オメガという性に生まれて、自分が不幸だと思ったことはない。
歴史の中でオメガが社会的弱者として疎まれていたという事実は確かにあるしその風潮が残っていないわけじゃないけど、基本的にオメガに対する差別というのはもう昔の話。
今は抑制剤の発達もあり、オメガの性に苦しめられることもほとんどない。
オメガだということで子供のころは少しからかわれたこともあったが、周りの良い友人達がいつも味方でいてくれたし、平凡な毎日を送って生きてきた。
そんな私の平凡が少し変わったのは、大学の頃だ。
同じキャンパスで、友人の繋がりで出会った後輩の男の子。彼はオメガの私と正反対であるアルファで、見目も頭脳も当然ながら学内で飛び抜けていた。彼の前に学年差など存在せず、成績は常に上位五位以内をキープしていて、その完璧すぎる容姿もあり彼の周囲はいつも華やかだった。
彼と付き合いたい女の子なんて、学内にはごまんといた。私はというと、彼と知り合えただけでもまるで奇跡みたいなもので、彼が人の輪の中心にいるのをいつも遠目から見つめていたものだ。
だが不思議なことに、彼は私を見かけるとよく声をかけてきた。それはお互いに友人が一緒の時も、一人の時も変わらず。慕ってくれているのはなんとなくわかったから、私はそれを純粋に喜んでいた。彼の隣に立つことは出来なくても、彼を見守る位置にいることは出来るんだなぁ、なんて。
だから、彼から告白されたときは腰を抜かしそうになったものだ。だって彼は、アルファの中のアルファと言っても過言ではない。それこそアルファの女の子もたくさん彼を狙っていたし、そんな中で私なんかを好きになるはずないと思ったのである。
どうせ冗談だろう、罰ゲームか何かで告白してこいとか言われたんだろうなんて思って、一度は彼の告白を断ったものの……なかなかどうして、彼は諦めなかった。
そうして、根気強く何度も告白をしてくる彼を見ているうちに私も彼に惹かれていき、「人生に一度の青春だから」と彼の告白をOKしたのだった。
彼との恋愛は、それは幸せなものだった。私は彼のことが心から好きになっていたし、彼も私に惜しみない愛を与えてくれた。二人でいられるだけで幸せだった。
一緒にいろんなところに出かけたし、お互いの家に泊まったりもした。そんな日々は私が卒業して社会人になってからも続き、彼が卒業するまで至福の日々を過ごしたのである。

彼は大学卒業後、警察学校へと進学した。ずっと警察官になりたいと言っていたから私もそれを応援していたし、連絡が取りづらくなったからと言ってお互いの気持ちは変わらなかった、ように思う。少なくとも私は変わらず彼のことが好きだったし、彼が警察官になっても私達の関係は変わらないものだと信じていた。

彼が警察学校を卒業してしばらく経ち、彼と突然連絡が取れなくなった。
メールを送っても返事はなく、電話も出てもらえない。最初は慣れない仕事に追われて忙しいんだろうと思っていたが、彼からの連絡が来ることはなかった。仕舞いには、メールは届かなくなり電話番号も通じなくなった。家にも行ってみたけど、既に引っ越した後のようで表札も変わっていた。
ショックは、当然あった。深く傷付いた。でも、この日が来てしまったかという諦めも同じくらいに大きかった。いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。
彼は完璧なアルファで、私はオメガ。私の方が彼より年上だし、彼に見合った最上の女性なんてこの世の中にもっといるはず。
私なんかよりももっともっと素敵な女性と、幸せになるべきなのだ。人生に一度の青春が終わっただけ。そろそろ彼の幸せを願い、関係を閉じるべきなのだと。
彼がアルファ、私がオメガである時点で決まっていた。だって私達は、運命の番でもないのだから。


