「わぁっ、ハロ、待って待って」

車のドアを開けた途端、元気よく飛び出したハロが緑の草原を転げるように走っていく。
慌ててリードを掴もうとするものの、普段透さんと一緒に十キロもの距離を散歩(というよりは多分長距離走)をしているハロと、ろくに運動もしていない私ではどちらが俊敏かなんて考えなくたってわかる。
ハロの動きについていけないのは当然私だ。跳ねるような動きに翻弄されて、私は足を縺れさせて大きくバランスを崩した。

「う、わっ……!」
「危ない」

芝生に顔から突っ込むかと覚悟を決めたところで、腹部に逞しい腕が巻き付いて体を支えてくれる。咄嗟に閉じた目を開けて顔を上げれば、少し苦笑した透さんと目が合った。
私の背中と透さんの胸元がぴったりと密着していて、かっと頬が熱くなる。

「怪我はありませんね?」
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
「良いんですよ。でも、はしゃぎ過ぎは気を付けないといけませんね」

ハロも、あなたも。
そう付け加えられて、ますます恥ずかしくなる。でも恥ずかしかろうとはしゃぎ過ぎだろうと、人間わくわくとした気持ちはそう上手く押さえ込めないものである。
私は浮かれていた。とても。透さんの言う通り、多分とってもはしゃいでいる。もしかしたらハロよりも。だって、今日この日をずっと楽しみにしていたのだ。

事の始まりは一週間前に遡る。透さんはしばらくの間何やらとても忙しそうにしていて、私よりも早く起きて家を出て、私が寝てから家に帰ってくるという生活を送っていた。
身体は大丈夫なのか、ちゃんと眠れているのか、心配する日々が続いていたけれど、お仕事にも一区切り着いたようでようやく少しのんびり出来るようになって数日経った日のことだ。
どこにでも売っている旅行誌を広げ、彼はこう言い放ったのである。

「気分転換に、旅行に行きませんか?ハロも連れて、三人で」

嬉しいに決まっている。でも、それまで透さんがとても忙しくしていたのを知っていた私としては、旅行よりも家でのんびり休んだ方が良いんじゃないかとか考えた。
多分透さんには、そういう私の考えもきっとお見通しだったんだと思う。私が何かを言う前ににっこりと笑って旅行誌を広げて突き付けると、突然プレゼンを始めたのだ。
行きたい場所、それに伴い何故行きたいのか、名物は何なのか、行くことで生まれるメリットなどなど。当然言いくるめられたのは私である。
だって、最終的に「……というのはほとんど建前と言いますか。ミナさんと一緒に遠出したり、のんびり二人で過ごしたことってないなと思いまして。嫌、ですか?」なんて言われたら高速で頷く他にないだろう。
嫌なわけがない。一緒にのんびり過ごしたいに決まっている。強く頷いた私に再度微笑んだ透さんは、そのまま旅行を決めたのであった。



「……だって、どうしたって、嬉しいんですもん。はしゃぎたくもなります」

とはいえ。いい大人がはしゃぎ過ぎなのはいかがなものだろうと少し冷静になれば浮ついた気持ちも少しは落ち着いてくる。視線を芝生の絨毯へ向ければ、いつの間にか私の足元まで戻ってきていたハロが、舌を出しながら首を傾げてこちらを見上げていた。
……さすがにやっぱりこれは恥ずかしすぎるな。顔を覆いたくなり始めた頃、頭上から透さんの溜息が聞こえた。

「……う、……すみません、子供っぽくて……」
「……何かを勘違いしているようですが、違いますよ」

腹部に回された透さんの腕の力が強くなる。ぐっと引き寄せられたかと思えば、そのままくるりと体の向きを反転させられた。
間近に捉えるは透さんの整った顔。どきりと胸が跳ねたタイミングで、優しく降ってくる額へのキス。小さく呼吸を止めると、私の顔を覗き込んだ透さんが笑った。

「……旅行を決めて良かった。あなたの喜ぶ顔が何より見たかったんです。さっきの言葉は撤回します。たくさんはしゃいでください、僕がちゃんと見てますから」

ほんの少し掠れた甘い声で囁かれて、私はとうとう顔を両手で覆った。
恥ずかしい。恥ずかしくてすぐにでも逃げ出してしまいたいのに、離さないでほしい。胸が疼くように小さく痛むけど、嫌じゃない。というか、嬉しくてたまらない。
叫び出したい気持ちを必死に抑えながら、私は顔を隠したままこくりと頷いた。


***


今回私と透さんが訪れたのは、米花町から車で約二時間程度の山の中にあるグランピング施設。
グランピング。近年有名になってきたオシャレなキャンプというイメージしかない。
純粋にキャンプと言えば道具を揃えるところから下準備が大変というイメージがあるけど、グランピングは手ぶらで出来るキャンプ、だとか。
透さんに連れられてお洒落な受付で手続きを済ませ、今晩泊まるグランピングサイトへと足を向けた。透明なビニールテント(と言うとビニールハウスみたいなものを想像してしまうかもしれないが、めちゃくちゃお洒落なやつだ)が草原に点々と建っていて、テント同士の距離は十分に離れている。テントの傍にはお洒落なソファーとテーブルがあって、その横にバーベキューグリルと食器の準備がしてあった。

