「アンッ」
「…ん…、」

ゆっくりと目を開ければ、視界に入ってくるのは真っ白な毛玉。尻尾をぱたぱたと振りながら、私が起きるのを今か今かと待っているみたい。目が合うと、ぺろぺろと顔を舐められた。

「ん、ふふ、くすぐったいよ、ハロ…」
「アンッ」
「おはよ、ハロ」
「アンッ」

朝の挨拶をして、ハロの頭から背中にかけてを撫でてやる。ベッドには私とハロしかおらず、軽くシーツに触れてみたけど、いつも零さんが寝ているスペースは既に冷たくなっていた。彼が家を出て時間は経っていたらしい。
のそりと体を起こして息を吐いた。

「クーン…」
「なぁに、どうしたの?」

ハロが起き上がった膝の上に乗ってきて、ぴとりと私のお腹に顔を寄せる。…なんだろう、甘えたいのかな。
尻尾は変わらずパタパタと揺らされていて、なんだかちょっと楽しそう。ハロの背中を撫でてやって、私は小さく欠伸を零した。

「………ねむ、」

昨日は零さんも少し早めに帰って来れたから、一緒に夕飯を食べた。お互いお風呂に入って、さほど夜更かしもせずに一緒に眠った。いつも通りの夜だった。
時計を見れば、今の時刻は朝の八時過ぎ。しっかり眠っているにも関わらず、このだるさと眠さはなんだろうと額を押さえる。

睡眠不足、では当然ない…はず。お仕事が忙しい零さんはともかく、私は嶺書房での仕事だけだしそんな疲れが溜まっているとも思えない。
なんだか少し熱っぽい感じがするし、風邪かな。…そういえば生理も遅れてるみたいでまだ来てないし…ちょっとだけ体が不調なのかもしれない。
情けないぞ、なんて思いながら両頬を軽く叩く。零さんもお仕事頑張ってるのに、私がこんなダラダラしてていいわけがない。体も目を覚ませばいつもの調子を取り戻すだろう。私は小さくよし、と意気込むと、ベッドから降りて出勤の準備を始めた。


***


「っ…ぅ、ぉえ、ッげほ…」

今し方食べた物を便器に吐き出して、それがぐるぐると流されていくのをぼんやりと見つめる。
せっかく作ってくれた零さんのご飯が、こんな風に食べられなくなる日が来るなんて思ったこともなかった。彼が知ったら怒るかな、悲しむかな。ご飯が食べられないことを相談したいという気持ちもあったけど、彼は何せ今とても忙しくしているし…どう話せばいいのかも、私にはわからなかった。
零さんは忙しい。朝は早く出てしまうし、夜も帰ってこられる日は一週間に一度くらい。帰って来ない日だってある。
今週だって顔を合わせたのは一度だけ。私が寝ようと思った頃に帰ってきた零さんは、目の下にはっきりとした隈をこさえていた。出迎えれば嬉しそうに笑ってくれたけど、そんな極度に疲れている零さんに変な心配をかけたくはない。
だからむしろ、なかなか顔を合わせない今の状況にほっとしている部分さえあった。

そう。体のだるさとか熱っぽさとか眠気というのは、ここ最近ずっとあった。微熱が続いている。疲れやすくなった。あんなに好きだった零さんのご飯も、ポアロのカフェラテも、口にすることが出来なくなった。そしてそんな不調に追加されたのが、この吐き気である。唐突に襲い来る吐き気は耐えられる時と耐えられない時があったが、吐き気のせいで私は今まともに食事を取れないでいる。
このよく分からない強烈な吐き気がいつどんなタイミングで来るか、私もわからない。何かを口にするのが怖いし、外を出歩くのも怖くなった。何とか嶺書房には行ってるけど、行くまでのバスや駅前の人混みが怖い。
かといって、常に具合が悪い訳でもないのだ。吐き気さえなければ多少の倦怠感なんて気にならない。つまり仕事を休むほどでもない。

「どうしたらいいんだろ…」

トイレから出て、洗面所で口を濯いだ。ダイニングに戻れば、零さんが今朝も用意しておいてくれた食べかけの朝食が並んでる。半分くらい食べたところで、急な吐き気に耐え切れなかった。お腹は空いてるような気がするけど、とてもじゃないけど食べられそうにない。
…やっぱり、病院に行くべきだろうか。そんな重大な病気とかには思えないけど、このまま不調が続くのは私としても困るし…。

