Chapter 0 – Protocol: Null



『世界』は笑う。微笑う。嗤う。
 世界を祝福するように。世界を呪うように。世界を憎むように。世界を、愛するように。
『世界』が空間に足をつく。真っ白な髪が、光を帯びて七色に煌めく。身を纏う真白の衣が、柔らかく揺れる。
 宙を閉じ込めた双眸を細めて、口元に緩やかは弧を描き出した。
「おはよう。『世界ぼく』の愛し子ティターニア!」
 静寂を裂くように響くのは、鈴を転がすような可憐な声であり、空気を重く震わせる声でもあった。
 その音に呼応するように、『物語』は目を醒ました。

    §

 そこには何もなかった。
 それがみやびの抱いた、最初の感想だ。ぼんやりとして定まらない焦点を合わせるために幾度か瞬きをする。
 その視界に薄紅の花びらが飛び込んだ。
 桜の木だ。雅の頭上で、枝を飾っている。
 差し出した掌に、薄紅が乗る。すぐにどこからともなく吹く風に攫われてしまった。なんとなしに視線で追いかけた、その先に、縁側が見える。ここはどうやら、どこかの屋敷の庭であるらしい。
 庭というには、随分と物寂しい場所だ。
 ここにあるのは、一本の桜の木しかない。それ以外に植えられた木々はなく、花壇のようなものも、池も、砂利もない。雑草ひとつ生えていない土の上に、その桜だけが佇んでいた。
 庭の手入れなぞしたことはないが、雑草がないというのは、ある種、理想的な環境なのかもしれない。
 空に向けたままだった掌を、重力に従って下ろす。着物の袖が、彼の動きに合わせて揺れた。
 ゆったりとした足取りで縁側に近付き、沓脱石の上で下駄を脱ぐ。襖に指をかけた。
「そこには、なにもないですよー」
 少女の声だ。つい数秒前まで、この場には雅しかしないはずだった。
 咄嗟に振り向くと、黒い猫を腕に抱えた少女が立っていた。黒地に赤い彼岸花の描かれた着物を着ている。
 しかし、雅の目を奪ったものは、猫でも、着物でも、ましてや、少女自身でもない。彼が見ていたものは、その下──彼女の足元だった。
 そこには、何もないはずだった。それなのに、いまは、赤い色が一面を埋め尽くしていた。燃え盛る炎を思わせる赤色の正体は、彼女の着物に描かれているのと同じ、赤い彼岸花だ。
「……『彼岸花』」
「はじめまして! どうぞ、百花ももかとお呼びくださいな」
 にこり、と。擬音が聞こえてきそうなほどに、綺麗な笑みを浮かべて少女──百花が名乗る。
「『世界』にはお会いしましたか?」
 首を振る。
「あらら、そうなんですねー。じゃあ、あなたはなにも、知らない?」
 沈黙。数秒の間をおいて、雅は少女を見下ろした。
「自分の役割はわかる。君が『彼岸花』であることも」
「ご自身のことは?」
「『桜』──だろ」
「ぴんぽんぴんぽん、だいせいかーい! とはいえ、私も別に案内人とかじゃあ、ないんですけどねー」
 楽しそうに百花が声をあげて笑う。そうして、彼女は一歩足を前に踏み出した。それにあわせて、彼女の足元で次々と彼岸花が花開く。
 赤が侵食してくる。
 けれど、彼女の歩みは唐突に止まる。視線を滑らせて、桜を捉えたところで、納得したようにひとつ頷いた。
「ここが境界線みたいですね。……まあ、私もただご挨拶に来ただけですので」
「用事はそれだけ?」
「そうですよー? それだけじゃない方がよかったです?」
 揶揄うように笑う百花に、雅は視線だけを返す。
「ああ、そうだ。『梅』と『桃』もいるってご存知ですか?」
「知ってる。まだ、会ってはいないし──会いたくもないけれど」
 今まで表情を変えなかった雅が、わずかに、眉を寄せる。
 そんな小さな表情の変化に、百花はおかしそうに笑った。
「会わず嫌いは駄目ですよー?」
「食わず嫌いみたいに言わないでくれるかな」
「ま、いいや。私はこれくらいで! ただ、お花見に来ただけなので」
 百花は一方的に会話を切り上げると、先ほどとは異なり、一歩だけ足を後ろに下げた。彼女の腕の中で、猫がひとつ鳴く。
 大きく風が吹き上げ、視界を薄紅が埋め尽くす。咄嗟に、雅は袖で顔を覆った。
 風が落ち着いた庭には、少女の姿も──彼岸花も、まるで幻であったといわんばかりに、姿を消し去ってしまっていた。
「なんでもありだな」
 思わずといった調子で、口から言葉が飛び出した。
 なんでもありなのは、そうだろう。なんたって、ここは、

 ──『物語』の外側なのだから。