだ。やっぱり怖い。

「…僕は安室透と言います」
「…あむろ、とおる、」
「ミナちゃんのおばあちゃんとおじいちゃんが、お迎えに来られなくなっちゃったんだ。だから代わりに、僕が迎えに来ました。おばあちゃんとおじいちゃんが迎えに来るまで、僕のお家に行こう」

おばあちゃんとおじいちゃんが来られなくなった。どうしたのかな。何かあったのかな。急に不安になってあかいさんを見上げたら、また優しく私の頭を撫でてくれた。

「安室くんなら大丈夫だ。安心して行くといい」

ちら、とあむろさんを見つめる。あむろさんは私と目が合うと、優しく笑ってくれた。
…あかいさんのおめめはみどりだったけど、あむろさんのおめめは青。あかいさんを睨んでいた時は怖いと思ったけど、今はすごく優しそう。青い目と金色の髪。

「王子様、みたい」
「え?」
「おめめが青で、髪が金色なの。絵本で見た王子様みたい。すごくかっこいい」

恥ずかしかったけど思い切って言ってみたら、あむろさんはすごくびっくりした顔をして、それからなんだか恥ずかしそうにほっぺを掻いていた。


***


さっきの女の子(はいばら あいちゃん、というらしい)からお洋服を借りて着替えた私は、あむろさんと一緒にあむろさんのお家にやってきた。あむろさんの車は真っ白ですごくかっこいい車だった。
あかいさんも私のことを簡単に抱っこしたけど、あむろさんも私のことを抱っこしてくれる。あむろさんは私を抱っこしたまま、ドアの鍵を開けて中に入る。

「ただいまー」
「た、ただいまぁ」
「うん、おかえり」

お邪魔します、の方がいいかなと思ったけど、ただいまで間違ってなかったみたい。あむろさんは優しく笑って私の頭を撫でてくれる。

「お腹空いた?何が食べたい?」
「えっと、えっと、…オムライス、」

お腹、空いた。すごく空いた。なんで今まで忘れてたんだろうって思うくらい、お腹が空いた。あむろさんは小さく笑うと私を床に下ろしてくれる。途端に、真っ白な何かに飛び付かれて私はそのままひっくり返った。

「わぁ!なに、なにーっ?!」
「こら、ハロ」
「アンッ」

顔をぺろぺろ舐められる。真っ白なわんちゃんだ。あむろさんがハロと呼んだわんちゃんは思いっきりしっぽを振りながら私に甘えるように体を擦りつけてくる。ふふ、可愛い。

「えっと、ハロ?」
「アンッ」
「えへへ、私はミナって言うんだよ。よろしくね」
「アンッ」

すごい、私の言葉がわかるみたい。ちゃんとお返事できるなんて、すごく頭がいいんだろうな。
あむろさんの手に掴まって立ち上がると、そのまま洗面所に連れていかれる。手を洗う場所。でも背の低い私には少し高くて、背伸びをしてなんとか届くくらい。あむろさんは先に手を洗うと、私の体を抱え上げて水に近付けてくれた。

「はい、手洗って」
「はぁい」

石鹸を泡立てる。手のひらは爪で引っ掻くようにして、爪の間や指の間もきちんと洗う。お外はバイ菌でいっぱいっておばあちゃんもおじいちゃんも言うの。だから、バイ菌をちゃんと洗わないといけない。
手を洗い終わると、あむろさんがタオルで私の手を拭いてくれる。なんだかくすぐったい。えへへと笑えば、あむろさんも笑ってくれた。

それから、あむろさんの手作りのオムライスを食べた。私もちょっとだけお手伝いした。…テーブルに運んだだけだけど。
あむろさんのオムライスはすごくすごく美味しくて、たまごにはケチャップでハロの顔が描いてあった。とっても可愛くて食べるのがもったいなかったけど、お腹も空いてたからしばらくじーっと見てしっかり覚えてから食べた。もう絶対に忘れないもん。
あむろさんとお風呂にも入った。小学一年生になったんだし一人でお風呂に入れるようにならなきゃって思ってはいるんだけど、私は頭を洗うのが上手じゃない。泡が残っちゃったり、洗い残しがあったりする。だからいつもおばあちゃんかおじいちゃんと一緒に入ってるんだけど、素直にそう言ったらおむろさんが一緒に入ってくれた。
あむろさんに頭を洗ってもらったんだけどすごく気持ちよくて寝ちゃうかと思った。私がウトウトしてるのを見て、あむろさんは少し楽しそうに笑ってた。