***


連絡が取れなくなり自然消滅した彼が、十年ぶりに私の目の前に現れた。
少し黒い肌と、柔らかな麦わら色の髪。十年の時間などなかったかのような、あの頃と何も変わらない彼の姿に息を飲む。
彼が身に着けているのがグレーのスーツで、仕立ての良いそのスーツを着こなしている姿に、時間の経過を思い出したくらいだ。
十年は長い。私も彼も、あの頃のままではいられない。
仕事終わり、私の職場ビルの目の前でのことである。

「こんばんは。……久しぶりですね」

そう声をかけられて、ああ、本当に彼なのだと実感する。
声も、微笑む表情も変わらない。硬直したまま動けない私の目の前まで歩み寄ってきた彼は、珍しく少し緊張しているようだった。

「ミナさん。……突然連絡を絶って、十年も音沙汰もなしで……身勝手なことを言ってると重々承知しています。その上で、聞いてほしい」
「……降谷くん」
「俺ともう一度、やり直してほしい」

十年経っても、私の気持ちは少しも色褪せたりしなかった。
彼のことを想う日々は、平凡に戻った私の生活の中でも一際色鮮やかで、彼の幸せを願いながらも私は自分の気持ちを捨てられなかった。
彼はいつだって誠実な人だった。彼が連絡を絶って姿を消したのには、きっと理由がある。彼との思い出を愛おしくは思っても、彼を恨んだりすることなどなかった。
会えて嬉しい。彼からの言葉が嬉しい。嬉しくないはずがない。

「……降谷くん、気持ちはすごく嬉しいけど……でも、それは無理だよ」
「どうして?理由を聞きたい」
「君にはもっとふさわしい女性がいる。アルファでも、ベータでも、もっと優秀で素敵な人がたくさんいるはずだよ。君には、幸せになってほしいから」
「名前」
「え?」
「名前、もう呼んでくれないんですか?あの頃みたいに」
「もう、そういう仲じゃ、ないでしょう」
「名前で呼び合うのに仲なんて関係ない。恋人じゃなくたって、名前で呼び合うのは別におかしなことじゃない」
「そう、だけど」
「呼んでよ、ミナさん」

甘い声と優しく寂しい瞳に胸が痛む。
彼の言葉や思いに応えたいという気持ちが胸を焼いて、それでもやはり駄目だと首を振る。

「駄目だよ」
「どうして」
「君にいつか、運命の番が現れたら……きっと私は、笑顔でお別れなんて出来ない」

まだ、笑ってさよならが言えるうちに。
彼が今までどうして連絡をくれなかったのかとか、今更どうして私の目の前に現れたのかとか、どうしてやり直したいなんて思うのかとか、聞きたいことはたくさんある。
だけどそれを聞かずに、このままお別れをしないといけないと思った。彼の為にも、自分の為にも。

「怒ってますか?」
「……何を?」
「連絡もせずに、あなたを置いて行ってしまったことを」
「怒ってないよ。理由があったのはわかってる。ただ私は、君に釣り合うような人間じゃないから」
「ミナさん。あなたは、ずっとそうだったでしょう。俺と一緒にいて幸せそうな様子を見せていても、どこかでいつも運命の番という存在に怯えていた。俺には、その理由がわからなかった」

幸せだった。だからその分、怖かった。幸せであればあるだけ、仄暗い恐怖は常に私の傍にあった。

「運命の番なんて都市伝説にも近い。目の前にいる俺よりも、どうして目にしてもいない存在に怯えたりするんだ。俺はあなたが好きです、それをずっと伝えていたつもりだった。足りなかったですか?俺の想いは、あなたにちゃんと伝わっていなかった?」
「そんなことないよ、これは私の問題で……」
「俺は、あなたからの気持ちを疑ったことなんてない。俺はあなたを愛していたし、あなたも俺を愛してくれていたと思っています。でも、あなたは俺に一度だって抱えてる不安を話してはくれなかった。いつか終わる関係だと諦める気持ちがあったからだ。違いますか?」

彼の視線から逃れる術などない。
私は彼の瞳を見つめたまま、動くことが出来ない。足はまるで地面に縫い留められたよう。人が少なくなるような時間でもないのに、辺りに人の姿はなく時折車道を車が抜けていくだけだ。

