「妊娠六週目ですね、おめでとうございます」

零さんと一緒に病院に行って先生から告げられたのはそんな言葉だった。
妊娠検査薬でほぼわかってはいたことだけど、実際にエコー写真で胎嚢が確認できるとなんとも言えない感動がある。本当に私のお腹の中に赤ちゃんがいる。赤ちゃんとはまだ言えないような小さなものだけど、それでもこれが成長していずれ産まれてくるのだ。胸が詰まって何も言えない私の代わりに、零さんが先生にお礼を言ってくれた。その時、そっと肩を抱いてくれた腕が「大丈夫だ」と言ってくれているような気がして、とても心強かったのを覚えている。
家族が増えるのだからと慣れ親しんだ「MAISON MOKUBA」から引越しもした。確かに零さんと私とハロに、もう一人家族が増えるとなると…少し手狭ではある。
引っ越した先は零さんの職場でもある警察庁に少し近くなり、かと言って慣れた米花町から離れすぎる訳でもないところにあるマンション。間取りは2LDK。ここからなら私も嶺書房に通えるし、むしろバスではなく電車で通えるようになった為、距離的には遠くなったけど通勤時間的には短くなった。
既にある程度の家具が揃えてあったから不思議だったのだけど、どうやら零さんが元々持っていたセーフハウスのひとつだったらしい。

さて、正式に妊娠したと診断されたは良いものの…どうやら私は体質的に悪阻が重いタイプらしく、日々自分の体との戦いであった。
とにかく物が食べられない。余程体調が良い時は上手く消化出来るけど、ほとんどのものを吐き戻してしまうようになってしまった。吐き戻すのにも体力がいるし、かと言って上手く物が食べられない私にそんな体力もなく、体重はびっくりするほどがくんと落ちた。なんとか脱水症状だけは起こすまいと水分は無理にでも摂っているけど、トイレは友達、とはよく言ったもので、まさに私はそんな状態だった。
後は、感情の起伏が自分自身で上手くコントロール出来ない。涙が止まらなくなることがしょっちゅうあって、そんな時は零さんかハロが必ず傍にいてくれた。
悪阻で入院する人もいるって聞いたことがあるけど、私は多分それの一歩手前だったと思う。
もちろんのこと、こんな体調ではまともに店頭に立てるはずもなく、嶺書房は嶺さんに事情をお話しして長期休暇を頂くこととなった。私がいない間は嶺さんと快斗くんで回すから心配するなと優しい言葉まで貰い、本当に恵まれた人間関係に感謝するばかりである。

「っぅ、…ぅえ、」
「大丈夫、落ち着いて」

地獄のような日々の中でもなんとか一日一日を乗り越えられているのは、間違いなく零さんのお陰だ。自分の仕事だってめちゃくちゃに忙しいだろうに、昼には一度家に帰ってきてくれた。夜もなるべく早く帰ってきて、そこからは付きっきりで私の面倒を見てくれる。寝ている最中に私が吐気を催してしまった時も文句一つ言わずに付き添ってくれる。家事もろくに出来ない状態の私は本当に頭が上がらない。

「…ごめん、なさい…」
「何で謝る?君の辛さは俺には代わってやれない、これくらいのことはさせてくれよ」

何も出来なくて歯痒いんだ、なんて零さんは言ったけど、何も出来なくなんかない。零さんが傍にいてくれるから私はまだ頑張れるし、弱音も口にしないでいられる。

「…ごはん、食べられなくて…ごめんなさい」
「君は謝ってばかりだな。そんなこと気にしなくていいよ、食べられそうな時だけ食べてくれ。君の体が一番大事だ」

ぐったりする私を抱き締めながら、零さんはそんなふうに言ってくれた。本当に私は零さん以上の素敵な人には出会えないと思う。
悪阻の症状は大体十二週くらいで落ち着くと言われているけど、結局私の地獄の日々は十八週くらいまで続き、それを過ぎてようやく落ち着いたのである。
悪阻の最中、ファストフードのポテトに救われる日が来るなんて思わなかった。噂には聞いていたけど、ファストフードのポテトが無性に食べたくなるというのは本当で、他の何も受け付けてくれない胃もそのポテトだけは吐き戻さずに食べることが出来た。あれ、本当になんでなんだろう。

