「いらっしゃいませ」

その喫茶店に入ったのは、本当に偶然だった。私はそもそも米花町にはあまり来ないし、レストランや喫茶店なんかはどうしても入りやすいチェーン店を使うことが多かった。そんな私が喫茶ポアロという喫茶店に入ったのは…突然降ってきてしまった大雨のせいというのが八割。残り二割は、純粋に珍しく興味を引かれたからだったのである。
陣平くんに「喫茶店で時間を潰してるね」と連絡ツールで送信。時刻は夕方五時を過ぎたところである。
…考えてみれば、陣平くんとも随分と長い付き合いになったものだ。私が中学の頃からだから…十五年以上?時が過ぎる恐ろしさを痛感する。
ドアを開ければ涼やかなベルの音と、芳醇なコーヒーの香りが広がった。店内に客の姿はない。店員もどうやら一人だけのようだ、と思いながら顔を上げて、私は見覚えのある顔を前に目を見開いた。

「………降谷くん?」

金色の髪に褐色の肌、そして青い瞳。一度見たら忘れないであろう容姿の彼。数年前に数回しか会ったことはないけど、優しくしてくれたのを覚えている。
彼は私を見ると驚いたように目を瞬かせ、それから少し迷うように視線を泳がせ、すぐに小さく苦笑した。

「佐山さん、だよね。久し振り」
「や、やっぱり降谷くんだよね?!わぁ、久し振り…!元気だった?!」

思わずカウンター越しに降谷くんに駆け寄る。そこで私は少し衣服が濡れてることに気付き、慌てて鞄からハンカチを取り出して水滴を拭った。
そんな様子を見た降谷くんは、私に温かいお絞りを差し出してくれる。有難く受け取った。

「久し振り。こんなところで会うなんて思ってなかったな。そっちこそ、元気だった?」
「うん。…最後に会ったのって、君達が警察学校卒業するときだったよね。懐かしいなぁ…」

彼に促されるままカウンター席に腰を下ろす。メニューを広げるけど、雨宿りで立ち寄っただけなので何を注文しようか迷う。…服が少し濡れてるし、このままじゃ冷えちゃいそうだな。悩んでいたら、降谷くんがカウンターに頬杖をつきながら「俺の淹れるコーヒー、美味いよ?」なんて笑うものだから、それじゃあとブレンドコーヒーを注文した。

「…でも、びっくりだな。降谷くん、警察官になってるんだと思ってたから…」
「安室」
「えっ?」
「訳あって降谷零の名は名乗れないんだ。だから、安室透って呼んで」
「……、わかった。安室くんね」

陣平くんと降谷くんは、警察学校時代の同期だ。喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったもので、よく殴り合いの喧嘩をしていたと聞く。最初は殴り合いなんて、と青ざめてたけど、同じく同期の萩原くんや伊達くん、諸伏くんが「仲が良い証拠だよ」なんて笑っていたし、実際陣平くんと降谷くんが仲良しだとわかったから私もあまり気にしなくなった。怪我はやめて欲しいけど。
陣平くんが、ある時から降谷くんと連絡が取れなくなったと落ち込んでいたけど…元気でやっていたんだな。詳しくはわからないけど、多分、警察官として。本名を名乗れないということは、きっとそういうことなんだろう。

「…陣平くんが心配してたよ。急に連絡が取れなくなったって」
「悪いとは思ってるよ。でも、今は連絡をする訳にはいかないから」
「そっか。…じゃあ、今日私が安室くんとここでお話したことも黙っておくね」
「そうしてくれると助かるよ。…というか、今でも松田と付き合いあるんだ。確か、中学校からの付き合いだったよね」
「うん。中学入学で同じクラスになって。家もお互いに近かったから、行きも帰りも一緒だったりね」

まぁ、私が陣平くんにくっついてただけなんだけど。陣平くんは何だかんだ面倒臭そうにしながらも結局は私に優しくしてくれたし、陣平くんに惹かれるのは必然だったのかなぁなんて思う。きっと私は、出会った時から陣平くんのこと気になってたんだろうし。

「私、名字が松田になるんだ」

へへ、と笑いながら指輪の嵌った左手の薬指を見せると、降谷くんはぱちぱちと目を瞬かせてから優しく笑った。…今も昔も、綺麗に笑う男の子だ。…もう男の子なんて歳じゃないだろうけど。

