透さんが「仕事でしばらく留守にする」と言って家を出て行ってから、五日が経った。透さんはグレーのスーツで出ていったから、恐らくというか十中八九…探偵やポアロのお仕事ではなく、本業であるお巡りさんの方のお仕事なんだろう。
家を出ていくギリギリまでご飯を用意出来ないことを謝罪し、家を任せることになってしまうことを謝罪し、なるべくちゃんとしたものを食べるようにと私のことを心配していた。私が料理出来ないことは透さんも承知の上だし心配されるのも仕方ないとは思うけど、私もこれでも一応そこそこの期間一人暮らしをしていた身なんだけどな。簡単な…本当に簡単な、自分で食べる分の料理くらいなら出来ないこともないし。
透さんがいない事で少しでも自炊も出来るようになろうと決めた私は、ネットで簡単レシピを見ながら少しだけ料理もできるようになった…と思う。少しだけ。
今日の夕御飯はトマト缶で簡単に作れるミネストローネだ。野菜やキノコをみじん切りにして煮込むだけなので、私でも問題なく作ることが出来る。お風呂上がりでさっぱりしたままキッチンに向かっていたのだが、ふと透さんがお仕事で家を空けて何日かと考えて小さく息を吐いた。

「…今日で五日、かぁ」

…ほんのちょっとしょっぱすぎたかもしれないけど許容範囲だ。食べれる。問題ない。ミネストローネの味を確認して思わず小さく呟くと、足元にハロがじゃれついてきた。玉ねぎたっぷりのミネストローネは、君には食べられないのだ。ごめんねハロ。
明日は日曜日。私はお仕事もお休みだし、帰ってくるかはわからないけど家でのんびり透さんの帰宅を待つのも良いかもしれない、なんて考える。
私も寂しく思っているのだし、ハロだってご主人様に会えなくて寂しいに決まっているよなぁ。

「さすがにちょっと寂しいね、ハロ」
「アンッ」

声をかければそんな返事。
帰ってくる時間がわかっていたらお風呂沸かして待っていられるんだけどな。疲れて帰ってくるだろうからお風呂でゆっくりとか…いや、それよりも寝不足になっている可能性も考えて寝かせてあげた方がいいのかな。私に出来ることはなんだろうと思いながらコンロの火を止める。
丁度そのタイミングで、がちゃんと玄関のドアが音を立てた。

「あれ、」

振り向くと、ドアが開いて疲れ切った様子の透さんがネクタイを弛めながら入ってくる。…思っていた以上にお疲れの様子だ。でも少し久しぶりに透さんに会えたことに、現金な私の胸はとくりとくりと高鳴っていく。

「おかえりなさい、透さん」
「…あぁ、うん。…ただいま、ミナ」
「えっ」

せめて鞄と上着くらいはと思ってハンガーを手に歩み寄って声をかけると、聞き慣れない呼び方で呼ばれて声がひっくり返った。ぽかんとしている私を他所に、透さんは持っていた鞄を玄関に放り投げるとそのまま私に強く抱きついてくる。
えっ。えっ?!何事?!

「と、っと、透さん…?!」
「…うん…ただいま…」

ぐいーと体重をかけられて私は小さくたたらを踏む。細身だとは言っても透さんは立派な成人男性で綺麗についた筋肉はそれ相応の重みがある。ハンガーを持ったままではバランスが上手くとれず、慌てて私はハンガーを手放して彼の背中に腕を回した。
…いつもの透さんの香水の匂いと、ほんの少しの汗と埃の匂い。不快なものじゃない。彼の体はほんのりとした熱を持っていて、少しパサついた髪からも彼の様子からも本当にお疲れなんだなと改めて思う。
ボクも混ぜてと言わんばかりに私達の足元で跳ね回るハロには悪いが、ハロと透さんの挨拶はもう少し後だ。
…これは、寝てもらった方が良いかもしれない。

「…透さん、おかえりなさい」
「…うん…」
「寝ます?」
「寝ない」
「じゃあ、シャワー浴びます?それともお風呂沸かしましょうか」
「…んー……、……いい匂いがする」
「えっ…あ、み、ミネストローネですか?」
「…ミネストローネもだけど…ミナさんも、」

舌足らずな彼の声はいつもよりも甘く蕩けているように聞こえる。ぶわわ、と顔に熱が上がるのを感じながら、ひとまずこの状況をなんとかしないとと思いながら彼の腕の中で身動ぎした。