「クゥン、」
「ハロ?」

ハロが私の足を軽く引っ掻いたので視線を落とす。ハロは私がしゃがみこむと、服の裾を咥えて寝室の方へとくいくいと引っ張る。なんだろ。
どうしたのかと思いながら寝室の方に行って腰を下ろすと、ハロが膝に乗ってきて私のお腹にこてんと軽く寄りかかる。…ここ最近よくやるこの行動になんの意味があるんだろう、と思いながらハロの背中を撫でて、ふと私は目を瞬かせた。
強烈な吐き気。倦怠感に、微熱。食欲の減退。そして何より。

「生理、来てない」

周期で言えばとっくに来ていてもおかしくないはずなのに、そういえばまだ生理が来ていない。最近の不調に気を取られてすっかり意識の外にあった。
視線を落とせば、ハロがこちらを見上げて尻尾を振っている。

「…ハロ、」
「アンッ」

もしかして、ハロは。
私の体の不調の原因を…知っている、のだろうか?


もしかして、と思った私の行動は早かった。
病院も考えたけど、今の状態で一人で病院に行く度胸はなかった。診断結果を先生の口から聞くのが怖い。一人じゃ無理だ。私は多分すごく動揺していて、けれどもすべきことは一つとちゃんと理解していた。
急いでバスに飛び乗って駅前のドラッグストアへ行き、何となく周りをキョロキョロして人の視線がないことを確認してからそれを購入した。家を出てからずっと心臓が暴れている。胸を内側から叩く音が大きくて、それがやけに気持ち悪かった。
バス停に並んで、早く早くと気が急いていく。早く帰って確認しないと。どきどき、どきどきと胸が高鳴っていた。嫌な音を立てていた。

「…っ、う、」

下から湧き上がってくるような不快感。それはお腹の底から胸元までを一気に駆け上がり、私は咄嗟に口を押さえてその場にしゃがみこんだ。
これだ。こういうことがあるから外にあまり出たくなくなる。強く唇を噛み締めながら吐き気に耐える。どうせ食べたものは家を出てくる時に全部吐き戻してしまった。胃液くらいしか出ないはず。
こんな状態じゃとてもバスには乗れない。バスの列からなんとか外れて椅子に腰を下ろせば、少しだけマシになった。でもまだ動くことは出来ない。どうしよう。早く治まってと願いながら背中を丸めた。

「あれ?ミナお姉さん?」

声をかけられてゆっくりと視線を上げれば、そこには元太くんと光彦くん、歩美ちゃんに、哀ちゃんの姿があった。学校帰りなのだろう、皆ランドセルを背負っている。
子供達は私と目が合うと血相を変え、慌てたように駆け寄ってきた。

「ちょっと!顔が真っ白よ!」
「ミナお姉さん、どうしたんですか?!」
「姉ちゃん大丈夫かよ!」

子供の目から見てもそんな慌てるほど、今の私は具合が悪そうなんだろうか。大丈夫、と答えたいのに上手く声が出せず、手も小さく震えてしまう。こんなのどう見たって大丈夫じゃないに決まってる。優しい子供達に心配なんてかけたくなかったけど、今この状況では取り繕うことさえ私には出来ないようだ。

「ミナお姉さん、気持ち悪いの?!どうしよう、哀ちゃん…!」
「ミナさん、歩ける?こんなところじゃゆっくり休むことも出来ないわ。ポアロまで行きましょ、荷物は私達が持つから」

言うなり、哀ちゃんや歩美ちゃんが私の荷物を持ってくれる。元太くんの手を借りて立ち上がれば、光彦くんと元太くんが私の両脇を固めて支えてくれた。本当に優しい子達だ。
子供達に連れられるようにして、ゆっくりと歩を進める。ぐるぐるとした気持ち悪さは続いていて、口を押さえる手を離すことは出来そうになかった。
軽やかなベルの音にゆるりと視線を上げれば、気付かぬうちにポアロまでやってきていたらしく哀ちゃんがドアを開けるところだった。