悪阻が落ち着いてからは嶺書房にも復帰。日に日に大きくなるお腹を見て、快斗くんは「人体の神秘ってすげぇ」なんて言っていた。何故か涙ぐんで恐る恐る私のお腹を触るものだから、私の緩んだ涙腺は呆気なく崩壊し、快斗くんと一緒に泣いた。お客さんがいない時で本当によかった。ちなみに出産予定の二ヶ月前になって産休に入る時には、嶺さんと快斗くん揃って泣くものだからやっぱり私も一緒になって泣いた。


***


「えぇと…哺乳瓶と肌着にベビーウェア、タオルケットは買った…。オムツもあるし、後はベビーベッドでしょうか」
「チャイルドシートもだな」
「…さすがにチャイルドシートは気が早くありませんか?」
「備えあれば憂いなしって言うだろ?」

今日は、零さんと一緒にお買い物。妊娠も三十二週を越え、いよいよという時期になってきた。本当はもっと早くベビー用品の買い出しが出来ていれば良かったのだけど、無理に家に帰ってきてもらってる分やはり零さんは忙しくしていて、なかなか私と休みを合わせることが出来なかったのである。ようやくこうして休みを合わせることが出来た為、大型ショッピングモールに必要なものを揃えに来たというわけだ。

「とりあえず、残りのものを買う前に少し休憩しよう。疲れただろ」
「…実は少し」
「少しでも疲れたら言ってくれって言ったのに」
「少しだけ疲れたけど、でもまだ大丈夫ですもん。今日はこの子も大人しいし」

そっとお腹を撫でる。
誰に似たのか随分とやんちゃな子らしく、私のお腹を蹴ることが多いのだ。お腹に顔を寄せた零さんもハロも何度か勢いよく蹴られている。そのことを思い出したのか、零さんは小さく苦笑した。
お医者さん曰く、お腹の子は男の子。私の悪阻が非常に重かったからかはわからないが、その分赤ちゃんは元気に順調に育っているとのこと。元気に産まれてきてくれたらそれでいいよ、と思いながら、私は無意識に小さく笑った。

「座ってて。何か飲み物を買ってくるよ。何がいい?」
「…それじゃ、すっきりした甘いものがいいです」
「了解。すぐ戻るよ」

フロアのベンチに私を座らせた零さんは、そのまま軽やかに走っていった。この階の自販機を探しに行ったんだろう。…とは言っても、零さんなら多分もう建物内のことはある程度把握しているような気がするけど。

「…早く君に会いたいなぁ」

自分の膨らんだお腹を見下ろしながら小さく呟く。
妊娠がわかった当初はどうしたら良いかわからなくて怖く思ったものだけど、今はただ息子に会える日が楽しみで仕方がない。
私も頑張るから、無事に産まれてきて欲しい。大切な私の。

「……ミナさん?」

声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは蘭ちゃんだった。蘭ちゃんは私と目が合うと元々大きな目を更に見開いて、こちらに駆け寄ってくる。

「ミナさん!」
「蘭ちゃん、久しぶり。元気そうだね」
「それはこっちのセリフですよ!悪阻が酷いって新一から聞いてたし…もう大丈夫なんですか?」
「心配かけちゃってごめんね。めちゃくちゃしんどかったけど、何とか」

へらりと笑って言えば、蘭ちゃんは少し呆れたように笑ってくれた。

「すっかりお腹も大きくなりましたね。…もしかしてこれ、全部ベビー用品ですか?」
「えへへ、そうなの。今日は来るべき時に備えての買い物をね」
「それじゃあ降谷さんも一緒なんですね。…ふふ、待ち遠しいなぁ」