「み、ミネストローネ、食べます?あっ、私が作ったものなので味の保証は出来兼ねますが…!」
「…うん……食べる。……先にシャワー、浴びてくる……」

ちゅ、と首筋に唇を押し当てられて、ひぇっと変な声が出た。彼はそんなこと気にした様子も見せず、ふらふらと少し覚束無い足取りで洗面所に入っていった。
…心臓がばくばくしてる。五日ぶりに透さんに会ったのだ。それだけでも私はとてもとても嬉しいのに、なんだか、いつもとちょっと違う…甘えたような様子を見せる透さんに、私はノックアウト寸前である。
透さんは何でも出来て、強くて、かっこいい人だ。なのに、なんだか今日はとても、可愛い。それでいて声は甘くてセクシーで、私には刺激が強すぎる。

「…透さん、疲れてるみたいだから…今日はゆっくりさせてあげようね、ハロ」
「クゥン」

ご主人様への挨拶をしそびれたハロは不服そうに鳴いて、パタパタとしっぽを振っていた。


***


シャワーを浴びたことで少し頭がすっきりしたらしい透さんは、Tシャツにスウェットというラフな格好で肩にタオルを引っ掛けて出てきた。先程までの今にも閉じてしまいそうだった瞼はひとまず開かれ、普段よりも少しゆっくりめに瞬きしている。

「あ、あの、本当に不味かったら残してくださいね」

テーブルには私と透さんの分のミネストローネに、オーブンで少しだけ焼いた丸パン。少ししょっぱいからと思ってパンを用意してみたが、疲れてるということは胃も弱ってるんじゃないだろうか。私の作ったものなんて食べて大丈夫かななんて不安に思っていたら、透さんは苦笑を浮かべた。

「大丈夫、いただきますよ」
「う、…その、どうぞ…」

椅子に座った透さんがカトラリーを手に取り、いただきますと礼儀正しく口に出す。そのままスプーンでミネストローネを掬うと、ゆっくりとした動作で口に運んだ。
味見は…した。大丈夫だと思いながらも、思わず両手を胸の前で組んで彼の様子をじっと窺ってしまう。そんな私に気付いた透さんが、ふとこちらを見て小さく笑う。

「そんな緊張しなくても」
「だ、だって。…透さんに不味いもの食べさせるわけにはいかないですもん」
「美味しいですよ。玉ねぎたっぷりで、よく煮込まれてて」
「…本当に?」
「ええ、本当に」

疲れた体に沁みます、なんて言いながら、透さんはミネストローネを食べ進めてくれる。…良かった、不味くはないみたいだ。そのことにほっとして、私もようやく自分の分に手をつけた。
透さんのお陰で随分と舌が肥えてしまった気がする。カップラーメンやファストフードは無性に食べたくなることがあるけど、基本はやっぱり透さんの作る料理が一番だ。ここ五日間食べられていないから、透さんが元気になったらまたご飯作って欲しいな、なんて思う。…烏滸がましいけど。

「…そういえば、明日は?」
「働き詰めでしたから、明日は休暇をいただきました。明日は日曜日ですし、ミナさんもお休みですよね?」
「はい。私も予定は何も無いので、透さんはゆっくり休んでください」

透さんのスーツ少しよれていたし、明日クリーニングに出しに行こうかな。…そういえば、さっきは玄関先で「ミナ」なんて呼び捨てにされたけど…シャワーを浴びてからは、すっかりいつもの透さんだ。さっきの雰囲気が違う透さんも素敵だったのにと、少し残念な気持ちになる。
ミネストローネスープとパンを食べ終わり、食器洗いは私がやるからと透さんをベッドに促す。歯を磨いてから、なんて言いながらふらふらと洗面所に向かう透さんは、そろそろ限界だろう。シャワーを浴びても目の下の隈は誤魔化せない。しっかり休んで、元気になって欲しいのだ。
洗った食器を水切り籠に伏せて手を拭う。私も歯を磨いてから台所やダイニングの電気を消し、足音を立てないように寝室に向かえば、透さんは電気をつけたままベッドで小さく寝息を立てていた。顔面に左腕を乗っけて、右腕はベッドの縁から飛び出している。恐らくハロを撫でながらそのまま寝落ちたんだろう。ハロも透さんがお疲れなのはわかっているみたいで、無理にベッドに上がったりせず畳の上でおすわりをしたままパタパタとしっぽを振っている。本当に賢い。
透さんを起こさないようにベッドの縁に腰を下ろし、彼の腕をベッドの上に上げる。タオルケットを彼の体にかけようとすれば、不意に手首を掴まれてびくりと体が跳ねた。びっくりした。

