記者と歌姫の出会い
(アラクとイネル)
その日僕は珍しく落ち込んでいて、頭に灰色の雲を纏いながらそのカフェに立ち寄った。城下町の外れにあるカフェで、同業者や友達からの評判が高かったが、僕はまだそこに行ったことが無かった。
赤いレンガを積み上げられた壁がよく目立つ建物で、店の外に置かれたり吊るされたりしている様々な洋燈の数が異常に多い。夜の幻の中でそれらは幾つも火が灯されていて、建物と共によく目立つ要因になっていた。
擦り硝子の窓の向こうで、人影が動く。ぼんやりと視界が霞む。灰色の雲の層が積み重なってきたのだろうか。自分の幻なのに自分でよくわからないというのは、何とも気恥ずかしいことだ。
(なんか、らしくないな)
真鍮製のドアノブに手をかけたところで、人知れず溜息をつく。こんなに幻を身につけたまま、そこそこ人もいるようなカフェに入ろうとするだなんて。そしてそれを気恥ずかしいと思い、ドアの前で逡巡しているなんて。
深呼吸をして、呼吸を落ち着ける。吐いた息が雲を吹き飛ばす。よし。
心の切り替えと同時にドアを開けると、ドアベルがカラン、と綺麗な音を立てた。顔にかかる煙は幻の雲ではなく、香ばしい珈琲の蒸気だ。
「いらっしゃいませ」
声をかけてくれたのは、カウンターに立っている初老の男性らしい。手元には数個のサイフォンが置いてあり、珈琲を淹れているところだというのが瞬時にわかる。
「いらっしゃいませ、お好きな場所にお座り下さい」
今度は違う声が店の奥から聞こえた。見るとそこには、こちらをじっと見つめながら会釈する少女がいた。彼女の月の髪飾りが揺れる。ありがとう、と返事をして適当に窓際の席に座ったが、内心少し驚いていた。
(あの子がもしかして……)
少女は一つのテーブルの上に手帳を広げ、何かを書いている途中だったらしい。また作業を続けようとしたのか一旦椅子に座ったが、思い出したかのようにカウンターへと向かう。初老の男性と話す様子がとても微笑ましい。
注文を取るためにカウンターへと声をかけると、初老の男性の方がメニューを持ってきてくれた。一度受け取れば良かったものの、僕は瞬時に「珈琲を一つ」と、言い放ってしまった。男性は了承して、メニューを持ってカウンターへと帰っていく。
(ああ、今のは感じが悪かったりしただろうか)
少し口を開きかけたが、ゆっくりと閉じて、黙って珈琲の香りを胸いっぱいに吸いこんだ。とても良い香りだ。焦っていた気持ちが、すぐに落ち着いていくのを感じる。口に含むと、爽やかな酸味とほろ苦い後味が広がっていく。
するとレコードの音が止み、ピアノの鮮烈な音がした。はっとしてそちらを見やると、店の奥に少し床が高くなったステージのような場所があり、そこにピアノが置いてあった。小型のアップライトピアノで橙の花柄のカバーがかけてあったからか、一目では気づかなかった。
ピアノを弾いているのは先ほどの少女だ。僕以外誰も客がいない店内で、彼女は輝いて見えた。店の外に比べて店内は薄暗かったので、余計に。
様子を見守っていると、少女が歌い始めた。イオメリ、イオメリ、イオメリ――最初に繰り返されたそれは、古くから在る言葉だった。儀式のような荘厳な雰囲気を持ちながらも、柔らかいメロディー。彼女の透き通る水のような歌声にもよく合っている。
有明に浮かぶ月
月に纏う雲
共に空へ行こう
伸びやかな調子で続く歌の、歌詞を聞き取る。素直な言葉の一つ一つが幻となって視えてくるようだ。
少女の青紫の瞳が瞼で覆い隠されて、歌の終わりの音を歌いきる。響いた音が完全に消えてから少女は口を閉じ、背中を折って礼をした。すっかり見惚れていた僕は、少し遅れてから何度も拍手をした。
「いやあ、歌姫の歌がこんなに素晴らしいだなんて。感動しちゃったよ」
このカフェの名前は〈歌姫のとまり木〉といって、その名の通り歌姫が素晴らしい歌を聞かせてくれる憩いのとまり木のような場所だ、と以前から風の噂で聞いていた。夜に来たのも、夜に歌うと聞いたのを思い出したからだ。突然の来店とはいえ、歌姫の歌が聞けて本当に良かった。確かに僕は此処にいる。そう実感することができた。
「……やっぱり、あなたの幻って雲なんですね」
辺りにふわふわと浮かぶ純白の雲。歌姫の少女は、近くにある雲を触りながらにっこりと微笑んで僕に話しかけた。幻だから本当に触れているわけではないのに、僕の心に直に触れられたような、そんな心地がした。
「そう、これが僕の幻の容。出会って早々、何だか恥ずかしいな」
「さっきあなたがお店に入ってきた時、少し灰色の雲が背中にくっついてました」
「あ、まだくっついてたのか。でも、今じゃすっかり真っ白だ。君のおかげだよ、ありがとう」
「こちらこそ、ずっと歌を聞いてくれてありがとう……ございます」
「うん。それと、畏まった話し方じゃなくていいよ。僕と君、そう歳も変わらないだろうし」
「……あ、ありがとう」
隣のテーブルに彼女が座り、僕は残りの珈琲をゆっくりと味わう。そこに、男性がもう一つ珈琲を持ってきて彼女のテーブルに置く――そぶりを見せて、僕のテーブルの向かい側に置いた。
