紫煙の夜に沈む // ep.09



 走って来た青年は一瞥して、すぐに状況を理解したらしい。深く息を吐き出しながら歩み寄り、拳銃を構える紅々縷の頭を軽く叩く。
「馬鹿。なに一般人にチャカ向けてんだ」
「だってえ……」
「だってじゃねえ!」と吐き捨てるように言い、乱暴に手を振った。
「ああ、もう、いいからお前は黙って座ってろ」
 先ほどまでの張り詰めた空気が青年──是永美咲の一声で崩れていく。紅々縷も不貞腐れた子どものように唇を尖らせて、その場に素直に座り込んだ。
 無言で美咲が手を差し出す。紅々縷は意図を察し、持っていた拳銃を素直に渡した。
 その一連の流れを見ていた恭はぽかんとした表情を浮かべる。
 彼女の持つナイフの刃が、青白い光を静かに弾き返していた。
「お前らが『水瀬』か? うちのが迷惑をかけたな」
「いいえ、お構いなく。あなたのお父様に、上乗せして請求させていただきますので」
『水瀬』という言葉に反応を示し、先ほどまで膝をついていた青年が立ちあがる。血に濡れたコートが風に揺れ、その下の足取りはまるで何事もなかったかのようだった。彼は平然とズボンやコートについた汚れを叩き落としている。
 その仕草に、さすがの紅々縷も不思議そうに目を丸めた。致命傷を外してはいたが、確かに、背中を撃ち抜いていた。コートに広がった鮮血は、錯覚などではない。
「……あれぇ、わたし、当てたよねぇ……?」
「あ?」
 小さい声で、紅々縷が呟く。囁くほどの小声を拾い、美咲は片眉を吊り上げた。
 彼女は視線を受けて、緩く瞬きをしてから、飼い主に説明を口にする。
「んん……さっき、ちゃんと……当てたのに、動いてる……変……」
「『変』、じゃねえだろうが! 何やってんだよ、お前!」
 言い終えるが早いか、美咲は紅々縷の頭を掴み、ぐっと前に押し下げた。
「おら、頭下げろ!」
「ごめんなさい……?」
 紅々縷は小首をかしげながらも、素直に謝罪の言葉を口にした。どこか納得していなさそうな色が滲んでいる。
 行為に対してではなく、目の前の不可思議な現象に理解が追い付かないのだ。紅々縷の中にある『常識』では、普通、人は撃たれたら平然と立って歩けるはずがない。掠っただけで動きは鈍るはずだ。
「……ああ、いいよ。気にしないで。ただ、そうだな──不問にする代わりに、俺の条件ものんでくれる?」
「……一応、聞く」
「君を呼び出したのが俺だってこと、仁さんには黙っていてほしんだ。ほら、一応、これは君に知られないように片付けなくちゃいけない案件だからさ」
 しれっと、事もなさげに青年が口にした。
「俺の連絡先、どうやって手に入れた?」
 美咲の目が鋭く細められる。滲む警戒の色に、青年は緩く目を丸めてから、大袈裟に首を横に傾けた。まるで、紅々縷の動作を真似るかのように。
「俺は『情報屋』だよ。君はただ、ハッキングが得意なだけでしょ。君が、彼のためにその道を選んで、ここまでの技術を身につけたことは評価に値するけれど──土俵が違うんだよ」
 淡い月の下で、青年は冷ややかに口元を歪める。だが、美咲を見据える瞳は氷のように無感情だった。
 無意識に、美咲の手に力が入る。冷えた金属の感触が、掌に伝わる。
「いっくん! こら! 助けてもらったのに挑発しちゃ駄目ですってばあ!」
「挑発? どこがさ。そもそも、俺と彼とじゃお話にならない──情報戦においては、ね」
 恭の咎めるような声音に、青年は大袈裟に肩を竦めてみせた。
 わずかに緩んだ空気に、懐に伸びていた紅々縷の手が膝上に戻される。
「あ……あ、……み、さきくん……」
 震えたか細い声が、わずかに解けた緊張に混ざる。視線が一斉に、声の主へ向けられた。腰を抜かした高瀬が、縋るような目を美咲に向ける。
 紅々縷の目が細められる。
 恭と青年は視線を交わすと、何事もなかったように背を向けた。
「高瀬が元気そうでよかったよ。でも、これに懲りたら、金輪際この街には近付くなよ。これは、そこの『情報屋』の温情であって──二度とない奇跡だ」
 紅々縷を叱っていた声音とも、青年と交わしていた声音とも違う。酷く冷えて、温度のない声が、高瀬に鋭く突き刺さった。
 彼女は知るだろう。自分が恋していた是永美咲という青年が幻想でしかなかったということを。彼女はあくまでも、恋に夢を見ていただけであると。

 数歩離れた場所で、恭と青年は彼らの様子を眺めていた。
「裏社会には似合わないほどに優しいね、彼」
「まあでも、彼についてはそれくらいでちょうどいいんじゃないんですか? だって、是永家って──十束とつかの犬じゃないですか」
 青年は笑みもなく、呟いた。
「だから、吠える相手は間違えないんだよ。……躾の行き届いた犬ならね」