「…と、…透さん?」
「…ん…」

透さんは腕を退けると、ゆっくりと瞼を押し上げる。眠いのと眩しいの両方なのか軽く目を眇め、のそのそと体を起こすと私をじっと見つめた。それから、ベッドに腰掛けたままだった私の膝にダイブした。

「わぁっ?!」

思わず変な声を出してしまった私に罪はないと思う。かちこちに体を硬直させる私に構わず、彼は私の膝の上に頭を乗せたまま小さく呻くとそのまま私の腰を抱き込んだ。私のお腹に顔を寄せて、そのまま再び目を閉じる。

「と、…と、…透、さん…」
「…ミナ、いい匂いがする…」

すん、と匂いを嗅がれてピャッと背中が震えた。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。…けど、普段見ないような…甘えるような様子を見せる透さんを、可愛いと思ってしまうのも事実で。ミナ、なんて呼ばれるのも、やっぱりどうしても嬉しくて。
そっと彼の頭を優しく撫でると、彼が小さく笑ったのがわかった。シャワーを浴びた後濡れたままろくに乾かさずベッドに倒れ込んだせいか、透さんの後頭部には軽い寝癖がついている。そこを指で梳かして整えると、透さんは満足そうな笑みを浮かべて少しだけ目を開け、私を見上げてくる。眠気に蕩けた瞳か美しくて、胸がドキドキと高鳴った。

「透さ…」
「ん、」

透さんは私の膝から体を起こし、そのまま触れるだけのキスをした。動けない私をそのままに立ち上がって部屋の電気を消すと、半ばぶつかるような勢いで私を抱え込んでそのままベッドに倒れ込んだ。かと思えば、ずりずりと体を動かして、その、…私の胸元というか…お腹の辺りに顔を埋めるようにして抱きついてくる。

「…あの」
「…今日は、俺がれいくん=v

へ、と目を瞬かせたら、透さんが上目遣いで私を見上げてくる。暗い中でも彼の瞳は綺麗で、じっとこちらを見ているのがわかった。眠そうなのに、何故だか視線と声は強い。

「れいくん、って…」
「うさぎのぬいぐるみ。今日は俺がそれの代わり」
「れいくん」
「そう」

呼んで、と甘えるような声で言われれば、私はそれに逆らうことなど出来ない。彼の頭をゆるゆると撫でながら、胸が温かくなるのを感じる。

「…れいくん、」
「…うん…」
「れいくん」

よしよし。彼の頭を優しく撫でる。愛おしさで胸がいっぱいになって、彼が望むならなんでもしたいとさえ思う。
少しずつ彼の腕から力が抜けていくのを感じながら、完全に彼が寝入るまで頭を撫で続ける。やがて静かな寝息が聞こえてきて、こんな彼を見られるのはとってもレアだななんて思って小さく笑う。
彼の額に小さなキスをひとつ。…もしかしたら今日見た彼が…本来の彼に、近いものなのかもしれない。呼び捨てで呼ばれることも、彼が自分のことを俺と言うのも、いつもとは違うけど…かっこよくて素敵であることに変わりはない。

明日は私も透さんもお休みだ。たくさん寝て…出来るならお昼くらいまでたっぷり透さんを寝かせてあげたい。それからゆっくり起きて、残っているミネストローネスープを温めて透さんと一緒に食べよう。食器洗いと洗濯物を片付けて、透さんのスーツをクリーニングに出しに行く。帰ってきたら夕御飯。私が頑張って作るつもりだけど…もし出来るなら、彼に傍で見ていて欲しいな。透さんと一緒にキッチンに立つのは楽しい。

「…れいくん、…毎日、お疲れ様です」

そっと呟いて、私も彼の後頭部に腕を回したまま目を閉じる。
今日は、透さんはれいくんの代わり。…なんて、いつもとちょっと体勢が違うだけでくっついて眠ることに変わりはないけど。
でも願わくば。彼に、穏やかな夢の中で眠って欲しいと思う。
おやすみなさい。また明日。