蘭ちゃんは柔らかく笑ってから、私のお腹に触っても良いかと尋ねてきた。もちろんと答えると、彼女の手のひらが優しく私のお腹を撫でる。元気で産まれてくるんだぞ、なんて声をかけながら笑う蘭ちゃんの横顔は、なんだかすごくキラキラして見えた。
…ほんの少しだけ、お化粧してる…?普段の蘭ちゃんもすっごく可愛いけど、なんだか今日はいつにも増して可愛い。お洋服もお洒落してるし…園子ちゃんや世良ちゃんとショッピング、というわけじゃなさそうだ。
ということは。

「もしかして今日は新一くんとデート?」
「えっ。…えっと、はい。まぁ」

問うと、蘭ちゃんは少し照れくさそうに笑う。でもすぐにむっと頬を膨らませて私の方にずいと顔を近付けた。

「でも新一の奴、酷いんですよ!かれこれ三十分以上本屋に入り浸ってるんです。好きな作家のミステリー小説の品揃えが良いとかで」
「あーなるほど。だから蘭ちゃん一人なんだね。…とは言っても、なんと言うか新一くんらしいなぁ」
「私は飽きちゃったので一言声をかけて出てきちゃいました。…まぁ、声をかけた時も適当な返事しか返ってこなかったので聞こえてなかったかもしれないですけど」

新一くんが蘭ちゃんのことを大切に思っているのも、蘭ちゃんが新一くんのことを大切に思っているのも…まぁ要は二人が相思相愛なのは傍から見ていてもよくわかるんだけど、新一くんがわりとマイペースなことで蘭ちゃんとぶつかることも多いみたいだ。大切な女の子ならしっかり捕まえておかないとだぞ、名探偵くん。…なんて心の中でこっそり呟く。

その時だった。
目の前の蘭ちゃんがはっと息を飲んで口を開きかけたタイミングで、後ろから太い腕に首を締め上げられる。

「っ?!」
「ミナさんっ!」
「動くな!」

男性の声だった。後ろから締め上げられているから男性の顔までは見えないけど、若くはなさそうだ。私を掴む腕と反対の方の手には刃渡り三十センチはありそうな包丁が握られている。
さっと血の気が引いた。騒動に気付いた周囲の買い物客も動きを止め、あちらこちらから悲鳴が上がっている。

「テメェら全員言うことを聞け!聞かねぇならこの妊婦の命はねぇ!!」
「ッ、人質なら私がなるわ!ミナさんを放して!」
「うるせぇ!俺の言ったことが聞こえなかったか?!余計な口聞いてるとこの妊婦の腹ぶっ刺すぞ!!」

蘭ちゃんが身を乗り出すものの、男の声にぐっと言葉を詰まらせている。身動きなんて出来ない。もうじき産まれてくる我が子を守れるのは私だけだ。恐怖は当然ある。手も足も震えて呼吸が浅くなる。でも、不思議と頭は冴えていた。

「蘭ちゃん、私なら大丈夫。…この人の言うことを聞いて」
「っ、でも…!」
「大丈夫」

大丈夫。大丈夫。
こんな騒ぎだ。新一くんや零さんが気づかないわけはない。私だけなら絶望する状況だけど、彼らがいるとわかっているならさほど怖いものでもない。そう自分に言い聞かせる。

「へ、へへ。聞き分けがいいじゃねぇか」
「…目的は何なんですか?」
「人が死ぬのを見て見たい。人を殺してみたい。妊婦を殺せば俺の殺人カウンターは二人になる。一石二鳥ってやつだ」

私にしか聞こえないような声で呟く男を振り返るのも嫌だった。救いようがない、最低だ。
不意にかちりという音とともに首に何かが嵌められる。冷たい金属で出来た、首輪のようなもの。
これは何だと眉を寄せたら、私を捕らえたままの男が声を上げた。