──────────


「…あむろさん、もう寝ちゃった?」

小さくなったミナさんの髪を乾かしてあげて一緒にベッドに入ったのは少し前のこと。寝息が聞こえてこないと思っていたら、やはり上手く寝付けないらしい。
ミナさんはもぞもぞと身動ぎすると、布団から顔を出してこちらを見上げてきた。暗闇の中で、丸い瞳と視線が絡む。

「起きてるよ。どうしたの?眠れない?」
「…うん、」

少し小さく頷いて俯くミナさんをそっと抱き寄せる。甘えるように体を寄せてくるところは、小さくても大きくても変わらない。
この年齢のミナさんからしてみれば、俺は初対面の見知らぬ男のはずだけど…なんというか、警戒心が薄いのは昔から変わらないんだなぁなんて思う。すっかり懐かれているようだし。…拒絶されるのも辛いが、こんなあっさり懐かれるのもそれはそれで少し複雑だ。あの赤井の膝で寝こけていたくらいだし。思い出したらムカついてきた。

「あむろさん」
「なんだい?」
「…、…」

問いかけても、彼女は口篭るだけだ。
なんとなくわかる。誰かに迷惑をかけてしまうんじゃないかと余計な気を回して、自分は我慢をするというのは…多分昔から今に至るまで、彼女の中で変わらない部分だ。
きっと幼い頃からあまり自分の希望を口に出すことがなかったのかもしれない。
そっと頭を撫でてやると、彼女は軽く体を震わせながらくすくすと笑った。

「…あのね、私、お父さんもお母さんもいないの」

ぽつりと呟かれた声は、何故だかとても乾燥していた。
ミナさんに両親がいないことは本人から聞いていた。祖父母に育てられたと。黙ったまま彼女の頭を撫でていると、彼女が再び口を開く。

「だからね、あかいさんに抱っこしてもらって、えらいなって頭を撫でてもらって…お父さんがいたら、こんな感じなのかなって思ったの」
「…あいつが父親か…想像がつかないな」
「そうなの?」
「赤井だけはやめておけ」
「でも、あかいさんいい人だよ?」
「本当に君の警戒心のなさは昔からだったんだなぁ」

苦笑を浮かべたが、ミナさんは不思議そうに首を傾げるだけだ。それから小さく笑って、俺の体にしがみついてくる。

「あのね、あむろさんはね、お母さんみたいだなって」
「……そう」

何度かミナさんにもお母さんみたいと言われたことがあるけど、やっぱりそこはお母さんなのか。せめてお父さんにならないものかと思ったが赤井と同じにされるのは癪で、それならお母さんな方がいいのかもしれないなんて考える。

「…でもね、…やっぱりね、あむろさんはお母さんじゃないなって」
「うん?」

もごもごと口篭りながら告げられた言葉に目を瞬かせる。
ミナさんは少し身を捩っていたが、ちら、と俺を見上げて言った。

「…私が大きくなったら、あむろさんのお嫁さんになりたいなって。…えへへ、あむろさんすごくかっこいいんだもん。だからね、私が大きくなるまで待っててね」

約束、なんて言った彼女は、言い終わったことに満足したのか俺の胸に頬を寄せてあっさりと寝息を立て始めてしまった。
俺自身は硬直したまま動けないというのに、だ。

なんだ、今のは。
お嫁さんになりたい、なんて。寝る直前になんて爆弾を落としてくれたのだろう。柄にもなく顔は熱いし、変な汗が出てきた気がする。

「…くそ、」

そっと彼女の体を抱き寄せる。大きくても、小さくても、俺にとって世界でただ一人の愛おしい人に変わりはない。
こんな形ではあるが、幼い日の彼女と触れ合えたこと自体には感謝している。本来なら絶対に忘れ知り得なかった彼女の幼少期。写真すら見たこともなかったから、嬉しくないわけがない。
そっとミナさんの額に唇を寄せて、胸いっぱいの愛おしさを噛み締めた。


──────────


翌日にはミナさんの体は元に戻ったのだが、小さくなっていた時の記憶はすっぱり消え去っていた。

「なんだか寝過ぎちゃったみたいで…ごめんなさい、なんかあんまり覚えてないんです」
「疲れていたんですよ。体調、悪かったんでしょう?今日はゆっくり休んでくださいね」

申し訳なさそうにベッドに横になるミナさんの頭を撫でる。すると、彼女は少し体を震わせてくすくすと笑った。
やっぱり、変わらないな。昔の彼女も、今の彼女も。
まるで白昼夢のような、ほんの短い間の出来事。けれど、だからといってあの約束がなくなったわけじゃない。
小さな彼女との約束を、守らなくちゃならないな。
何も知らずに笑う彼女を前に、俺は頬を緩めた。