「すごい……!可愛い……!屋外だから暑いのかなって思ったんですけど、テントの中は空調もばっちりなんですね!」

テントの中は外から見るよりも広く、ベッドや家具も暖かみのある色で統一されていてものすごく可愛い。上からぶら下がっているランプをつけてみると、柔らかいオレンジの光がぽっと灯った。
ウキウキとしながらテント内の写真を撮っていたら、そんな私を見た透さんがハロを抱き上げながらくすくすと笑った。

「お気に召しましたか?」
「とっても!わぁ、ベッドもふかふかだ……!」

テントの中心にあった広いベッドに乗ってみると、程良い弾力でふかふかと跳ねる。これはよく眠れそうだ。仰向けになると透明なビニールの向こう側に広い空が見えた。
今日の天気は快晴。きっと星空も綺麗に見えるだろうな。

「よいしょ」
「わぁ、」

ベッドの心地よさを堪能していたら、透さんがハロと一緒にベッドに乗り上がってきた。ハロはさらさらのシーツに体をこすりつけていて、その様子を見て透さんと顔を見合わせて思わず吹き出す。

「ハロも大満足みたいですね」
「ええ。今日はぐっすり眠れそうだ」

今日は、という言葉に不安になる。普段くっついて眠るのが常になってしまっているし、恥ずかしい話私は透さんとくっついて眠ることに大きな安心感を覚えているから毎晩ぐっすりだけど、透さんは大丈夫なのかな、とか。
忙しい人だからあまり眠れていないんじゃないかとは思っているが、今日はせっかく二人で寝転んでも広々としたベッドだし、たまには離れて眠った方が良いんじゃないかなんて考えたりして。

「変なこと考えてる顔してる」

ぐい、と頬をつつかれて視線を上げた。枕に頬杖をついた透さんが、首を傾げてこちらを見つめている。

「う。変なこと、と言いますか……、せっかく広々としたベッドだし、今晩は離れて寝た方がいいのかな、って……」
「どうしてそんなことを?」
「だ、だって、せっかく羽を伸ばしに来たわけですし、私とくっついてたら熟睡出来ないんじゃないかなとか」
「またそういうことを」

よいしょ、体を起こした透さんが腕を伸ばし、私の体をぎゅうと抱え込んだ。私の細い悲鳴はシーツに吸い取られ、そのままぼふ、と枕に頭を沈める。
私の顔の横辺りで丸くなったハロのしっぽが私の鼻先をくすぐった。小さくくしゃみをすれば、透さんが小さく笑う気配がする。

「ぐっすり眠るためにはミナさんの存在が必要不可欠なわけですが」
「…………本当ですか?」
「それともミナさんは僕と離れた方がぐっすり眠れます?」
「まさか!くっついてたいです!」

反射的に声を上げれば、透さんはふは、と吹き出して笑った。
口に出してから気付くのもなんだが、今私多分とっても恥ずかしいことを言った。
くっついてたいって。子供じゃないんだから。

「なら、何の問題もありませんね。もっと暗くなってランプを消せば、絶景の星空が見えますよ。寝る前に一緒に見ましょうね」
「う……はい」

星空はとっても楽しみだけど、私は果たして星空に集中することが出来るのだろうか。
恥ずかしさと嬉しさでたまらなくなって、私はそのまま透さんの胸元に顔を押し付けた。


***


「私バーベキューとかってあんまり経験ないんですけど、お肉をただ焼くだけでこんなに美味しくなるものなんでしょうか」
「素材が良いんでしょう。柔らかくて美味しいですね」

グランピング場の近くを軽く散歩した後は透さんと交代でシャワーを浴び、その頃にはスタッフさんが食材の準備をしてくれた為そのまま夕食にすることにした。
大自然の中でのバーベキューである。肉厚の牛肉は食べやすいサイズに私がカットし、透さんが味付けをして焼いてくれた。
素材が良いのはもちろんなんだけど、透さんの焼き方がとにかく上手い。肉なんて火さえ通せば食べられる、なんて考えは捨てた方がいいとさえ思った。
濃厚でとろけるように柔らかい牛肉は、歯を立てるとじゅわりと肉汁が溢れ出す。程良い塩気とぴりりと効いた胡椒がお肉本来の味を引き立てていて、ほんのり甘く感じるのは何故なんだろう。
以前一人暮らしをしていた頃、私が牛肉を焼いたときはぱさぱさで硬かったのに。透さんが焼いたお肉とは比べものにもならない。