「このベンチの下に爆弾を仕掛けた!!二十分後に爆発する!」

ざわめきが大きくなる。悲鳴とともに、駆け出す人々の波に息を飲む。蘭ちゃんだけは変わらず私と男の目の前にいて、どうしたものかと思考を巡らせているようだった。

「あんたはここを離れられないぞ。爆弾とあんたの首輪は連動してる。爆弾から十メートル離れた途端にドカン、だ」

精々派手に死んでくれ、なんて。悪趣味にも程があるじゃないか。
こんなところで、死にたくなんかない。私はこの世界で生きていたい。生きていきたい。大切な我が子の誕生も見届けられないまま、大好きで大切な人達に何かを返せないまま、ここで死ぬなんて…絶対に、嫌だ。でも私は二十分後には、もう。
とん、とお腹を蹴られた。もちろん内側からだ。
いつもみたいに暴れるような蹴り方じゃない。とん、と一度だけ優しく、まるで背中を叩くような。
…そうだよね。弱気になっちゃダメだよね。息子に励まされるなんて、情けないね。
私はまだ、大丈夫。
大丈夫、大丈夫。

「ぐぁっ!!」

突然私を捕らえていた男の腕の力が緩んだ。はっとして振り向けば、床に伏せる男の姿と、傍に転がる…マネキンの、頭?
男は完全に伸びてしまっているようだ。今のところピクリとも動かない。

「新一!降谷さん!」

蘭ちゃんの声に顔を上げると、こちらに駆け寄ってくる新一くんと零さんの姿があった。…どうやらこのマネキンの頭は新一くんが蹴ったもののようだ。的確に犯人の頭にぶつけるなんてどんな神業だ。…そういえばコナンくんも、蹴り技にすごく長けていたな。こんなところまで似てるんだ。

「ミナさん!蘭!」
「怪我はないですか?!」
「私は大丈夫…!ミナさんは?!」
「平気、怪我もないよ」
「早く避難しないと…!」

蘭ちゃんに手を掴まれて、咄嗟にもう片方の手で強くベンチの縁を掴む。私が今ここから離れるわけにはいかない。

「ダメなの」
「ミナさん?」
「この首輪、爆弾と連動してる。私がここから十メートルでも離れたら爆発するの」

言うと、三人が息を飲んだ。
男はまだ気を失ったままだ。さっき男は二十分後に爆発すると言った。あれから何分経った?爆発までの時間は進み続けている。

「爆弾は?」
「ベンチの下って言ってました!」

蘭ちゃんの声を受けて、新一くんがベンチの下を覗き込む。小さな舌打ちが聞こえたから、爆弾を見つけたということなんだろう。

「爆発まで残り十五分を切ってる」
「爆発物処理班は到底間に合わないな。ここで解体する」

そうだ。零さんは、爆弾の解体が出来るんだった。私は実際にその場面を見た訳ではなくて話に聞いていただけだけど、小型のナイフを取り出す零さんはすごく頼もしく見えて…無意識に強ばっていた体から力が抜けるのを感じた。
確か、東都水族館の時だったな。赤井さんとコナンくんの会話の中で、零さんが爆弾を解体したということを聞いたんだ。

「降谷さん、私ソーイングセット持ってる…!糸切りばさみとピンセット、良かったら使ってください」
「ありがとう、助かります」
「俺、下からライトで照らすよ」
「よろしく。十分で終わらせる」

零さんも新一くんも蘭ちゃんもいる。巻き込んでしまって申し訳ないという気持ちもあるけど、私はただ安心していた。
彼らが無謀を奇跡に変える瞬間なんて、今まで何度も見てきたのだ。もうダメだと思い、その度に彼らに救われてここまできた。そんな彼らに疑いなんて覚えるはずもない。

「ミナ」

顔を上げると、額に優しい口付けが降ってくる。小さく息を飲んで見つめると、零さんはそっと私の頭を撫でた。

「大丈夫。絶対に守るよ」

零さんはそう言いながら、自信に溢れた笑みを浮かべたのだ。それはきっと、私を安心させる為だったんだろう。

ねぇ、聞こえてる?