「ミナさん?!」

中から飛び出してきたのは新一くんだ。慌てたように私のところまで駆けてきて、体を支えてくれる。

「ミナさんどうしたんですか…!おいお前ら、何があった?」
「駅前のバス停で座り込んでいたんです」
「顔が真っ白で、具合すげー悪そうでさ!」
「バス停じゃゆっくり休めないだろうからって、哀ちゃんがポアロまで行こうって!」

しゃべれない私の代わりに子供達が新一くんに説明してくれる。それを有難く思いながら、私は新一くんの肩を借りながらポアロの中へと入った。驚いた様子の梓さんがソファー席を勧めてくれる。店内には赤井さんの姿もあったが、それ以外のお客さんはいないようだ。ゆっくりとソファーに腰を下ろせば、赤井さんもこちらに歩み寄ってくる。

「どうした?」
「わかりません、こいつらの話だと駅前のバス停で座り込んでいたみたいだけど…」
「顔色が悪いな。しゃべれないほどなら救急車を呼んだ方が良い」

確かに具合はすこぶる悪いけど、原因もなんとなくわかってるし救急車を呼ぶ必要は無い。私が咄嗟に新一くんの袖口を掴むと、彼らは私の方に視線を向けた。

「……ごめ、ん。…大丈夫だから…」
「大丈夫って顔色じゃないよ、ミナさん…。気持ち悪い?他に不調は?」
「ううん…少し休めば、良くなるから…」

座っていたら、胸元まで広がっていた吐き気や不快感もゆっくりと落ち着いていく。心配した様子の梓さんがお水を持ってきてくれて、それを飲み込めば大分気分も落ち着いてきた。
浅くなっていた息も深く吸えるようになり、私は長い息を吐いてソファーに凭れかかった。…本当にしんどかった。

「…顔色も戻ってきたけど…本当に、何があったの?」

私の隣に腰掛けた新一くんが顔を覗き込んでくる。あまり皆に心配をかけたくないけど、これは説明しないと安心してくれないやつかなぁ。気付けば目の前には赤井さんが、隣のテーブル席には子供達が腰を下ろしていた。カウンターの向こうからは梓さんもこちらを見つめている。
…とても注目されている。

「…ごめん、本当に大したことじゃなくて」
「大したことない、であんなフラフラになったりしないでしょ。ふる、…安室さんに連絡した?」

零さんの本名を口にしそうになって、新一くんは咄嗟に安室さんと言い直す。…それもそうか、梓さんや子供達にとっては彼は安室透さんでしかないのだ。この街で彼の本名を知っている人は限られている。

「ううん、…忙しいかなって…」
「確かに安室くんはここ最近忙しくしていたようだが、それも恐らくそろそろ終わるはずだ」
「えっ、そう…なんですか?」
「でなければ俺もこんなところでボウヤ…失礼、新一と過ごしたりはしていないさ。少し前までは、俺も目の回るような忙しさの中にいたがね」
「ボウヤっての、いい加減やめてくださいよ赤井さん」

赤井さんはFBIの捜査官。確か今は零さんと一緒に仕事をしてるとか…。そっか、同じ仕事をしている赤井さんに余裕が出来たのなら、零さんも同じように余裕ができるということだろうか。

「俺達に事情を話せないのはいい。けれど、パートナーである安室くんには話すべきなんじゃないのか」

赤井さんはそう言いながら、哀ちゃんが椅子の上に置いてくれたドラッグストアの袋をちらりと見やった。
はっとして哀ちゃんを見れば、彼女も小さくこくりと頷く。…袋の中身に気付いた哀ちゃんが、赤井さんにこっそり伝えたのかもしれない。それはそうか、この中で一番大人というか…頼りに出来るのは赤井さんだ。

「…まぁ、まだ確証はないんだろうが」
「……」
「落ち着いたなら送っていこう。また途中で倒れたら困るからな」

何も言えずにいたら、赤井さんが立ち上がってテーブルに紙幣を置いた。どう見たってコーヒー一、二杯分の額じゃない。少し驚いていたら、慌てた新一くんがその紙幣を返そうとしていた。

「ちょっと赤井さん、これ多すぎるって」
「せっかく来たんだ、子供達にも何かをご馳走してやれ」
「つっても余りますよ」
「余った分は捜査協力で返してくれればいいさ」
「もー!またそういうこと言う!」