「そう。おめでとう、佐山さん。この名前で呼べるのもあと少しなんだね」
「うん。松田ミナなんて自分でもまだ馴染まないけどね」

陣平くんと結婚する。その事実はとても嬉しいけど、未だ実感がわかないというか。今までもずっと一緒にいたし、変わり映えなんてしないんじゃないか、とか…どちらかと言えばそんな不安の方が大きい気がする。陣平くんはそんなこと気にも留めてないみたいだけど。彼は昔からそうだ。私ばかりがちょっと不安を覚えたりして、彼がそんな不安を吹き飛ばしてくれる。
今回も、そうだったらいいな。

「はい、ブレンドコーヒー」
「わ、ありがとう」

降谷くんがテーブルにコーヒーカップを置いてくれる。立ち上る香りは店に漂う香りと同じ。いただきます、と小さく呟いてからカップを口に運んだ。口に広がる深い味わいに、思わず溜息が零れた。確かに降谷くんの淹れるコーヒーは美味しい。こんな美味しいの久々に飲んだかも。少し冷えた体もじんわりと温まっていく。私の様子を見ながら、降谷くんは笑っていた。

「美味しい…」
「それは良かった。…そういえば、佐山さんはこの辺りに住んでるの?」
「ううん、米花町にはほとんど来たことがないの。今日はたまたま。陣平くんと待ち合わせしてて」
「へぇ。これからデート?」
「ふふ、まぁね」

これから、陣平くんと夜のデートである。陣平くんが米花町の方でお仕事とのことだったので(今日は爆発物処理のお仕事ではないらしい。さすがに毎日爆弾が見つかっていたらそれはそれで問題だ)、私から米花町へと出向いてみた。

「もう一緒に住んでるの?」
「うん。陣平くんのマンションで一緒に住んでるけど、少し手狭になってきたから引っ越そうかって話もしてるんだ。たまに萩原くんが遊びに来るよ」
「それはまた。部屋、煙たくなるな」
「そりゃもう。二人とも煙草大好きだからね」

考えてみれば、私と陣平くんが付き合って婚約に至るまで互いの話を聞いてくれたのは萩原くんだったな。よく遊びに来るし、三人でも遊んだりしたし。

「当然プロポーズは松田からだろ?」
「えへへ、うん。陣平くんが二の足踏んでたのを、萩原くんと伊達くんが後押ししてくれたんだって。二人とも、結婚式にも来てくれるんだ。…降谷くんにも招待状出したかったんだけど、今は事情があるんだもんね」
「うん。ごめんね」
「ううん。…ねぇ、諸伏くんも…もしかして事情があったりする?」

降谷くんと諸伏くんはとても仲良しで、聞いたところだと小学校からの幼馴染だったそうだ。諸伏くんも降谷くんと同じく連絡が取れなくなっており、そんな二人のことを陣平くん始め萩原くんや伊達くんもとても心配していた。
教えてくれないかもしれないなと思って聞いてみたら、降谷くんはほんの少しだけ目を細めて少し寂しげに笑った。

「うん。…ごめんね」
「そっか」

なんとなく立ち入れない事情があるんだと察して、努めて明るめの声で軽く返す。仲良しな陣平くん達に話せないような内容だ。私が深く踏み入って良いような話じゃない。そもそも今日ここで私が降谷くんに会えたのだって、本来なら無かったことかもしれないのだし。
ブー、とテーブルに置いていたスマホが震えた。陣平くんからの電話だ。ふと思い立って、私は人差し指を立てて口元に寄せると降谷くんを見た。彼は目を瞬かせていたけど、私の意図は伝わったはずだ。
スマホの画面をタップして、通話と同時にスピーカーボタンを押す。

「もしもし」
『ミナ?お前、今どこだ』
「陣平くん、お仕事終わった?」
『あぁ。迎えに行く』
「わかった、じゃあ米花駅前まで行くね」
『了解。駅に向かうわ』

スピーカーから聞こえてくる陣平くんの声と会話を続けながらちらりと降谷くんを見つめれば、彼はカウンターに頬杖をついてほんの少し目を細め流れてくる音声に耳を傾けている。少し寂しそうだったけど、その表情は穏やかだ。
降谷くんから陣平くんに連絡は取れなくても、せめて彼が元気にしていることを伝えたかった。陣平くんの声を聞くのもきっと久しぶりだろう。

「雨、まだ降ってる?」
『あ?あー、大分弱くはなってるぞ』
「そっか、じゃあ大丈夫かな。今日は車?」
『運転中だったらお前とこうして悠長に通話なんてしてられねーよ。お巡りさんだぞ』
「ふは、そうだね。じゃあ歩きか」
『帰りはタクシーな。今日は飲みてぇから付き合えよ』
「ふふ、はーい」

電話越しに陣平くんが小さく笑ったのがわかる。日々忙しく過ごしてる陣平くんとのデートは居酒屋が定番だけど、彼おすすめの美味しいお店に連れて行ってもらえるから私は毎回楽しみなのだ。今日はどんなお店だろう。