そっとお腹を撫でながら問い掛ける。優しくお腹を撫でると、さっきみたいにまたとん、と蹴り上げられた。聞こえてるよ、とでも言っているかのように。
君のお父さんは、こんなにもかっこよくて…頼もしくて、優しくて。最高に、素敵な人なんだよ。


***


「ふぁ、うぁあーん…!」
「あれっ、さっきミルクもあげたしオムツも替えたばかりなのにどうしちゃったかな…!」

数分前に寝たはずの息子が声を上げる。零さんと一緒にキッチンに立っていた私は、慌てて寝室のベビーベッドへと向かった。産まれたばかりの息子は、まだ短い手足をふにゃふにゃと動かしながらタオルケットを蹴飛ばし、何やら訴えかけている様子。
むずがるように身動ぎする我が子を抱き上げてやると、小さな手のひらで私の服をぎゅうと掴み、必死にしがみついてきた。
普通よりも少し浅黒い肌に、黒い髪の色。零さんよりももう少しグレー寄りの目。男の子は母親に似て女の子は父親に似ると言うけど、この子は幸いなことに総合的に見て零さん似だ。目元なんか零さんそっくりで、将来はイケメンさん間違いなしだと私は鼻高々なのである。

「怖い夢でも見ちゃったのかなぁ。大丈夫、大丈夫だよ」

大丈夫、大丈夫と繰り返しながらふと思う。この「大丈夫」は、考えてみれば零さんから始まった言葉だった。
以前居た世界で、私が上手く泣けなかった時。零さんがそっと背中を叩きながら、「大丈夫」と言ってくれた。染み入るようなその声に、すごく安心したのを覚えている。あの時の「大丈夫」が、今ここに繋がっているのだと思うととても不思議な気分だ。
似たような世界。けれども、随分と遠くに来てしまった。遠く離れたこの世界に来て、私は最上の幸せを手にしたのだと思う。

「ミナ」

声をかけられて振り向くと、唇に何かが押し当てられた。きょとんと目を瞬かせると、零さんが小さく笑う。唇を開いてぱくりと頬ばれば、トマトの酸味とオリーブの香りがふわりと広がる。黒トマトとオリーブのピンチョスだ。美味しい。
この後蘭ちゃんと園子ちゃん、世良ちゃんが遊びに来てくれることになってるのだけど、彼女達に振る舞う料理の味見である。久しぶりに安室さんのハムサンド≠ェ食べたい、なんてリクエストされたものだから、零さんも随分と張り切っている様子。ハムサンドだけじゃなく、ピンチョスやパスタ、ステーキなんかも用意しているのだからすごい。自宅のキッチンでフランベなんていう高等技術が見られるとは思わなかった。

「おいひいれふ」
「それは良かった。…ママの腕の中で安心して寝ちゃったのか」

気付くと、さっきまで泣いていた我が子はすっかり脱力してすよすよと寝息を立てている。ふくふくした頬を零さんがちょんちょんとつつけば、少し身動ぎして小さな手でその指先を掴む。すると、零さんは蕩けるように笑った。

「…なんだか、今でも少し信じられなくて」
「信じられない?」
「この俺が、父親なんてさ」

零さんが小さな手をそっと撫でてやると、眠ったまま今度はへらりとだらしのない笑みを浮かべる。…この笑い方は間違いなく私似だな。

「君の世界に行った日から、俺は夢を見ているんじゃないかってたまに思う。目が覚めたら君もいなくて、ずっと追っていた案件は片付いていなくて…全て俺の妄想なんじゃないかって」