赤井さんはそのまま、車を回してくると言ってポアロから出ていってしまった。音を立てるドアベルを聞きながら、私はゆっくりと息を吐き出す。
零さんが、帰ってくる。赤井さんの口ぶりだと、もしかしたら今晩にも帰ってきて…しばらくはゆっくり出来るのかもしれない。

「ミナさん」

哀ちゃんに声をかけられて視線を向ける。
彼女は真っ直ぐに私を見つめていた。

「あまり、無理しちゃ駄目よ」
「元気になったら、また一緒に遊ぼうね!」
「お体お大事にしてください!」
「約束だぞ、ミナ姉ちゃん!」

子供達に口々に言われて、表情が綻ぶ。そういえば今日、せっかく子供達に会えたのに少しも笑ってなかったな。私は小さく笑みを浮かべると頷いた。

「ありがとう…またね、皆」

言いながら立ち上がろうとしたら、新一くんが手を貸してくれた。彼もまたじっと私のことを見ていて、…不思議と、少し前にいなくなってしまった小さな名探偵さんと重なった。
コナンくんと新一くんは、本当によく似ているから。

「ミナさん、本当に体大事にしてくださいね。それと、ふ、…安室さんの仕事が落ち着いたのは本当なので。久々に、ゆっくり会えると思いますよ」
「…うん、ありがとう。新一くん」

零さんが帰ってくる。仕事が落ち着いたなら、きっと少しゆっくり出来る。一緒にいられる時間も増えるかもしれない。
それはとても、とても嬉しいことなのに。私はどうしても不安でいっぱいで、上手く笑うことが出来なかった。


***


赤井さんに車で送ってもらい、無事に帰宅。車の中でふんわりと事情を聞かれたので、(答えたくないなら答えなくても良いとは言われたものの)赤井さんにはお話ししておこうと思って、ドラッグストアで何を買ったかだけ伝えた。
妊娠検査薬。まぁ、哀ちゃんから聞いていたのならわかっていただろうし私の不調の見当もついていただろうけど。
赤井さんは、そうか、と一言だけ呟いて頷いただけだった。ただ車から降りる時に、「降谷くんなら大丈夫だ」と言ってくれた。それは、伝えても大丈夫、という意味だったんだろう。

ハロへの挨拶もそこそこにトイレへと直行する。説明書の手順通りに検査薬を使い、ばくばくと音を立てる心臓を宥めながら深呼吸。検査薬の判定窓に視線を向けて…私は、きゅっと唇を噛んだ。
判定窓と終了窓。どちらにも赤いラインがくっきりと入っている。これで、私の体調不良の原因がわかった。簡単な話。悪阻だったということだ。
体調が悪くなり始めたかなり初期から、ハロは私の膝の上に乗りお腹を気にするようになっていた。ハロは、きっと気付いていたのだ。
まだ膨らみも何も無い自分のお腹に手を当てる。いるんだ、ここに。零さんと、私の…赤ちゃん。女の子か男の子かもわからない。無事に産まれてきてくれるかも、そもそも産んでいいかもわからない。でも今この瞬間、間違いなくここに…命が、宿っているんだ。
不思議な気分だった。どう言ったらいいのかもわからないけど、胸がぎゅうと痛んで苦しくなる。嬉しさもある。でもそれ以上に、「どうしよう」という感情が私の脳内を埋め尽くしていた。
繰り返すが、零さんは忙しい人だ。籍を入れて数ヶ月経つけど、今このタイミングで子供を授かってしまったことが正解なのか私にはわからない。今は忙しいからそれどころじゃない、なんて言われてしまうかもしれないし…もしこれで零さんの足を引っ張ってしまうことになったらと考えたら怖くてたまらない。
多分私は、この子か零さんか選べと言われた時に、上手く選択することが出来ないと思う。そんな私が、母親になんてなれるわけが無い。覚悟もないこんな情けない私が、人の親になっていいわけがない。
涙が零れた。わけもわからず、涙腺が突然壊れて涙が溢れ出してしまった。
零さんにも、この子にも…顔向け出来ないと思った。