「こっちは柚子胡椒で味付けをしてみました」
「いただきます……!」

美味しい食べ物は人を幸せにすると思うんだ。元々美味しい素材を更に美味しく仕上げる透さんは幸せの伝道師だ。
柚子胡椒で味付けされたお肉もとっても美味しくて、飲み込むのが正直勿体なくなる。ほっぺたが落ちそうというのはこういうことを言うんだろうな。
美味しい夕食に舌鼓を打つ私と透さんの傍らで、ハロが羨ましそうにこちらを見上げていた。人間の食事はハロには無理だ。可哀想だけど、少しお預け。

「ハロには後でお芋蒸かしてあげるね。もう少し待ってて」
「アンッ」

自分達の食事を終えたら、約束通り皮をむいたジャガイモを蒸かして潰し、小さく切って柔らかく茹でたニンジンと混ぜたものをハロに与えてやった。
普段食べるドッグフードとは違う夕食に、ハロも大喜び。大自然の中で過ごすひと時をハロも楽しんでいるようだ。
ハロがご飯を食べている間に、私と透さんは夕食に使った器具のお片付けをする。バーベキューグリルや食器を近くの水場で洗い、揃えて置いておく。
その後は、しっかり虫よけスプレーをかけてからハロも一緒に夜の散歩に出かけた。
昼間は蒸し暑かったけど、日が沈んでくれば山から下りてくる風はひんやりとしていて涼しく心地いい。食後の運動にはちょうど良かった。

ああ、なんだか現実から離れて透さんやハロと一緒にこうしてのんびり過ごせる日来るなんて思わなかったな。
この世界に来てからというもの私は基本的に米花町から出ることは無いし、一度飛行船で大阪に行ったことはあったけどあの時は観光とかそれどころじゃなかったし……どのみち日帰りだったし。
こうやって都会から離れた場所で、時間を気にせずに過ごせるなんてものすごい贅沢だ。

「幸せだなあって思うんです」

散歩から帰って寝間着に着替え、ベッドに横になりながら言った。
透さんはベッドに腰を下ろし、ペットボトルの水を飲みながら目を瞬かせて私の方を振り返る。
あたたかいランプの光に照らされた横顔がすごくかっこよくて、無意識に心臓が跳ねた。

「幸せ?」
「はい。なんていうか、こんなに幸せでいいのかな、とか。透さんやハロと旅行なんて、贅沢すぎてどうしたらいいか」
「大袈裟ですよ。むしろ今まで旅行にも連れてきてあげられなかった僕が悪いというか。ずっと考えていたんです、あなたやハロと遠くに出かけてみたいなって」
「とんでもない。……でも、嬉しいです」

肌触りの良いシーツに顔の半分まで埋まりながらちらりと透さんを見れば、彼は小さく笑ってペットボトルをテーブルに置いた。
それからランプを消して、足元にいたであろうハロを抱えながらベッドに横になる。
ハロは私と透さんの枕の上の辺りで丸くなり、透さんはシーツに潜り込んで自然な流れで私の身体を抱き寄せる。
透さんの方に身を寄せながら天井を見上げれば、透明なビニールの向こう側に広がる星空が私を見下ろしていた。辺りに光源がないからか、小さな星の一粒一粒まではっきりと見える。
あまりに美しさに小さく息を漏らすと、透さんが小さく笑う気配がした。

「夏の大三角形もはっきり見えますね」
「えっと……デネブ、ベガ、アルタイルでしたっけ」
「そう。あれがデネブで、あれがベガ、あっちがアルタイル」

透さんが手を伸ばして一つずつ説明してくれる。
確かベガとアルタイルは織姫と彦星……だったっけ。七夕の時期は大体梅雨時で晴れることが珍しく、今年も雨が降っていたから天の川を見ようとも思わなかったな。
七夕は過ぎてしまったけど、空に浮かぶ星の光は確かに大きな川のようになっていて、なるほど確かに空の川だと納得する。

「……綺麗ですね」
「……ええ、とっても」

いつだって確かに空にあるのに、都会では見ることの出来ない星空。まるで吸い込まれてしまいそうだ。
ぼんやりと空を見上げていたら、すぴ、すぴ、と小さな寝息が頭上から聞こえてきた。ハロの寝息である。
思わず透さんと顔を見合わせて小さく笑う。そっと抱き寄せられて、額に優しいキスが降ってきた。

「……朝焼けも絶景だそうですよ、ここの施設。朝焼けを見る為の専用ハンモックも、ちゃんと予約してあります」
「えっ!絶対見たいです。で、でも起きられるかな、起きなきゃ」
「大丈夫、僕が起こしますよ。だから安心して、ゆっくり休んでください」

今度は、優しいキスが唇に。
照れ臭くて心臓は大きく胸を叩いているけど、その振動も嫌じゃない。
透さんの首元に顔を埋めると、そっと頭を撫でられた。

「おやすみなさい、ミナさん」
「……おやすみなさい、透さん」

その心地よさは、まるでゆらゆらと波に揺られている時のよう。
透さんの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、幸せに包まれながら私はゆるりと目を閉じる。