零さんがそっと私の腕から息子を抱き上げる。脱力した体はあっさりと零さんの腕の中に移り、寝心地の良い場所を探して小さく声を上げたがすぐにまた眠り始めた。
…パパの腕の中も、安心するんだよね。

「零さん」

そっと彼の肩に頭を寄せる。
妄想なんかじゃない。夢なんかじゃない。夢なんかにさせない。
私は確かにこことは違う世界で生まれ育った。そして零さんと出会い、遠いこの世界へとやってきた。似て非なる世界。近いようで、きっと最も遠い場所。
今私は、そこで生きている。そしてこれからも、ここで生きていく。大好きな人達と、大切な人達と共に。零さんや、我が子と共に。

「夢じゃないです」

すり、と零さんの肩に頬を寄せれば、彼はほんの少しだけ笑ったようだった。息子をそっとベビーベッドに戻し、今度は私を抱き寄せる。彼の背中に腕を回して、隙間なんて作らないようにぴったりとくっつくのが私はすごく好きだ。

「うん。…ありがとう、ミナ。俺は今、すごく幸せだ」
「…私も、すごく…幸せ」

彼の腕の中で幸せを噛み締めながら目を閉じ、彼の鼓動に耳を傾ける。不意に聞こえてきた声に、私はぱちりと目を瞬かせた。

…急に泣き出すからビビった。オイ伊達、お前のせいだぞ

すまねぇ、あんまりに可愛いもんで顔を近づけ過ぎた

目元はゼロにそっくりだな

んでも、口元はミナちゃんそっくり

声はベビーベッドの方から聞こえる。けれど視線を向けても、そこには何も無い。ただどこかで聞いたような、優しい声に溢れているだけだ。
この声は。

ま、夫婦仲良く、親子仲良くな

降谷がパパかぁ…感慨深いねぇ

ミナがママってのも俺としては感慨深いが

そう。私はこの声を、知っているのである。
どこで聞いたのかも思い出せない。夢か現実かも分からない曖昧な中で、けれども間違いなく事実として私の中に残っている。
知っている。私はこの声を、この人達を。

「あ、」
「うん?」

彼らの名前が喉元まで出てきているのに、上手く言葉にできない。今すぐ名前を呼びたいのに、霞みがかったようではっきりと掴むことが出来ない。

ありがとう、ミナさん。どうか、幸せに

「零さん、上手く言えないん、ですけど」

そう、上手く言えない。でも、あの優しい声に、もう一度会いたいと思う。会うというのは直接会うとか顔を合わせるとかそういう意味じゃなくて、そもそも声に会いたいっていうのはなんだか変な話で…ああ、もどかしい。
不思議そうに首を傾げる零さんを見上げて、口を開く。

「お墓参り、行きたいです。…零さんの大切な人達の。あの、…わからないんですけど、本当によくわからないんですけど、…ガラの悪い守護霊さん達の…」

そこまで言うと、零さんは心当たりがあったのか小さく息を飲んで大きく目を見開いた。
それから一瞬だけ表情を歪め、私の体をぎゅうと強く抱き締める。
確かに知っているはずなのに、名前も思い出せない。声を知っているはずなのに、誰なのか明確に言えない。
けれど、覚えている。私はあの声に…優しい声に救われて、今、ここにいるのだ。

「あぁ。…行こう」

零さんが小さな声で呟く。
もう、あの優しい声は聞こえなかった。多分もう聞こえることは無いんだろうという予感もあった。
だからこそ、会いに行きたいと思った。私を救ってくれた、そしてきっと零さんを支えてくれた、彼らの元へと。

「アン!アンッ!」

玄関のチャイムが響いて、ハロがはしゃいで声を上げる。蘭ちゃんと園子ちゃん、世良ちゃんがやってきたのだろう。
もてなしの料理は零さんの力作、準備は万端。
私達を玄関へと促すハロの声を聞きながら、私達は一度だけ唇を重ねて笑み浮かべ、来客を迎えるべく玄関へと足を向けた。

幸せは今、ここにある。