「それじゃ、また後でね」
『あぁ。…気をつけて来いよ』

通話を着る。カップの中のコーヒーはすっかり空になっていた。

「それじゃ、そろそろ行くね」
「うん。…あ、弱くはなったけどまだ降ってるみたいだから、これ持っていって」
「傘?…いいの?」
「ビニ傘で悪いけど、俺が使ってる置き傘だからあげる。俺は折り畳みがあるから大丈夫」
「ありがとう、使わせてもらうね」

降谷くんのコーヒーはとても美味しくてまた飲みに来たいけど、多分、私はあまりここに来ない方が良いんだろう。
降谷零≠知る人物は、ここには近付いたらいけない。そんな気がする。彼が降谷零≠ニして過ごせるようになるまでは、きっと。だから、傘は返せないな。多分降谷くんも、返してもらおうなんて思ってない。
レジで会計を済ませた。彼から私にはきっと何も言えないだろう。だから、お節介だとはわかりつつもひとつだけ。

「あのね」
「うん?」
「君がまた本名で過ごせるようになったら…その時は連絡してあげて。きっと喜ぶから」

喜ぶ?いや、怒るかもしれないな、彼らなら。なんで今まで連絡しなかったんだよ!ってそれこそ殴り合いに発展しちゃうかも。でもそれって、そういう相手がいないと出来ない事なのだ。陣平くん、萩原くん、伊達くん…降谷くんには、三発くらいは覚悟してもらおう。
降谷くんは、それには何も答えなかった。少しだけ目を細めて笑って、何事も無かったかのように「ありがとうございました」と口にする。

「ご馳走様でした。…またね、安室くん」

次に会う時は。次に会える時は、彼の本当の名前で呼べるといい。涼やかなベルの音を背中に受けながら、私は喫茶ポアロを後にした。
これは、雨の日の夢だった。


***


「陣平くん」
「おう」

駅前に行くと、既に陣平くんが待っていた。夜でもサングラスしてるの、やっぱり少し変だなぁなんて思う。まぁ、彼はサングラスがすごく似合うからなんとも言えないんだけど。

「お待たせ。お腹空いちゃった」
「美味いとこ連れてってやるよ」

陣平くんが傘を差し出してくれるから、私は自分の持っていた傘を閉じて彼の傘へと入る。肩と肩が触れ合って、なんだかむず痒い気持ちになる。近くにいられるのが嬉しいから何も言わない。
彼と一緒に歩き出せば、陣平くんはふと私の方を見て言った。

「…なんかいい事でもあったか」
「え、どうして?」
「そう見える」

いい事。そうだね、あったかな。でも内緒。今は内緒。彼は首を傾げて怪訝そうな顔をした。

「心配しなくても浮気じゃないよ」
「んな心配はしてねーよ」
「ふふ、良かった」

彼の腕に自分の腕をそっと絡める。近付くと慣れ親しんだ煙草の匂い。彼から香る煙草の匂いが、私は好きだ。
私の様子に陣平くんはしばらく不思議そうな顔をしていたけど、すぐに興味をなくしたのかそれ以上は追求してこなかった。

「ミナ」
「うん?」

駅前から離れて、人通りが少なくなった辺り。赤信号で立ち止まると、陣平くんに声をかけられて顔を上げた。サングラスを外した彼の顔が近付いてくる。目を閉じれば触れる唇。外界とは傘が遮ってくれる。音さえ遠ざかって、ゆるりと舌を絡めた。この苦味さえ、私にとっては愛おしいものだ。

「…サングラス、」
「うん?」
「どうして外したの?」
「キスしやすいように」

それと、お前の顔が見やすいように。そんな事言わないで欲しい。恥ずかしくて溶けちゃうかもしれない。
陣平くんは赤くなった私に小さく笑うと、外したサングラスをシャツの胸元へと引っ掛けた。サングラスをしている彼はもちろん好きだけど、やっぱり素顔の彼が一番好きだ。整った顔を見上げながらそう思う。
目が合うと微笑まれて更に恥ずかしくなったから、私は咄嗟に声を上げた。

「横断歩道の白いところ以外を踏んだら死ぬ!」
「なんだそれ」
「昔よくやったでしょ?」
「ガキの頃な」
「というわけで黒いところを踏んだら奈落の底まで落ちて死にます」
「そりゃあ怖ぇな」

信号が青に変わる。陣平くんと顔を見合わせてお互いに小さく吹き出す。絡めた腕に力を込めて、体をぐっと近付けて。
一緒に大きく踏み出す第一歩は、白。水溜まりを踏んで、足元で光が弾けていた。