白影に滲む視線 // ep.02
十束は企業ではなく、あくまでも『家』だ。
その意味を知る者は少なくない。十束飛燕を訪ねるには、会社の受付ではなく、本拠地である屋敷の門を叩かなくてはならないのだ。
裏社会に属する人間であれば、誰でも一度は耳にしたことがある十束という名。この街を裏で牛耳る凰龍会でさえも、その立場は十束の番犬にすぎない。
彼女の脳裏にあったのは、悪名と財で築かれた威圧的な豪邸のイメージだった。
だが、目の前にそびえているのは、どこにでもある一軒家。拍子抜けしたように、恭はただ瞬きを繰り返した。そんな彼女をよそに、青年は肩をわずかに落とし、面倒くさそうな表情でインターホンを押した。
鳴り響く電子音に応じて、扉が開く。
現れたのは、このご時世には珍しい、クラシカルなメイド服に身を包んだ女性だった。漆黒のロングスカートがわずかに揺れ、胸元まで真っ白なエプロンがきちんと掛けられている。時代錯誤ともいえる姿なのに、不思議と馴染んでいる。
「お待ちしておりました。
女性特有の柔らかな声音だ。彼女は二人を見て、唇の端をゆるやかに上げた。
「どちらでも。本名は隠してない。知らなかった?」
「ええ、承知しております。もし、あなたほどの『情報屋』が己の出自を隠すのであれば、わたくしごときには到底探ることはできませんでしょう」
謙遜に見せかけた皮肉だ。
恭は二人のやりとりを聞きながら、言葉の裏に漂う鋭さを感じ取る。
このメイドは青年の本名を知っていた。それなら、恭のことも知っているのだろうか。
当然ともいえる疑問を抱き、窺うような視線を向ける。恭が視線に滲ませた意図を、女性は汲み取ったらしい。
「もちろん、存じております。恭様。水瀬様とご一緒に暮らされているとか」
恭はわずかに目を見開いた。
「すごい! そこまで知っているんですねえ!」
無邪気に見える笑顔を浮かべ、恭はわざと声を弾ませた。張り詰めていた空気を壊すように響く。
「冗談はやめてくれる? こいつが勝手に住み着いてるだけ」
至近距離で聞こえる恭の声に、片耳を塞ぐように指を添える。鬱陶しさを隠さず表情に滲ませて吐き捨てた。
横で恭がなにやら喚きたてているが、無視する。鬱陶しさを押さえ込むように、その顔を片手で押さえ、メイドに向き直った。
「俺がここに来た理由も知っているんだろ。君の主人に会いたい」
「そうですね。こういうときは、『アポイントはお取りいただいておりますか?』と定型文をお返しすべきでしょうか」
頬に片手を添え、目元だけで笑みを作りながら、わざとらしく困った素振りを見せた。
「飛燕さんがお待ちです。どうぞ、こちらへ」
一歩引いたメイドが、二人を招き入れるように玄関を手で指し示す。
二人は顔を見合わせた。入らないという選択肢はない。そのために来たのだから。
最初に足を踏み出したのは青年だ。その後ろを、恭が続いた。
招かれた部屋は、恭の想像を裏切るようにシンプルだった。重厚な木製の机が中央に置かれ、天板には書類が山のように積み上がっている。その傍らには、飲みかけのまま冷め切ったコーヒーカップがひとつ。分厚いカーテンで窓が覆われ、飾り気の少ない部屋は落ち着いた影色に包まれていた。
「ようこそ、俺の城へ──なんてね」
机の向こう側。椅子に座る男──十束飛燕は、愉しげな眼差しの奥に影を宿しながら二人を見上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ま、寛いでよ。取って食ったりはしないし……ねえや、お茶を出してあげて」
「畏まりました」
メイドは一礼して、部屋を後にする。
「さて、君たちは俺にどんな話をしてくれるのかな?
言葉を区切った飛燕が、真っ直ぐに青年を見る。
「まさか、俺の期待を裏切るなんてことないよね?」
笑みを浮かべながらも、その眼差しに温度は欠片もない。恭は青年に視線だけを向け、膝の上で手慰みに指を組む。
飛燕の脅しともとれる言葉に対し、青年がどう思っているのか。心の中まで覗けるわけではない。
思案したのは数秒で、恭はすぐに思考を振り払う。青年のことだ。どうせ、面倒くさいとしか思っていないに違いない。
十束の家がどれだけの影響力を持っていようと、青年にも恭にも関係がない。青年にとって『情報屋』という稼業も、退屈しのぎの延長に過ぎないのだから。
小さく息を吐き、誤魔化すように緩く首を振る。自然と恭の体が脱力し、柔らかいソファに沈んだ。