紫煙の夜に沈む // ep.08
机に放っておいたスマホが振動する。凝り固まった首を解すように回しながら手に取った。知らない相手からの通知に眉が寄る。
数秒の間をおいて、内容を確認する。
『犬の躾くらい、きちんとすべきだと思うよ』
なんのことだかわからないメッセージと共に、地図が添えられていた。うちも取引で使ったことのあるライブハウスの地図だ。
メッセージの主を調べようとパソコンに向き直り、『犬』という単語を脳内で反芻する。本物の犬は飼っていない。この単語は指し示すのは、おそらく、紅々縷のことだろう。
自分から、紅々縷を飼い犬のように扱ったことはない。紅々縷の態度を見て、周りが言い出したことだ。
若頭である父さんの言葉にも従わない問題児。それがどういうわけか、俺には懐いている。その様子を見て、組員は口々に言った。
「紅々縷は坊ちゃんの犬ですね」
「狂犬と思っていましたが、まあ懐いてるってんなら可愛いものじゃないですか」
「坊ちゃんを守ってくれる忠犬がいるなら、俺たちも安心ですよ」
仮にも女を犬扱いするのはどうなんだ。組員たちの言葉に反発する気持ちがなかったわけじゃない。けれど、言われてる張本人が、気にした素振りも見せないのだから、俺には否定することもできなかった。
それどころか、紅々縷は俺の犬として扱われることを、喜んでいる様子すらあった。真っ白い肌をほんのりと朱に染めて、あどけない顔をして笑うのだ。
「みぃちゃんの犬だって!」
紅々縷が俺のどこをそんなに気にったのかは、わからない。特別なことをしてやった覚えはない。他の組員にするように接していた。まあ、俺よりも年下っぽい女の子だったから、多少は甘くなってしまったところもあったのかもしれないが。だとしても、違いなんて、たったのそれだけだ。
「紅々縷の躾なんて、できるわけねえだろ」
機械音だけが響く部屋に、俺のひとりごとが落ちる。
紅々縷が俺に従っているように見えているのであれば、それは彼女の本質が見えていない証拠だ。紅々縷は俺の言葉に従順なわけではない。確かに、父さんや若衆たちの言葉よりも、俺の言葉を聞くのかもしれない。しかし、それはあくまでも、彼女の中で俺の指示が腑に落ちた場合だ。
紅々縷は選んでいる。誰に従うか、ということ。
そして、彼女は誰の命令もなく、動けてしまう。そこに、正義も、論理も存在しない。彼女は己の感情と本能に忠実だ。人間なら誰でも持っているような理性が、思考が、恐怖心が、抜け落ちてる。
俺が刺されたと知った瞬間、病室を飛び出そうとしたときだって、そうだ。
椅子にもたれた拍子に、右脇腹の筋肉がひきつるように硬直した。呼吸が胸のあたりで途切れ、深く吸おうとすると脇腹の奥が抵抗する。
鈍く響く感覚に、思わず息が詰まる。あの時の医者の顔が脳裏に浮かんだ。
「脇腹の筋肉と神経が深く損傷しています。完全な回復は難しいでしょう。歩行や日常生活は可能ですが、今後は全力で走ったり、体を大きくひねる動きは痛みやしびれが出るはずです」
数年前に告げられた言葉を思い出す。無意識のうちに、手が脇腹へと落ちる。
記憶が過去に引きずられそうになるのを、寸のところで引き戻す。首を左右に振り、意識を振り払う。
肺いっぱいに空気を入れようとした瞬間、右脇腹の奥が鋭く引き攣った。途中で呼吸が止まる。深呼吸ひとつできないなんて、不便な体になったものだ。
それでも、俺を刺した女を恨もうなどとは、思わなかった。彼女がどうして、そんな犯行に及んだのかはわからない。俺が退院するころには、彼女は転校してしまっていたからだ。
今なら連絡先を調べるくらいは可能だろうが、自分が刺したかつての同級生から、急に連絡が来たら怖いだろう。直接は聞いていないものの、彼女が転校を余儀なくされたのも、うちの組が脅したからだろうしな。
どこか知らないところで、穏やかに生きてくれているのならば、それで──
思考が止まる。改めて、メッセージと地図に目を向ける。
昼間、父さんに客が来ていたはずだ。客間を覗くことこそしなかったが、父さんが直接対応する客なんて、そういない。
父さんに呼び出された『情報屋』。謎のメッセージ。『犬の躾』という単語。
「……今の俺に、なにができるって言うんだよ」
吐き捨てた声は、俺が思っているよりもずっと低い。
椅子から勢いよく立ち上がった反動で、腹の奥に鋭い痛みが走った。思わず腰を押さえ、呼吸を整えながら、歯を食いしばって姿勢を正す。スマホをズボンのポケットに捩じ込み、脇腹の裂けるような痛みを無視して、部屋を飛び出した。
紅々縷は俺の言葉に何でもかんでも従うわけではない。けれど。そうだとしても、彼女が俺の犬だというのなら、これは飼い主の責務だろう。