「恥ずかしがらないで、一緒のテーブルに座って話でもしたらどうだい」
男性が少女に話しかける。
「マ、マスター……そんなにはっきり言われると、余計に恥ずかしいでしょ」
「はいはい。なあ青年、初めての来店でイネルと話せるなんて君、ラッキーだなあ。今日は客がいないからわかりにくいだろうが、普段はそこそこ人気者の歌姫なんだぜ」
「マスター!」
「はいはい、俺は食器洗いでもしてるよ」
男性――マスターは、やはりこのカフェの店主のようだ。そして、歌姫――イネルと同じ髪色をしている。
「君、イネルっていうんだね。自己紹介が遅れちゃった、僕はアラク。よろしくね。ところで、マスターと君って血縁なのかい?」
「うん、そう。マスターは私の叔父なの」
「そっか。優しそうな目元とか、落ち葉みたいな髪色が似てるなあと思って」
柔らかい茶色の細い髪で、灯りに照らされたところは橙や赤にも見える。各地を歩き回っている時に、よく落ち葉の布団の中で眠るのを思い出す。柔らかくて温かくて、僕は落ち葉が大好きだ。
「ありがとう。アラクの太陽みたいな赤毛も素敵よ」
僕の髪は、橙がかった赤毛だ。ごわごわで、ちっとも櫛が通らない強情で日に焼けた藁みたいな髪。よく手入れされた彼女の髪とは、まるで育ちが違う。
「あはは、ありがとう。初めて褒められて、この髪も喜んでるよ」
ひとしきり二人で笑ってから、僕は店に入る前にイネルが何かを書いているのが気になった。奥にあるテーブルに依然として置かれたままのその手帳は、随分と使い慣らされたものらしく、皮の表紙が擦り切れていた。
「そういえば、僕が店に入る前に君は何か書いていたね。何を書いてたんだい?」
「人に見せられるようなものじゃないけれど、詩を書いてて……」
「詩、かあ。素敵なことじゃないか」
正直を言って彼女の書いた詩をとても見たかったけれど、その時は追求しなかった。手早く手帳をしまわれてしまったし、あまり見せたくないと思っているのは確かなようだった。それほど大切なものなのだろう。初対面の、軟派そうな男には軽々しく見せられない程の。
「実は僕は、とある雑誌を執筆及び編集及び発刊をしている記者でね。人が何かを書いていると、つい気になってしまうんだ。これ、今月号。良ければ君に貰ってほしいな」
「これは『幻視世界探訪記』ですね」
「知ってる?」
「うん。本屋で何度も見かけたよ」
「じゃあ、これを機に、読んでみない?」
「読んでみる!」
目をきらきらと輝かせて、早速中身をめくってくれる。ある写真家に頼んで綺麗に撮ってもらっている幻の写真のページに目を瞬かせた後、僕が書いた文章を端から端まで全部読んでくれている。
「すごい……『幻視世界探訪記』って、こんなに素敵な雑誌だったんですね」
「ありがとう。数十頁しかないし部数も少ない雑誌だけど、毎月頑張って書いてるよ」
「楽しく」と言いかけて「頑張って」にした。楽しく書いているのは勿論だけれど、それだけで毎月雑誌を出せる程の力は無い。何としてでも誰かにこの世界の事を伝えたいし、今此処に僕が、そして皆がいた証を作りたい。僕なりに出来るその方法は、これしかなかった。
「私、旅行記ってもっと味気ないものだと思い込んでいたの。でも、アラクが村々を訪れて村人と語らったり幻を見つけたりする風景が、本当に見えてきそう」
イネルは酷く感動してくれているようだった。彼女の周りが揺らめき、全ての環境音が遠くに聞こえる。これがイネルの幻の容らしい。水や空気を揺らす、波紋。体が震えるような、感覚。
「幻は僕たちの目には普段見慣れているものだけれど、あまり幻のことを文章に書いたり記録に残したりはしないだろう? だから、どうしても書きたくてね。幻を視る僕たち人間と、この世界のことを」
此処に来るまで落ち込んでいたその原因は、この今月号の『幻視世界探訪記』を発行する際に、製本工房に指定した部数を一桁間違えてしまって、一桁分多く刷られた『幻視世界探訪記』の在庫を抱えてしまい費用も一桁分多く消えてしまったことだった。来月分は通常の部数よりも更に少ない部数を発行させられるかどうかの瀬戸際で、懐の金は気にしない自分でも戦々恐々としている。
しかし、それぐらい、まだ何とかなる。元来自分は旅にあまり費用がかからないので、再来月の旅の際には旅の道中何か収入になることでもすればいい。村では城下町の物品が定価以上で売れるし、城下町では村の工芸品や作物が高値で売れる。今まで収入は雑誌の売り上げしかなかったが、今回は何とか我流の貿易でもして頑張ろう。雑誌を続けるために。そこまで前向きに考えられる程に〈歌姫のとまり木〉でのひと時は、アラクの心に道標の明かりを灯した。
〈歌姫のとまり木〉の夜は長い。
歌姫は歌う。例え誰も客がいない時でも、歌姫は歌う。彼女は彼女のやり方で、この世界と幻に想いを馳せるために。
今宵訪れた客は、流れる雲のような青年。まだ閉じられた手帳が開くことは無かったが、その手帳が二人の間で開かれる時はそう遠くない。
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