「……聞いたことが、あるんだよ」
「何を」
「運命の番の、話」

先程彼は、運命の番なんて都市伝説に近い、と言った。それは確かにその通りで、この世界でたった一対のアルファとオメガとして、運命に巡り合える確率なんてほとんどゼロに等しい。宝くじの一等を当てる方がよっぽど可能性があると言うくらいだ。けれど、それでもゼロに等しいというだけで、可能性が全く無いわけじゃない。
私の両親はどちらもベータだったけど、父方の祖父母が、運命の番だったのだ。祖母がオメガで、当時はオメガに対する世間の風当たりも強く、大っぴらに口に出せるような関係ではなかったらしい。だけど、祖父母はいつだって幸せそうだったし、よく口にしていたのである。「運命の番は、お互いに見たらすぐにわかる。目が合った瞬間に、お互いに惹かれてどうしようもなくなる。運命の力は強い。もしかしたらそれを不運に思う人もいるかもしれないけど、運命の力だろうと、私達は出会えて最高の人生になった」と。

「運命の力は強いの。……君が私のことを、私が君のことを、どれだけ好きでも、愛していても、運命の力にはきっと抗えない」

彼が、私の運命だったら良かったのに。何度そう思ったことか。
それでも運命は、私と彼を繋いではくれなかったのである。彼の運命の番は私じゃないオメガ。万が一、祖父母のように想い合う相手が出てきた時、少しでも自分が傷つくのを避けたかった。
だから、運命の番ではない以上、この関係はここできちんと終わらせないといけない。
十年前、彼が私の前から姿を消した日に終わらせられていなかったのだとしたら、今ここで、終わらせるべきだ。

「だから、降谷くん」
「運命なんて、」

いつしか下げていた視線を上げれば、彼は私のすぐ目の前に迫っていた。

「運命なんて、くそくらえだ、」

彼の瞳が、泣きそうに揺らいでいた。
強く手首を掴まれ、引っ張られる。彼の胸に強く抱きしめられて、息が詰まった。
久しぶりの彼の匂いに胸が締め付けられる思いだった。十年経った今でも、想いは変わらずここにある。蓋を閉めたはずの想いが、かたかたと音を立てていた。

「俺は、諦めませんよ。あなたが諦めたって、俺は絶対に諦めない。運命なんて言葉で、俺を納得させられるだなんて思わないでください」

彼の歯が私のうなじにほんの少しだけ当たった。恐怖も、嫌悪感もない。噛んでほしいと思いながら、私は精一杯の力で彼の胸を強く押し返した。
あっさりと体を離した彼が、それでも真っ直ぐ私を見つめたまま少しだけ目を細める。

「……どうして、そこまでして私を想ってくれるの?なんで?私にはわからない」
「言ったでしょう、俺はあなたが好きです。あなたが嫌がったとしても諦められないのに、嫌がられてさえいない今、どうして諦めることが出来る?運命の番だとか、俺の幸せだとか、そんなことを言うんなら、本当に心から終わりにしたいと願うんなら、ちゃんと嫌がってください。ちゃんと抵抗してください。俺から逃げてくださいよ」

そうじゃないなら、俺は絶対に諦めない。彼の言葉が痛かった。

「諦めないでいた俺に、あなたは一度振り向いてくれた。俺はね、諦めなければあなたは振り向いてくれると知っているんです」

彼はきっと、私以上に私のことを知っている。そんな彼から、逃げられるはずもないのかもしれない。
そもそも私は、彼の言うように心から終わりにしたいと願えていない。彼を手放したくなくてどうしようもない気持ちを、きっともうすぐ押さえ込めなくなる。
彼と再会してしまった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。

「……零くん、」
「運命の番じゃなくても……俺にとっては、あなたが、運命なんです」

彼の言葉の意味は、私にはよくわからなかった。
それでも、抗えない。

彼の優しく甘い手のひらに促されるように、私はゆっくりと目を閉じる。