その時だった。がちゃん、と玄関のドアの開く音がする。
零さんが帰ってきたのだ。はっと息を飲んで、慌てて涙を拭って水を流してからトイレを出る。検査薬はポケットに捩じ込んだ。
とりあえずこんな顔をしていたら零さんに心配される。顔を洗おうとシンクのハンドルに手を伸ばしたが、少しだけ零さんの方が早かった。がちゃりと洗面所のドアが開かれる。

「ミナ?ただい、」

ま、までは言わなかった。
零さんと目が合って、彼の目がみるみるうちに見開かれていく。
少し久々にちゃんと見る零さんの目の下には隈が残っていて、いつもはさらさらの髪もどこか少し軋んでいるようだった。疲れがはっきりと見て取れるのに、私はそんな彼の前に…泣き顔を晒してしまったのである。
ぽろりと再び零れた涙を慌てて拭って顔を背ける。

「あ、お、っ…おかえりなさい、ごめんなさい、ちょっと」
「どうした」

こんな状況で取り繕えるわけないのに、咄嗟に逃げを打った私を即座に零さんが追い詰める。
腕を掴まれて振り向かされた。今は零さんに会いたくなかった。いや、顔を見られたくなかった。まだ話をするだけの覚悟もなくて、一人で考えをまとめたかった。…まとまるかどうかは、わからないけど。

「何があった?なんで泣いてる」
「っ…違うんです、これは…」

言い訳をしようとして、ぐっと喉が締まった。
不快感が上ってくる。お腹の底から胸元を上がり、強く歯を食いしばりながら俯く。口を押さえたら、私の様子に気付いた零さんが小さく息を飲んだのがわかった。

「ミナ?おい、」
「…ッん……」

視界が明滅した。足に上手く力が入らなくなって膝から崩れそうになり、零さんの逞しい腕が支えてくれる。

「ミナ、どうした?気持ち悪いのか?」
「だ、…だいじょうぶ、です…」

その場に座らされるものの、視界がぶれて吐き気も止まない。
救急車を、という声が聞こえてそれだけは避けないとと彼の腕を掴んだ。驚いて振り向く彼を見つめながら、私はポケットに手を入れる。
こんな伝え方、したくなかった。でも今の私に、上手く伝えられるような術などない。
ポケットから取り出した検査薬を差し出せば、零さんが動きを止めて息を飲んだのがわかった。怖くて、顔は見ることが出来ない。

「…ごめん、なさい」

謝罪が零れた。それ以外に、私は零さんになんと言ったらいいのかわからなかったのである。他に言葉を持ち合わせていなかったというのが正しいかもしれない。
検査薬を受け取ったらしい零さんはしばらく沈黙していたけれど、やがてぽつりと呟いた。

「…どうして、謝るの」

肩に触れられて小さく身体を震わせる。けれど、私が顔を上げるよりも先に…私は、零さんに抱き締められていた。
久しぶりに感じる、彼の体温。彼の匂い。胸がいっぱいになって、結局涙は止まらない。

「俺は、嬉しい」
「…、零さん、」
「なかなか帰って来れなくてごめん。仕事を言い訳にするなんて情けないと思うし最低だと思うけど、でもどうしても身動き出来ないくらいに忙しかったんだ」
「…あの、…それは気にしてない、です。だって零さんが忙しいことはわかってるし」
「気にしてくれよ。俺はずっと気にしてた」
「…そんなことより、身体を壊してないかがずっと心配で」

零さんが小さく笑った気配がする。
…怒ってない?鬱陶しいとか、面倒だとか、思われてはいないのだろうか。

「ようやく仕事の方も一区切り着いたんだ。安室透の時ほど早く帰れはしないけど、それでもある程度の時間には帰って来れるし、週に一度は休みも取れる。家族孝行がやっと出来るようになるってタイミングで妊娠したなんて、こんなに嬉しいことはないよ」
「……本当?」
「当然だろ。…いろいろ、不安にさせたよな。本当にごめん。明日は一日オフだから病院に行こう。俺も一緒に行くから」

愛してる。そう囁かれて胸が震える。
何度も言ってもらった言葉なのに、今の私には本当に救いのような言葉だった。一人で悩んでいたのが馬鹿みたい。
私は一人じゃない。夫である零さんがついていてくれる。…なら私は、きっとどこまでだって頑張れる。

私、頑張るよ。だから一緒に頑張って。
まだ見ぬ自分の子供にそっと声をかける。どうか元気で生まれてきますように。