紫煙の夜に沈む // ep.10



 重厚な木製の机が、部屋の中央近くにどっしりと構えている。磨き込まれた天板の上には、背の高い書類の山と、数冊の分厚いファイル、古びた真鍮のペン立てが無造作に並んでいた。壁際には書棚が連なり、革張りの背表紙が静かに光を吸い込んでいる。窓は分厚いカーテンで半ば閉ざされ、差し込む光は鈍く、部屋全体を落ち着いた影色に染めていた。
 室内には静かに動く振り子時計の音と、美咲の声だけが満ちていた。
 その机の向こう、椅子に腰掛けた男は、美咲の話を聞き終えると、楽しげな笑みを浮かべた。
 彼の正面に立つ美咲は、その表情に呆れたような息を吐く。
「何がそんなに面白いんだよ」
「え? 美咲が出し抜かれたこと」
 男は手にしていたペンをくるりと回しながら、何でもないように、それでいて語尾にハートでもつけそうな勢いで言った。これでいて、この男に挑発する意図はない。だからこそ、厄介だ。
「でも、水瀬がいうとおり、美咲はあくまでもハッカー──クラッカーっていうほうが正しいのかな。どっちでもいいや。『情報屋』ではないからね。本職に勝とうっていう方が、無理難題でしょ。君がかつて、殺し合いで誰にも負けなかったように」
「今だって、ひとりふたり、殺すくらいはできる」
「強がるものじゃないよ。次に君になにかあったら、俺のお姫様が泣いちゃうでしょ」
 思わず食い下がると、男は軽く笑って言葉をいなし、椅子に深く腰掛けた。両手の指を組み、その上に顎を預ける。視線は美咲を射抜くように静かだった。
「……俺だって、すみれを泣かすのは本意じゃねえよ」
「そうでしょう? だから、いい子にしてて。必要なときには、動いてもらわなくちゃいけないんだし」
 美咲が苦虫を噛み潰したような顔をする一方で、男は整った顔に、感情の抜けた笑みを貼り付ける。
 組んだ指先を解き、男は背凭れに体を預けた。
「ま、その『情報屋』のことはいいや。俺の邪魔になるって感じじゃない。一応、仁に飼われてるみたいだしね」
「父さんは、水瀬のことをコントロールしてるわけじゃねえぞ」
「うん。そうだろうね。でも、彼もこっちに足を踏み入れてるんだ。まさか、礼儀知らずの餓鬼でもないだろ?」
「少なくとも、最低限のルールは知ってる」
 美咲の返答に、男はひとつだけ頷いた。納得したようにも見えるし、面白がっているようにも見える。
「それにしても、紅々縷が言っていたことも気になるなあ。撃たれたのに平然としてたんだって?」
 男は言葉を区切ると、美咲を見上げて口角を擡げる。
「美咲が『情報屋』だったら、それぐらい持ってこれたかもね」
「悪かったな」
 舌打ちをする美咲に、男は「そう拗ねないでよ」と揶揄するような声音で告げる。
「いいよ。もう下がって。水瀬については──そうだね、こっちでも少し調べておこう」
 美咲は小さく息を吐き、視線を外すと背を向けた。足音が遠ざかり、扉が静かに閉まる。
 部屋には、書類の山と、男の手の中でくるくる回るペンだけが残された。
「面白いことになったなあ。答えが何であれ、俺には関係ないんだけどさ」
 椅子の背に身を預けたまま、男──十束飛燕ひえんは天井を仰ぎ、愉快そうでいて底の見えない笑みを浮かべた。

    §
 
 黒い遮光カーテンが、相も変わらず昼間の光を閉ざしている。青年は退屈そうにソファに身を沈め、スマホを指先でいじっていた。
『もう少し、お小遣いは多めに渡しておいたらよかったね』
 依頼の成果を報告した際に、最後に仁が見せたスケッチブックの文言だ。美咲には黙っているように交渉したが、案の定、経緯ごと伝わっていた。
 ──まあ、そうだよな。俺、ちゃんと仁さんに経過報告してたし。
 正直、どうでもいいが面倒だ。『情報屋』としての信頼を保つためにしたことが、まさか裏目に出るとは。
 仁から振り込まれた報酬額を眺め、スマホを握った手をそのままソファの背凭れに引っかける。
「このコート、もう捨てちゃっていいですか? シャツもですけど」
 部屋の奥から、ゴミ袋とコートを手に持った恭が姿を見せた。透明な袋の中には、既に黒い布の塊が納められている。コートについては意見を仰ぐわりに、シャツについては聞くつもりがないようだ。
 彼女の手にあるのは、先日、青年が着ていたコートだ。背中には、小さな穴がひとつ空いている。
「直して着るほどのものじゃないからね。お気に入りのコートじゃなくてよかった」
「似たような服しかないのに、お気に入りとかって概念あるんですか?」
「あるに決まってるだろ。俺をなんだと思ってるんだよ」
 恭は少し間をおいて、「……物臭?」と小首を傾げる。
 彼女の言葉に青年の眉がわずかに寄せられる。しかし、反論は言葉にならず、吐き出された呼気と共に空間に溶けて消えた。